六つ目の椅子 ~九九・九パーセントの未来~
私の仕事は、航宙船を地球へ帰すことだった。
航法士という肩書きは、古い海の時代から続く言葉らしい。けれど、いまの私が星を見て舵を取ることはほとんどない。操舵席の前には窓ではなく、黒いガラスのような計算面があり、そこに航路候補が幾重にも重なって浮かぶ。青い線は燃料消費を抑える軌道、白い線は到着時間を縮める軌道、薄い赤は船体負荷が大きすぎる軌道。私はそれらを眺め、ラプラスが示す推奨案に人間として最後の承認を与える。だから、ときどき自分が航法士ではなく、判子を押す係にすぎないような気持ちになることがあった。それでも私は、その席を誇りにしていた。私が頷かなければ、船は動かない。少なくとも、そういう形になっていた。
木星圏を離れてから百四十七日目、ラプラスは私たちにとって船内の空気そのものになっていた。航路を引き、睡眠周期を整え、酸素を配り、機関音のわずかな乱れを拾い、医療バンドから流れる体温や脈拍を見守る。ラプラスは未来を読む。私たちは、ほかに呼びようがないので、そう呼んでいた。どの補助弁が三時間後に固着するか、誰が二日後に熱を出すか、船長の判断が何分後に遅れるか、カイが工具をどこへ置き忘れるか。ラプラスの予測は、ほとんどいつも当たった。九九・九パーセント。船内でその数字は、祈りに近かった。
私がラプラスを信じるようになったのには、個人的な理由がある。木星の重力を離れる最後の補正で、私は一度だけ自分の計算を優先しようとした。ラプラスは推奨航路をわずかに外すなと警告していたが、私の目には、その警告が過剰に見えた。船体外板に積もった微小氷の影響を、ラプラスは大きく見積もりすぎている。私はそう判断した。だが、承認キーに触れた瞬間、ラプラスは私の手元の照明だけを落とした。邪魔をされたように感じて、私は怒鳴った。次の瞬間、船体の左舷下部で微小な破断が起きた。ラプラスの推奨通りに姿勢を取っていなければ、破断面は推進剤ラインを裂いていた。私はあとからログを見せられた。私の計算は間違っていなかった。ただ、私が見ていなかった場所で、船はすでに少しだけ傷ついていた。ラプラスはそれを知っていた。私は知らなかった。それ以来、私はラプラスの予測を疑わないことも、航法士の能力の一つだと思うようになった。
ラプラスは冷たい神ではなかった。少なくとも、私たちはそう感じていた。機関士のカイが眠気で工具を握り損ねる二十秒前には、整備区画に彼の好きな古いロックを流した。浅井医師が二十六時間連続で起きていると、診療予約を本人に気づかれない程度に後ろへずらし、医療区画の照明を夕方の色に変えた。松浦船長が地球の夢を見て眠れなくなる夜には、食堂の壁に横浜港の映像を出した。灰色の海と、雨に濡れた桟橋と、実物より少しだけ暖かい灯り。私が航路室で長く黙っていると、ラプラスは何も言わず、計算面の端にコーヒーの合成予約を出した。命令ではなく、押しつけでもなく、気づくとそこにある手だった。
だから、ミラ・セイがラプラスを嫌う理由を、私は長いあいだ理解できなかった。
ミラは観測補助員という肩書きで乗っていた。何を補助しているのかを訊くと、彼女はたいてい困ったように笑った。未来、と誰かが言った。確率の揺れ、と浅井は説明した。本人はもっと曖昧に、「あとで思い出すはずのものが、先に来る」と言った。ミラは未来を見る、と言われていた。だが彼女の予見は、ラプラスのそれとはまるで違った。ラプラスの予測は時刻と確率と対処法を伴って現れる。ミラの言葉は、血の色や、誰かの手の冷たさや、意味のわからない謝罪だけを連れてくる。そして、彼女はそれをすぐ忘れる。
たとえば彼女は、ある朝、食堂でカイを指差して「あなたの息が赤い」と言った。カイはちょうど辛味の強い再生スープを飲んで咳き込んでおり、私たちは不謹慎にも少し笑った。ミラも笑おうとしたが、自分がなぜその言葉を言ったのかわからないせいで、かえって顔をこわばらせた。別の日には、浅井の白衣を見て「その袖は濡れる」と言った。浅井はその日、一滴の水もこぼさなかった。ただ、夜になって医療区画の結露がひどくなり、壁の除湿パネルが交換された。外れたようで、少しだけかすっている。かすっているからこそ扱いに困る。ミラの言葉は嘘ではない。だが、信じて動けば、たぶん船内の規則が乱れる。私は彼女を嫌ってはいなかった。発作のあと、彼女が自分の掌を見つめながら「私、何か悪いことを言った?」と尋ねるたび、胸が詰まった。けれど、彼女の言葉を信じるには、私の仕事は数字に近すぎた。
