↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
PR

秘密の恋

作者: 深月みずき
掲載日:2026/10/14

 その日、深川《ふかがわ》凜々花(りりか)は十七年という長く短い人生で一番の緊張を味わっていた。


 綺麗なスーツを着て携帯を片手に足早に通り去る者、大きなリュックを背負った外国人など、さまざまな人々が行き交う駅の構内。改札口の見える広場で、凜々花は柱に凭《もた》れ掛かりながらそわそわと落ち着かない様子で人を待っていた。


 コツコツカツカツとたくさんの足音が反響する中で、凜々花は頻《しき》りに深呼吸を繰り返す。


 家に帰ればその胸を締め付ける緊張も不安も無くなってくれるだろうということは凜々花にも分かっていたが、そうすると今度は約束を破ってしまった罪悪感によって昼に食べた物を全て吐き出し、空っぽになった胃袋には決して小さくない穴が開くことになるだろうということも分かっていた。


 どうしてそんなにも緊張しているのか。一番の理由は、待ち合わせている相手が、これまで仮想《ヴァーチャル》世界でしか交流の無い相手だからだろう。


 凡そ一年前に仮想世界で知り合い、毎日のように一緒に遊んでいたが、お互いに本名は知らず、顔も知らない。機械越しに聞こえる声はたしかに成熟した大人の女性のもので、話を聞く限りでも社会に出て働いている立派な大人の女性であることは本当らしかったが、ボイスチェンジャーだとかAIだとかが世に蔓延《はびこ》っている時代、それが本当なのかどうか、凜々花には分からなかった。


 しかし凜々花とその女性は恋人関係にある。


 きっかけは大したことではない。周りに恋人の居る人たちが多く、その場で独り身なのが凜々花とその女性だった。その事を自虐するみたいに女性が「じゃあ私たちで付き合っちゃう?」と冗談めかしく言って、凜々花はそれに乗っかった。そうして始まった恋人関係だ。


 初めはごっこ遊びのようなもので、お互いにいつかの冗談を続けているだけだったが、もともと仲が良かったのもあって、なかなか心地良い関係だった。凜々花は次第に女性に惹かれ、気が付けば本当に好きになっていた。そしてそれは相手にとっても同じことだったようで、半年前のあの日、二人はごっこ遊びから卒業した。


 本名も顔も分からない。声も本物かどうか分からない。そんな相手と恋人になるなんて馬鹿な話だと思われるかもしれないが、凜々花は自らの胸に抱く恋心が本物だと信じているし、相手も同じ気持ちを抱いているのだと信じている。


 だからこそ、知り合ってから一年、恋人になってから半年が経ったこの日、偶然住んでいる地域が近かったことも重なって、現実世界で会おうと二人で話し合って決めたのだった。


 ただやはり不安はあった。


 現実の姿を見て落胆されるのではないか。


 彼女は本当に女性なのか。騙されているのではないか。


 彼女を信じたいという気持ちはあるが、汚れてしまった水を綺麗にするには時間が掛かるように、一度抱いてしまった不安を拭いきれないでいた。しかしその原因は凜々花自身にもある。


 それは凜々花も少しばかり嘘を吐いているからだった。


 些細な事といえばその通りだが、場合によっては大きな嘘。


 それは年齢を二つほど上乗せしてしまっているということだ。


 今年で十七歳になった凜々花だが、相手には十九歳だと伝えている。たったの二年。しかしその二年で凜々花は未成年から成人へと変わる。相手は大人の女性。未成年とは付き合ってもらえないかもしれない。


 そんな不安から凜々花は咄嗟に背伸びをして二つほど盛ってしまった。


 それまでに凜々花が自分が高校生だということを話していたら嘘がバレてまた違う運命を辿っていたかもしれないが、幸か不幸か、普段から話していたのは休日の過ごし方だとかアルバイト先のこと、それから趣味のゲームや歌に関することくらいで、学校のことは殆ど話していなかった。


