10.日常を取り戻すための五日目②
一年前、僕が案内したのは宇佐美さんじゃないのか?
言い終わる頃には、それはほぼ確信に変わりつつあった。
去年の今頃、僕は四年生にもかかわらず研究室訪問の対応をさせられていた。対応といっても難しいことはなく、研究室を案内したり、軽く話をしたりするだけの話だ。相手は同学年なのだから、お互いにやり易い。
記憶にある限り、僕が案内したのは男子が二人と女子が一人。うち一人の男子は強烈なインパクトの所為で、彼が実際に入学してきたとき、直ぐにあの時の人物だと分かった。しかしあとの二人はどうも記憶が曖昧で、入学したかどうかも判然としなかった。宇佐美さんからも、研究室訪問の話が出たことはない。
だからこそ、昨日まで失念していた。かつて会って話をしていたかもしれない女性のことを。
宇佐美さんはしばらく黙っていたが、やがて「忘れられてると思ってた」と小さく呟いた。その表情が今にも泣き出しそうで、僕は何だか落ち着かない気分になる。悪いことをしてるわけじゃないのに、罪悪感が半端ない。
やっぱり言わない方が良かったのか?――早くも自分の言動を後悔し始めた時、僕の耳に噛み締めるような一言が聞こえた。
「覚えてて、くれてたんだ……」
こう、胸が締め付けられるというのは、こういうことを言うんじゃなかろうか。
宇佐美さんの泣き出しそうな、でも微笑みを覗かせた表情と相まって、それは僕に多大な衝撃をもたらした。心肺が一時的に活動を停止したんじゃないかと思ったほどだ。そして、もしそうなっても、この病院で適切な処置を施してもらえるんだろうな、と意味不明なことを考えた。
だけどこんな時――悲しいかな、僕は気の利いた返しをすることができない。どころか、
「いや……正確には、昨日思い出したんだけど…………その……ごめん」
馬鹿正直に真実を伝えてしまう始末だ。もう消えたい。
僕の情けない告白に、しかし宇佐美さんは首を振って言った。
「ううん、それでも嬉しい。だって、思い出してもらえると思ってなかったから」
「……言ってくれれば良かったのに」
自分がすっかり忘れていたことを棚に上げてよく言うなと、自分にツッコミ。
いやでも、最初に言ってくれれば、もっと早く思い出してたかもしれないと思う。それこそ、入学して直ぐに。
「最初は緊張してたし……なんか、話しかけにくくって……。ほら、新和くんは人気者だから」
「人気者? 僕が?」
まさか。初めて聞いたぞそんな評価。
確かに学部時代からの連中とは、付き合いが長い分よく話をするけど。研究室のメンバーに囲まれてわいわい、というのはない。どちらかというと、一人でいるのが好きなタチだ。
「そうだよ。みんな新和くんのこと凄いって尊敬してるし、後輩にも頼りにされてるじゃない」
「うーん……。まあ、そうなのかな」
「それに入ったばかりの頃は、いつも忙しそうにしてたから」
「あー……」
それはアレだ。僕の卒論が文学部の最優秀論文に選ばれたからだ。だから、進学と同時に、早くどこぞの雑誌に投稿しろとせっつかれてたのだ。……うん。確かに、六月頃までは狂ったように研究に没頭していたな。そういえば、宇佐美さんともほとんど喋ってなかったっけ。
思えば、猫化現象が起こったこの五日間が、最も会話らしい会話をした時間だったのかもしれない。
「だから言い出せなかったの。それで新和くんも、私を見ても何も言ってくれなかったし、これは忘れられてるんだろうなって思って。そんなの、ますます言い出せないよ」
「ごめんなさい……」
結局僕に責任があったのか。いや言い訳をさせてもらえるなら、あの頃は本当に多忙で――。
「えっ、あ、違う違う!」
