婚約破棄の理由が「人の皿から一口食べるから」でしたが、あれは毒見です
「リリア・ベルナール! 貴様との婚約を、今この場で破棄する!」
フェリクス殿下の声が、夜会の大広間に響き渡った。
「夜会のたびに人の皿から勝手に一口奪う、その卑しい真似にはもう我慢がならん! ついには、ロゼッタが私のために焼いた菓子にまで手を出すとは!」
私は、口の中のタルトをゆっくりと飲み込んだ。
舌の奥が、じわりと痺れる。
――ああ、やっぱり。
「はい、殿下。いただきました」
私は、口元をナプキンで押さえて答えた。
「毒が入っていましたので」
*
大広間が、水を打ったように静まり返った。
殿下の隣で、伯爵令嬢のロゼッタ様が、銀の皿を持ったまま固まっている。皿の上には、ひと口欠けた木苺のタルト。
ついさっき、彼女が「殿下のために焼きましたの」と差し出したものだ。
殿下がフォークを取るより先に、私は横から手を伸ばして、一口かじった。
いつものように。
「ど、毒だと……?」
殿下が、ようやく声を絞り出した。
「ふざけるな! 食い意地の張った言い訳にしても、ほどがある!」
「言い訳ではございません」
「黙れ! お前のせいで、私がどれほど恥をかいてきたと思っている! 社交界でお前がなんと呼ばれているか、知らんのか!」
知っている。
《つまみ食い令嬢》。
夜会でも、お茶会でも、狩猟会の昼餉でも。人の皿に手を伸ばして、勝手に一口食べてしまう、はしたない侯爵令嬢。
王太子の婚約者にふさわしくない、悪役令嬢。
それが、私だ。
婚約が決まった頃には、お茶会に誘ってくれる友人が何人もいた。けれど一年が過ぎる頃には、誰も私の隣に座らなくなった。皿を守るように手で覆う令嬢もいたし、わざと私の前に菓子を置いて、手を伸ばすのを笑いながら待つ令息もいた。
殿下は、そのたびに冷たい目で私を見た。恥ずかしい女だ、と。
それでも、手を伸ばすのをやめるわけにはいかなかった。私が一口を惜しめば、その一口は殿下の口に入る。
「存じております。三年間、ずっとそう呼ばれてまいりましたから」
私は、背筋を伸ばした。
舌の痺れが、少しずつ喉のほうへ下りてくる。急がないと。
「ですから、ご説明いたします。私の母の実家は、代々《王家の舌》と呼ばれる毒見役の家です。毒に強い体質を持って生まれ、一口で毒の有無が分かります」
ざわ、と広間の空気が揺れた。
「三年前、陛下から密命を受けました。殿下のお命を狙う者がいる。だから、婚約者として常にお側にいて、殿下が口になさるものをすべて確かめよ、と」
「な……」
「殿下のお皿だけを狙えば、すぐに気づかれてしまいます。ですから私は、皆さまのお皿から少しずつ頂いておりました。どれが本命か、分からないように」
近くのテーブルで、老侯爵夫人が「まあ」と小さく声を上げた。去年、私に焼き菓子を一口奪われて、ひどくお怒りになった方だ。
あちこちで、囁き声が広がっていく。
そういえば、あの晩餐のあと、リリア様は青い顔で早々に帰られた。そういえば、狩猟会のあと何日も姿を見なかった。そういえば、殿下が召し上がる直前に、いつも――。
点と点が、人々の頭の中で線になっていくのが分かった。
*
「――そ、そんなの嘘ですわ!」
ロゼッタ様が、甲高い声を上げた。
「私が殿下に毒なんて、そんな恐ろしいこと! リリア様は、私を陥れようとしているのです!」
「そうだ!」
殿下が、ロゼッタ様の肩を抱き寄せる。
「ロゼッタがそんなことをするはずがない。証拠でもあるのか!」
「証拠でしたら、そちらに」
私は、ロゼッタ様の手の中の皿を示した。
「殿下。残りのタルトを、どうぞ召し上がってくださいませ」
殿下の動きが、止まった。
ロゼッタ様の顔からも、すっと血の気が引く。
「どうなさいました? 殿下のために焼かれたものでしょう。私が一口頂いてしまったお詫びに、残りはすべて殿下に」
「……」
殿下はフォークを持ち上げかけて、そのまま下ろした。
「あ、あら、もう冷めてしまいましたわ! 殿下、また今度焼いてまいりますから!」
ロゼッタ様が、慌てて皿を引っ込めようとした。
その手首を、横から伸びた手が掴んだ。
「失礼。その皿は、置いていっていただきます」
黒い外套に、銀縁の眼鏡。
宮廷薬師のノア・ヴェルナー様だった。
「ヴェルナー薬師……」
「陛下のご命令で、殿下のお口に入るものの検分を担当しております」
ノア様は、ロゼッタ様の手から皿を取り上げると、懐から細い硝子の管を取り出した。透明な薬液に、タルトの欠片をひとつまみ落とす。
薬液が、みるみる濃い紫に染まった。