 そのお陰で二人は恋人になれたし、この日を無事に迎えることができたが、その所為で凜々花は本来感じなくていい余計な罪悪感に苦しめられることになった。


 待ち合わせの時間が近付き、ぞろぞろと改札の向こうから人の波が押し寄せてくるのが見えた。


 凜々花はもう何度目かの深呼吸をして、スマホを見る。


『着いたよ』とメッセージが届いていることに気付いて、ひゅっと息を止めた。


 顔はスマホの画面に向けたまま、視線だけを改札の方に向けて、雪崩れ込んでくる人々を凝視する。


 今朝、お互いの容姿についての話をしていた。


 凜々花はその通り、白いセーターにデニムパンツを穿いたロングヘアで、身長が百七十センチくらいありそうな女性を探す。


 そんな人いっぱい居るじゃん、と思わなくもなかったが、意外と似たような背恰好の女性は見当たらない。スーツを着ている人も居れば、そもそも日本人じゃなかったり、デニムじゃなかったり、身長が自分と同じくらいだったり……。


 あ、と凜々花は顔を跳ね上げる。


 緩く波打った綺麗な髪は背中まで伸びており、少し変わったシルエットではあるがたしかにセーターらしい服にデニムパンツを穿いた、想像していたよりもずっと綺麗な大人の女性が改札を通って歩いてくるのが見え、凜々花は目を離せなくなった。


 はたと目が合った。


 凜々花は咄嗟に目を逸らす。するとスマホに『いま目が合った?』と送られてきて、弾かれたように顔を上げる。


 女性が優しい顔をして凜々花の方へ向かう。実は後ろに居る人に用事があるとか、凜々花の見ている白昼夢だとかそういうわけではなく、女性は確実に凜々花へと近付き、正面で立ち止まった。


 凜々花はスマホを胸に寄せて、震える両手で強く握り締める。



「ルルちゃん?」



 女性が少し硬い声で口にしたそれは、たしかに凜々花が仮想世界で使っている名前だった。


 凜々花ははっと息を飲んで、緊張した面持ちで震える唇を開く。



「は、はい。えっと、初めまし……て?」



 その名前にそぐわぬ涼やかな風のように澄んだ声は、どの挨拶をするべきなのか、口に出してから迷い、首を傾げた。


 すると女性は口元に手を当て、ふわりと羽が舞うような柔らかい笑みを浮かべた。



「そうだね。初めまして。あっちではノノで、こっちでは岩見《いわみ》文乃《ふみの》と言います」


「えっ?」



 凜々花は未確認生物でも目撃したかのように目を見開き、目の前の女性、岩見文乃と名乗った女性を見る。


 光に照らされて仄かに赤く光る髪に、気品を感じさせる切れ長の目、筋の通った高い鼻に血色の良い厚めの唇。


 間違いなく美人ではあるが、凜々花は似た特徴をした同姓同名の人物を頭に思い浮かべ、目を真ん丸にした。



「どうかした?」



 女性が不思議がって首を傾げるのを見て、凜々花は慌てて首を振った。それから視線をあっちへこっちへと忙《せわ》しなく泳がせた後、覚悟を決めたようにスマホを握りしめると、勢い任せに名乗る。



「私は、深川凜々花って言います」


「えっ?」



 今度は女性の笑顔が凍り付いた。


 凜々花は女性が自分と同じ感情を抱いていることに気付き、ぎこちない笑みを貼り付け、怖ず怖ずといつもの、現実世界での呼び方をする。



「こ、こんにちは、岩見先生……」


「嘘でしょ……?」



 突然降りかかってきた衝撃の事実に、女性は頭を抱えた。



  〇



 広い駅の構内にあるそのヨーロッパ風のカフェには美味しそうなパンがずらりと並べられている。


 二人はそれぞれ好きなパンを一つと飲み物を一つずつ頼み、一番奥の席で向かい合って座っていた。


 烏のように黒く癖の無い髪を肩のあたりで切り揃えた少女、深川凜々花は西園高校に通う生徒だ。


 いつもは赤い縁の眼鏡を掛けており、メイクは髪を軽く整えて化粧水を試している程度だが、この日は顔も分からぬ恋人と現実世界で初めてのデートということもあり、朝からコンタクトと格闘し、似合っているのかどうか分からない服に初めて袖を通して、慣れない化粧をしたり、いつも以上に丁寧に髪を梳いたりと、とにかく第一印象を良くしようと精一杯のおしゃれで身を包んでいた。