僕が脳内で言い訳を考えていると、宇佐美さんはいきなりぶんぶんと手を振った。
「謝ってほしいんじゃなくてね。ありがとうって……思い出してくれてありがとね、って話。かなり諦めてたんだけど、やっぱり忘れられてると悲しいじゃない。せっかく有言実行で入学したのに」
絶対入学するから待っててよ――そんな風に、ちょっと挑戦的に言ってのけた人物は、僕が昨日まで認識していた宇佐美千帆とは「別人」だった。でも、今目の前にいる宇佐美千帆とはたぶん「同じ」で。
そうか。つまり、こっちが地なのか。
「やっぱり色々と申し訳ない」
「ええっ!?」
そりゃ、自分のことを忘れてるかもしれない奴に対して、馴れ馴れしく話しかけられないよな。しかもそいつが内部進学者特有のアレな行動ばっかり取っていたら――。
僕は己の過ちを盛大に悔いた。近付き難いと思っていたのは僕じゃない。彼女の方だったのだ。
「お詫びに、何かできればいいんだけど」
罪悪感から解放されたいがために出てきた言葉かもしれないが、今の僕の正直な気持ちだった。
僕の言葉に、宇佐美さんは少し考えてから意外な提案をした。
「たまに、こんな風に話してもいいかな」
「こんな風に、っていうのは……」
「病院で、ってことじゃないよ」
「わかってるって」
なかなか面白いことを言うな、宇佐美さん。僕は笑いながら、彼女の言葉を待つ。
「例えば、昨日みたいに並木通りとかで……」
「え」
ちょっと待て。ということは、あの猫同伴か? 二人で猫を囲んで談笑しよう、と。そう提案されているのか?
「……嫌、かな」
「いやいや全然そんなことないよ!」
途端に表情が曇った宇佐美さんを安心させるべく、僕は精一杯の否定をしておく。何やってるんだ。
「良かった。じゃあ、たまには息抜きに井戸端会議しよう」
「『井戸端会議』って」
「あ、でも」
またしても宇佐美さんの発言に笑いそうになっていると、彼女は急に真顔になって言った。
「他の人は無しで」
「え?」
「だから――二人でってこと」
宇佐美さんは、「それって、やっぱり会議じゃないよね」と言って、うんうんと一人で頷いている。それを僕はぽかんと眺めて、彼女の言葉を反芻した。
並木通りに。二人で。
それってつまり――。
今の僕は、相当可笑しな顔をしていることだろう。だって、あの宇佐美千帆からお誘いを受けているのだ。自分には絶対に縁遠い存在だと思っていた彼女に。信じられない。ミラクルだ。
けど、
「駄目?」
不安と期待とをごちゃまぜにした表情で、宇佐美さんは僕を見る。今まで女性に縁のかなった僕でも「そうなのかな」と思えるくらい、分かりやすい顔で。
これは期待してもいいのだろうか。
「そんなことないよ。じゃあ……よろしく」
「うん、こちらこそよろしくね。新和くん」
僕の気の利かない返答にも、彼女は今まで見た中で最高の笑顔で答えてくれる。
この先もこうして彼女と話ができるのかと思うと、倒れたことも悪くなかったことのように思える。もっと言えば、周囲の人間が猫見えるという、訳の分からない奇病にかかってしまったことさえも。
そういえば、と僕は今更ながら思い出した。
結局あの黒猫は何だったんだろうか。あいつが原因のような気もすれば、別に関係してない気もしてくる。つまるところ、結論は出ていないに等しい。
けどまあ、なんだ。喉元過ぎれば熱さを忘れる、じゃないけど、今となっては「まあいいか」で済ませても良いと思っている。自分は意外と単純な人間だったようだ。
ただ、ちょっと詩的に表現するならば――そうだな。差し詰め、猫が叶えた奇跡、ということにでもしておこうか。
ベッドの傍に来てくれた宇佐美さんを見ながら、僕はそんなことを思った。