「《眠り蛇》ですね」
ノア様は、表情ひとつ変えずに言った。
「大人でも、三口で二度と目覚めない。殿下、一口でも召し上がっていたら、今頃ここで眠っておられましたよ。永遠に」
広間のどこかで、令嬢が悲鳴を上げて倒れた。
近衛騎士たちが駆け寄り、ロゼッタ様の両腕を取る。
「ち、違います! 私は、父に言われて――」
その一言が、何よりの白状だった。
近衛騎士に引き立てられながら、ロゼッタ様は何度も何度も、こちらを振り返った。その目にあったのは後悔ではなく、計画を台無しにされた怒りだけだった。
殿下は、ロゼッタ様の肩を抱いていた手を、宙に浮かせたまま立ち尽くしていた。
*
ノア様は、硝子管を懐にしまうと、私のほうへ向き直った。
眼鏡の奥の目が、ひどく不機嫌そうだった。
「ベルナール嬢。何口食べました」
「一口です」
「飲み込みましたね」
「……はい。吐き出すと、ばれてしまうので」
「顔色が最悪です。手を」
有無を言わさず手首を取られ、脈を測られる。冷たい指先だった。
「今月に入って、これで四度目です。あなたは本当に馬鹿ですか」
「毒舌は、薬師様の専売特許ですものね」
「冗談を言う余裕があるなら、黙って座ってください」
ノア様は小さな薬瓶を取り出して、私の手に握らせた。いつもの、ひどく苦い解毒薬だ。
この三年間、毎週のように飲まされてきた味。
泥と鉄を煮詰めたような、舌が縮むほどの苦み。けれど飲み下して少しすると、喉の奥の痺れがゆるやかに引いていく。指先に、ゆっくりと血が戻ってくる。
この味がすると、ああ、今夜も生き延びた、と思うのだ。
私がそれを飲み干すのを、殿下は呆然と見ていた。
「……四度目、だと?」
「はい、殿下。今月は四度目です」
私は空の瓶をノア様に返して、指を折った。
「先週のお茶会のスコーン。その前の狩猟会の葡萄酒。月初めの晩餐の、鹿肉のスープ。それと、今夜のタルト」
殿下の顔色が、私よりも悪くなっていく。
「去年の建国祭のときは、三日ほど寝込みました。殿下には、食べすぎでお腹を壊したと申し上げましたけれど」
「なぜ……なぜ、言わなかった」
「陛下の密命でしたので」
私は少しだけ首を傾げた。
「それに殿下は、私のお話を最後まで聞いてくださったことが、一度もありませんでしたから」
*
「――そこまでだ」
重い声と共に、国王陛下が広間へ入ってこられた。
全員が膝を折る中、陛下は真っ直ぐ私の前まで歩いてこられた。
「リリア嬢。三年間、よく務めてくれた。……そなたを悪く言う声は、儂の耳にも届いていた。密命ゆえに、庇ってやれなんだ。すまぬ」
「もったいないお言葉です」
陛下は、それから殿下へと向き直った。
「フェリクス。婚約破棄を望んだのは、お前だったな」
「ち、父上、それは……知らなかったのです! リリアが毒見をしていたなど!」
殿下が、私のほうへ一歩踏み出した。
「リリア、さっきのは取り消す。婚約は続けよう。これからも、私の側に――」
「お断りいたします」
自分でも驚くほど、すっきりした声が出た。
「婚約破棄、謹んでお受けいたします。殿下がお望みになったことですもの」
「だ、だが、お前がいなくなったら、誰が私の食事を……」
「明日からは、殿下のお皿は、殿下ご自身でお確かめくださいませ」
私は、深く、深く一礼した。
「三年間、人の皿ばかり食べてまいりましたので。これからは、自分のお皿をゆっくり頂こうと思います」
顔を上げると、広間の空気が、すっかり変わっていた。
さっきまで私を嘲るように見ていた人々が、今は気まずそうに目を伏せている。去年焼き菓子を奪った老侯爵夫人は、扇の陰で目元を拭っていた。
私は誰とも目を合わせず、まっすぐに扉へ向かった。
背中に、殿下の視線を感じた。けれど、振り返る理由は、もうどこにもなかった。
不思議だった。三年間、ずっと肩に載っていた重たいものが、一歩進むごとに一枚ずつ剥がれ落ちていくような気がした。
*
広間を出たところで、膝から力が抜けた。
倒れる前に、誰かの腕が私を受け止める。
「だから言ったでしょう、座っていろと」
ノア様だった。
そのまま抱え上げられて、私は宮廷薬師の研究室へと運ばれた。薬草の匂いが満ちた、狭くて散らかった部屋。この三年間、何度も担ぎ込まれた場所だ。
壁一面の棚には、色とりどりの薬瓶が並んでいる。天井からは、乾かすための薬草の束がいくつも吊るされている。机の上には、走り書きだらけの紙が山のように積まれていて、その一番上に、見覚えのある名前があった。
――リリア・ベルナール。処方、第十七版。
私は、それを見なかったふりをした。