 その向かいに座っている、緩い波を描く長い髪をした女性、岩見文乃は西園高校に勤める国語の教師であり、凜々花のクラスの担任でもある。


 凜々花の記憶では彼女も普段は黒い縁の眼鏡をしていたが、今日はプライベートだからなのか、デートだからなのか、コンタクトに変えているらしい。


 メイクもしているし、名乗られなければ凜々花も気が付かなかっただろう。しかし気付いて見れば、確かに凜々花のよく知る先生だった。


 文乃はコーヒーを飲み、ほぅ……と息を吐き出して、静かにカップをソーサーに置いた。それからゆっくりと瞬きをして、向かいに座る凜々花を窺うように見る。



「ええと……深川さんで間違いないんだよね?」


「はい……」



 凜々花は罪悪感に頭を抑え付けられるように頷いた。



「西園高校の……窓際の一番前の席で、いつもは赤い縁の眼鏡を掛けてる……?」


「はい……」


「それで、深川さんが……ルルちゃん……?」



 凜々花は罪悪感に押し潰されそうになりながら首肯し、証拠として『ノノ』……目の前に座る文乃と普段から話をしている『ルル』のSNSのアカウントをスマホの画面に映してテーブルに置く。


 文乃は「ちょっとごめんね」と凜々花のスマホを引き寄せると、眉根を寄せて険しい顔を作りながら、それが本人にしか開けないページであるということをしっかりと確認し、それから自らも仮想世界に居た『ノノ』であるという証明としてSNSのアカウントを提示する。


 凜々花も目の前の人物が仮想世界で恋人関係にあった『ノノ』であるということを改めて確認し、ほんの僅かな興奮と今にも心を押し潰さんとする罪悪感が入り混じった、なんとも複雑な顔をしてスマホを押し返した。



「えっと、深川さん?」


「はい」



 凜々花は警察の取り調べでも受けている気分で返事をする。



「私の記憶が正しければ、あなたは留年なんてしていないし、今年で十七歳だ思うんだけど……」


「ごめんなさい。ノノちゃん……が、成人してる人だって分かって、付き合うなら私も成人じゃないとダメかなって思ってつい嘘を吐きました……」



 凜々花は頭を下げた。いや、正確にはただ罪悪感に押し潰されて俯かせただけだったが、顔を真っ青にして額に冷や汗を垂らし、決して涙は流しまいとしながら身体を縮こませるその様子からは充分すぎるほどに反省していることが分かる。


 文乃が何かを考え込むように腕を組み、眉間に皺を寄せていた。


 やはり怒られるのだろうか、と凜々花は半分泣きそうになりながら唇を強く引き締め、じっと沈黙に耐える。


 店内にはゆったりとしたオルゴールが流れているが、そんなものに耳を傾け癒されるほどの余裕は今の凜々花には無い。



「まぁ、まだ実際に手を出したわけじゃないし、大丈夫かな」



 文乃が小さな声で呟いたが、凜々花にはよく聞き取れなかった。



「あの……?」



 凜々花が怯えた様子で訊ねると、文乃はテーブルに肘を置き、安心させるように微笑んで見せた。



「大丈夫。別に未成年と恋人になるだけだったら何も問題は無いから。嘘を吐いてたことに関しても……お説教は多分いらないよね。幸い、あなたの普段の素行はよく知ってるから。前に忘れ物をひとつしただけでまるで人生が終わったみたいな顔してたもんね」


「そ、そうでしたか?」


「うん。ちょっと心配になったくらい。真面目な子なんだなって思ったの覚えてるよ。今その時と同じ顔してる。たしかに、言われてみれば深川さんとルルちゃん、話し方とか声とかそっくり」



 そう言ってコーヒーを飲む文乃を見て、凜々花は真似をするようにコップに手を伸ばし、ストローの先を唇に咥えて冷たいココアで乾いた口を潤すと、緊張で強張っていた顔を綻ばせた。


 カチャン、と文乃がカップを小さく鳴らした。


 凜々花は何となくまだ気を抜いてはいけないような気がして、コップをそうっとテーブルに置いて、唇を引き締め、お腹に力を入れて姿勢を正した。



「さて、深川さんが年齢を誤魔化してたのは実際には何もなかったからもう良いとして……。残念だけど、あなたが私の生徒だって気付いちゃった以上デートはできないの」


「えっ」



 凜々花の表情が再び凍り付いた。



「私もデートはしたいんだけどね、もし学校にバレたら懲戒免職ものだから」



 文乃は頬杖を突き、煩わしそうに溜め息を吐いた。



「そ、それじゃあ今こうやって一緒に居るのもマズいんじゃ……?」


「いや、出掛けた先で偶然顔を合わせてちょっと話すくらいなら全然問題は無い……筈。うん。こうやって一緒にカフェで過ごしてるのも、偶然目的地がここだったってことにすれば大丈夫だと思う」



 まるで自分に言い聞かせているかのようで、段々と自信が無くなってきたのか、言葉が尻窄みになっていった。



「じゃあ、今日はこれでお開きってことですか?」



 凜々花が崖に突き落とされたような顔で訊ねると、文乃は眉根を寄せ、口を尖らせながら低い声で唸るように声を洩らした。



「んー……残念だけど、そうなっちゃうかなぁ」


「そんな……」



 俯き悲しむ凜々花に、文乃もまた悲しさを圧し殺したように力無く笑う。



「ごめんね。せっかく来てくれたのに」


「……どうしても駄目ですか?」



 凜々花が上目遣いに言うと、文乃はうっと一瞬怯んだ。しかしそれだけ。



「……うん。ここは私のためと思って許してくれると嬉しいかな。私も深川さんも、メイクしてるし、お互いにパッと見て分からないくらいにはなってるとは思うんだけど、万が一のことを思うとね」


「そうですよね……」



 凜々花は肩を落とし、不貞腐れたように口を尖らせながらストローを咥えてココアを飲む。それから放ったらかしにしていたパンを一口大に千切り、口に放り込み、まるで味のしないガムでも噛んでいるかのような顔をしてもぐもぐと口を動かした。


 しかし凜々花はふと何かに気付いたように動きを止めた。それから文乃をちらと見て、静かに口の中の物を飲み込んだ。


 そして凜々花が口を開こうとしたその時、文乃がほんの少し早く口を開いた。



「ね、深川さん」



 不思議な声色だった。先ほどまで話していた彼女とは違う、どこか気の抜けたような、まるで親しい友人に話しかけているかのようだった。


 凜々花は虚を突かれたように口を半開きにして固まった。



「一つ訊いてもいい?」



 凜々花はぎこちなく頷き、ずりずりと身を捩って姿勢を正した。



「それじゃあ……今日、私に会ってみてどう思った?」



 少し間を置いて、凜々花は小首を傾げる。



「どう……とは?」


「先生だって分かって、嫌になっちゃった?」



 不安そうな声に、凜々花は僅かに目を大きくして、慌てて首を振る。



「そんなことないです。その……もともと先生のことは綺麗な人だって思ってましたし、今日もすっごく綺麗で、むしろ畏れ多くなったというか……」


「そう? ありがとう」


「い、いえ……」



 凜々花はさっと視線を下げ、込み上げてきた熱を冷ますようにココアを飲み、ほぅ、と息を吐いた。


 その様子を見て、文乃はまるで愛玩動物でも眺めているかのように頬を緩ませる。



「私もね、さっきあなたの姿を見つけた瞬間、人形が立っているのかと思った。あぁ、もちろん綺麗って意味だからね?」



 突然、子どものような顔をして褒め言葉を浴びせてくる文乃に、凜々花は呆気に取られたように固まって目を屡叩かせる。



「こんな可愛い子が私の恋人だったんだってびっくりして、何よりも嬉しかった。その後、ルルちゃんが私の生徒だって知るまではね」



 文乃は現実から目を背けて虚空を眺めるような顔をして、溜め息混じりに言った。


 凜々花はその後に続く言葉を想像し、顔に影を落とす。


 しかし文乃の口から放たれたのは全く反対の言葉だった。



「大人として、教師としてはこの段階でやめておくべきなんだろうけど、別に手を出さなかったら良いんじゃないかとも思うんだよね」



 文乃はまるで悪戯を企む子どものように怪しい笑みを浮かべる。



「深川さん」



 凜々花は顔を上げ、文乃を見る。



「こっちの世界でも、私と恋人になってくれる?」


「へ?」