長椅子に寝かされ、額に冷たい布を載せられる。
「……あの、ノア様」
「喋らないでください」
「お礼を、申し上げたくて。今夜も、助けていただいて」
「助けたのは、私ではありません。あなたです」
ノア様は、乳鉢で何かをすり潰しながら言った。
「殿下を。三年間、ずっと」
ごり、ごり、と乳棒の音だけが響く。
「私が許せなかったのは、殿下ではありません。あなたです」
「私、ですか?」
「毎週ここへ来て、青い顔で苦い薬を飲んで、『大丈夫です』と笑って帰っていく。……私の薬がもう少し強ければ、もう少し早く効けばと、何度思ったか分かりません」
乳棒の音が、止まった。
「あなたの解毒薬は、この三年で十七回、処方を変えました」
「十七回……」
「毎晩、ここで調合を試していました。あなたが次に倒れたとき、少しでも楽になるように」
ノア様は眼鏡を外して、目元を指で押さえた。
眼鏡のない顔を見るのは、初めてだった。思っていたより、ずっと若い。そして、ずっと疲れた顔をしていた。
「……どうして、そこまで」
尋ねると、ノア様は長い沈黙のあと、ぽつりと言った。
「初めてここへ運ばれてきた日のことを、覚えていますか」
覚えている。毒見を始めて、ひと月目の夜だった。
「あなたは、ひどい熱で朦朧としながら、私に言ったんです。『殿下には、内緒にしてくださいね。あの方、きっと気に病むから』と」
ノア様は、私の手をそっと取った。さっきと違って、その指先は少しだけ温かかった。
「その日から、あなたの皿のことばかり考えるようになりました。あなたの口に入るものに、二度と毒が入らなければいいのに、と」
「ノア様……」
「ベルナール嬢。いえ、リリア」
まっすぐな目が、私を見下ろした。
「これからは、あなたの皿は、私が毒見します」
「……ノア様は、毒に強い体質ではないでしょう」
「ええ、まったく。一口で倒れます」
ノア様は、真顔で言った。
「ですから、あなたの皿に毒が入る前に、厨房ごと見張ります。食材の仕入れから、調理人の身元から、皿を運ぶ給仕の足取りまで。一生かけて」
それは、どんな求婚の言葉よりも重たくて、どんな恋文よりも不器用だった。
私は、額の布の下で、こっそり泣いた。
「……お受けします。でも、ひとつだけ条件が」
「何でしょう」
「たまに、ノア様のお皿から一口、頂いてもいいですか。癖なんです」
ノア様は、ほんの少しだけ口の端を上げた。
それが、毒舌薬師の、初めて見る笑顔だった。
「どうぞ。好きなだけ」
*
その後のことを、少しだけ。
ロゼッタ様のご実家の伯爵家は、王弟殿下の派閥と通じて殿下のお命を狙っていたことが明らかになり、爵位を取り上げられた。王弟殿下も、北の修道院へ送られたという。
フェリクス殿下は――あの夜以来、食事が喉を通らなくなったらしい。
何を出されても「毒が入っているのではないか」と疑い、ついには殻付きのゆで卵しか口にしなくなった。
一度だけ、殿下から手紙が届いた。
『週に一度でいい。毒見に来てはくれないか』
殿下のお手紙は、何度も書き直した跡があった。インクが滲み、文字が震えていた。三年間、私の話を一度も最後まで聞かなかった方が、初めて私に何かを頼んでいる。
少しだけ、胸が痛んだ。
けれど、もう一口も、あの方のために毒を飲むつもりはなかった。
私は、丁寧にお断りの返事を書いた。
『陛下が、新しい毒見役を任命なさったと伺いました。とても優秀な、猫舌のご老人だそうです。どうぞ、温かいスープは冷ましてからお召し上がりくださいませ』
*
あの夜から、一年。
私はヴェルナー家に嫁ぎ、宮廷薬師の妻として、夫の研究を手伝っている。毒に強いこの舌は、今では新しい解毒薬の味見に役立っていて、夫は「人体実験だ」と言って毎回渋い顔をする。
ノア様は約束どおり、我が家の厨房を隅から隅まで見張っている。料理人は彼が自ら選び、食材は彼が自ら市場で確かめる。おかげで、この一年、私の皿に毒が入ったことは一度もない。
ヴェルナー家の食卓で、私は今日も、向かいの皿に手を伸ばしている。
「リリア」
「はい」
「それは私の分です」
「知っています。一口だけ」
ノア様は小さくため息をついて、それから黙って、自分の皿を私のほうへ押し出した。
よく見ると、その皿にだけ、私の好きな木苺のタルトが二切れ載っている。
「……ノア様。これ、最初から私の分も入っていますよね」
「毒見役の取り分です」
眼鏡の奥の目が、少しだけ笑っている。
人の皿から一口食べる癖は、まだ治らない。
けれど今では、その皿の持ち主が、いつも少しだけ多めに盛ってくれるのだ。
(了)