 声帯に息が擦れる音が聞こえた。



「ちゃんと……って言ったら、今までがふざけてたみたいだけど、せっかくこうして顔も合わせたわけだし、正式に恋人になれたらいいなって思うんだけど、どうかな?」



 文乃が不安そうに眉を下げて凜々花の反応を窺う。


 予想外の告白に戸惑いを見せていた凜々花は、眉間に皺を寄せ、薄い唇を震わせて、きゅっと一度引き締める。そして、



「いいんですか?」



 と、震える声で言った。



「もちろん」



 文乃は柔らかく微笑んで見せた。



「学校にバレたらまずいんじゃないんですか?」


「バレたら、ね。そのためにも、付き合うなら深川さんにはいくつかお願いしたいことがあるんだけど、良いかな?」



 凜々花は迷わず頷いた。


 文乃も頷き、人差し指を立てる。



「まず一つ。私と付き合ってるってことは周りに言い触らさないこと。できれば家族とか友達にもね」


「それは、もちろん」



 文乃は頷き、次いで中指を立てる。



「じゃあ二つめ。現実でのデートは深川さんが高校を卒業するまで禁止」


「あっ……そうですよね……」


「言っておくけど、私もデートはしたいからね。今日だってそうだし、二人で行きたいところもたくさんある。でも、万が一のことがないようお互いに我慢しましょうっていう話」


「……分かりました」



 凜々花は深く頷いた。


 文乃も満足そうに一度首を揺らし、逸る気持ちを落ち着けるようにコーヒーを口に運ぶ。ほっと一息吐いて、静かにカップを置いた。それからまた何か迷ったように視線を動かし、凜々花を見る。



「ここまで言っておいてなんだけど、深川さんは本当に良いの?」


「何がですか?」



 凜々花はココアを飲もうとコップを持ったまま、小首を傾げて文乃を見つめ返す。



「ほら、いま二年生で、これから受験で忙しい時期にはなるとは思うけど、卒業するまでの間に好きな人ができないとも限らないでしょ?」


「……私が浮気をする、と?」



 凜々花は眉間に皺を寄せ、不機嫌を隠そうともせずに文乃を睨む。


 文乃は何でもない顔をしてそれを受け止め、軽く手を振った。



「そうじゃなくて。私とこのまま付き合っても我慢ばっかりさせて、碌にデートもできないし、それならそれまでの間に恋愛経験を積んでおこうとか、そういうことは考えてたりしないの?」


「私がそういうことをするような人に見えるってことですか?」


「見えないけど」


「じゃあそんな意地悪なこと言わないでください」



 凜々花は唸るような低い声で怒りを露わにした。



「ごめんね。たしかに、余計なお世話だったね」


「本当ですよ。私は先生にしか興味無いので」



 口を尖らせる凜々花に、文乃は真剣な表情で問いかける。



「後悔しない?」



 凜々花は一瞬たりとも迷わずはっきりと頷いた。その瞳には強い決意の色が輝いていた。



「しません。先生こそ、私でいいんですか?」


「もちろん」



 文乃も、迷う素振りなど一切見せず即答し、にやりと笑って見せる。



「関係がバレて教師を辞めることになっても?」


「そ……れは後悔というより大反省だね」



 文乃は苦笑いを浮かべ、湯気の消えたコーヒーを飲む。ほっと安堵の息を吐き、そうっとカップをソーサーに置いて、軽く咳払いをする。そして晴れやかな表情をして、向かいに座る凜々花を見る。


 凜々花もまた、悩みも不安も無くなったように晴れやかな顔をして、文乃を見ていた。



「それじゃあ、これから改めてよろしくね」


「はい」

 


  〇



 カフェを後にした二人は、ふらふらと駅の外へ向かって歩き始める。


 通路には相変わらずスーツを着た人や時期外れの半袖を着て大きなバッグを背負った外国人など、いろいろな人が行き交っている。



「さて、深川さんはこれからどうする?」


「私は……本屋さんにでも寄ってから帰ろうかなぁ、と」


「そっか。じゃあ私はカラオケにでも行こうかな」


「えっ、良いなぁ」



 凜々花が目を輝かせるが、文乃は人差し指をぴんと立てて凜々花を指差しながら怪しげな笑みを浮かべる。



「ついてきちゃダメだからね?」


「分かってますよ」



 凜々花はつまらなさそうにむっと口を尖らせ、そっぽを向いた。



「高校を卒業して、大学に受かったら、そのお祝いで行こう」


「お祝いでカラオケはちょっと弱くないですか?」


「良いじゃん。深川さんの歌、あっちではたくさん聴かせてもらってるけど、やっぱり生で聴いてみたいし。それに、深川さんも歌うのは好きでしょ?」


「そうですけど……」


「まぁ、またあっちでたくさん話す機会もあるから、行きたい場所があったら教えてね」


「はい」



 中央口から外に出ると、薄い雲のかかった青空を背景に、背の高いビルの上から白い塔が街の人々を見守っているかのように顔を覗かせているのが見えた。


 観光客と思しき人たちはみんな空を見上げ、白い塔を写真に収めようとカメラを構えている。


 二人はそんな人たちの邪魔にならないように端っこに寄って、向かい合う。



「それじゃあ、短い時間だったけど、楽しかったよ」


「もっと一緒に居たかったです」


「それは私もだけど……まだ先生を続けたいから、許してね」


「一緒にカラオケに行っちゃダメですか?」



 また凜々花が上目遣いでお願いするが、文乃は固い意志で首を振った。



「ダメ。それで別れることになったら、私は嫌だよ」


「私だって嫌です」


「じゃあ我慢しないとね」



 凜々花は渋々ながら頷いた。


 文乃が徐に手を伸ばし、烏の羽のように鮮やかな黒い髪をそっと撫でる。



「それじゃあ、またね」


「はい」



 文乃は凜々花が少し寂しそうな顔をするのを見ながらゆっくりと手を下ろし、凜々花の頬に触れる。


 凜々花が擽ったさに目を瞑って身を捩る。


 文乃はゆっくりと凜々花に近付き、身体を折り曲げ、凜々花の目の端に口付けをした。



「大好きだよ、凜々花」



 そう囁き、またね、と凜々花に背を向けて逃げるように去っていった。


 凜々花が呆然と目を丸くしていると、文乃がちらと振り返って、悪戯が成功した子どものような笑みを浮かべて小さく手を振ってくる。


 その瞬間、凜々花は自分が何をされたのかを理解し、紅葉のように顔を赤くする。


 恨みを込めて睨みつけてやると、文乃は更に笑みを深めて、満足そうに歩いていった。



  〇



 住宅街の一角に構える西園高校に、重たいチャイムの音が鳴り響いた。


 号令が終わると同時に、待ちに待った昼休みだ、と生徒たちが俄に騒がしくなる。


 教壇に立っていた文乃は教科書を閉じ、チャイムが鳴り終わるのと同時に荷物をまとめて教室を出る。


 その後ろから烏のように鮮やかな黒髪をした人形のような少女がついてきていた。


 赤い縁の眼鏡を掛け、紺色の制服に身を包んだ少女は教室の前では足音も鳴らさず優雅に歩いていたが、文乃が角を曲がって壁の向こうに姿を消すと、途端に小走りになってぱたぱたと追いかける。



「岩見先生」



 文乃は階段の途中で足を止め、振り返って、僅かに目を大きく見開いた。



「深川さん、どうしたの?」


「忘れ物です」



 凜々花はそう言ってトントンと身軽に階段を下りて、丁寧に折り畳まれた白い紙を手渡した。



「これは……?」



 文乃が訊ねると、凜々花はきょろきょろと周囲を確認し、



「昨日の仕返しです」



 と、文乃の頬に口付けをした。



「えっ? ちょっと!?」



 文乃は声を上擦らせながら凜々花を引き留める。


 しかし凜々花はさっさと階段を一段飛ばしで駆け上がり、壁の向こうに姿を消した。さらさらと靡く黒い髪の隙間からは、紅葉のように赤く染まった耳が覗いていた。


 文乃は周りに誰も居ないことを確認し、安堵と呆れの混じった溜め息を吐いた。



「あとでちゃんと言っておかないと……」



 いろいろな意味で激しく鼓動する心臓を落ち着かせながら、文乃は渡された紙を開く。


 そこには綺麗な文字で『私も大好きだよ、文乃先生』と書かれていた。角には可愛らしくデフォルメされた二人の少女が描かれている。


 それは一見、たしかに前日に文乃が囁いた言葉への返事であったが、知らない人からすれば、単に文乃のことが好きな生徒からのファンレターのようにも見えなくもない。



「全くもう……」



 文乃は目を細め、頬を緩ませると、手紙を丁寧に折り畳んでペンケースに大切に仕舞い込んだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。