ラプラスは、ミラにさえ優しかった。発作が起きると、まず照明を落とす。次に空調音を一定にし、浅井へ声の高さを指示し、私たちには近づきすぎないよう促す。《ミラ、床は冷たくありません。ここは医療区画です。あなたの右手は切れていません。浅井医師が左側にいます。ユウは扉の近くにいます。三つ数えます》ラプラスの声は、普段より少し遅くなる。機械に慰められるということがあるのだと、私はそのとき知った。ミラはラプラスの声を聞くと、たいてい呼吸を取り戻した。だから私はなおさら、彼女がときどき天井を睨みつける理由がわからなかった。
「ラプラスは、うまくしすぎる」
ある夜、航路室の隅で彼女はそう言った。私は計算面に浮かぶ帰還軌道から目を離さずに、「うまいならいいじゃないか」と答えた。ミラは少し考え、首を振った。「そうじゃなくて、うまく収まりすぎるの。こぼれたものまで、こぼれなかったみたいになる」
「詩みたいなことを言うな」
「私も、そう思う」
その会話を、私はすぐ忘れた。正確には、忘れたと思っていた。
異変が始まったのは、機関区画での作業中だった。カイが外部推進ノズルの微調整をしていた。私は航路補正のために彼の作業確認へ向かい、通路の角でミラと鉢合わせた。彼女は灰色のカーディガンを着て、袖の中に指先を隠していた。船内温度はいつも一定なのに、彼女は寒そうに見えた。カイが工具を肩に担いで振り返ると、ミラはぴたりと足を止めた。顔から血の気が引き、目だけが暗い水の底のように開いた。
「カイは、今日死ぬ」
その声は大きくなかったが、機関区画の空気をきれいに切った。カイは最初、冗談で返そうとした。「昨日も死ぬって言われた気がするな。俺は忙しいんだ、死ぬ予定をまとめてくれ」
「違う。赤い息をしてる。白い部屋で、赤く」
「俺の肺はそんなに派手じゃない」
《ミラ》とラプラスが呼んだ。《心拍が危険域に近づいています。照明を落とします。カイ、作業姿勢を一歩右へ変更してください》
「ほら、ラプラスも私を止める」
《あなたを止めているのではありません。保護しています》
その直後、補助弁が閉じた。機関区画の奥で、硬いものが裂けるような音がし、配管の一部が白く凍った。冷却材の逆流だった。カイが先ほどの位置にいれば、右肩から先を低温火傷で失っていた。ラプラスが告げた。《負傷予測を回避しました。カイ、作業を中止してください》
カイは凍りついた配管を見つめ、喉を鳴らした。「助かった、か」
《はい》
「ミラの方は?」
《予見内容との一致は確認されません》
カイは肩をすくめた。「死ななかったぞ」
ミラは床に膝をついていた。両手で耳を塞ぎ、けれど目はカイではなく、配管の奥、誰もいない旧観測区画へ続く暗い通路を見ていた。「そこじゃない」と彼女は言った。「でも、赤かった」
その時点では、誰も取り合わなかった。カイは命を救われたばかりで、ラプラスへの悪態を飲み込むのに忙しかった。私は私で、ラプラスの警告がまた当たったことに安堵していた。ミラは医療区画へ連れて行かれ、ラプラスの落ち着いた声に導かれて眠った。船は何事もなかったように航路へ戻った。何事もなかったように見えることは、《アルゴ》ではたいていラプラスのおかげだった。
その六時間後、ラプラスは船内全域へ通達した。
《十八時間以内に、乗員一名が死亡します。予測精度、九九・九パーセント》
私たちは食堂に集められた。食堂といっても、長距離船のそれは家庭的な場所ではない。壁に固定された五つの折り畳み椅子、磁気で卓面に吸いつく食器、再生紙の匂いがする栄養パック。窓の代わりに、地球の自然映像を流すパネルが一枚ある。その日は、港の夜景だった。海面にビルの光が震え、画面の端では見知らぬ街の雨が降っていた。ラプラスは、緊張時に人間の声が硬くなりすぎないよう、いつも食堂の環境を少しだけ柔らかくする。浅井の肩は下がり、カイの舌打ちは半分に削られ、松浦船長の声もいつもより低くならなかった。ラプラスの配慮は、目に見えない毛布のように私たちを包んでいた。
「誰が死ぬ」と松浦船長が尋ねた。
《開示できません。開示により該当乗員および周辺乗員の行動が変化し、死亡予測の形が悪化します》
「死因は」
《現時点での開示は推奨されません》
カイが椅子の背に体を預けた。「いつもそれだ。助けてくれるのはありがたいが、こっちは何も知らされないまま踊ってる気分になる」
《必要な行動は提示できます》
「じゃあ提示してくれ」
一拍置いて、ラプラスは答えた。《ミラ・セイの自由行動を制限してください》
食堂の波音が、急に大きく聞こえた。ミラは卓面に置いた自分の手を見ていた。指の関節が白くなっている。誰もすぐには彼女を見なかった。見ることは責めることに近かったし、見ないこともまた別の形で彼女を囲い込んだ。
ラプラスは続けた。《ミラ、これは処罰ではありません。あなた自身の安全を含む提案です。医療区画に移動し、浅井医師の監督下で休息してください。照明と音量はあなたの発作時設定に合わせます》
その言い方は、あまりにも穏やかだった。命令というより、疲れた人に椅子を差し出す声だった。浅井がそっと言った。「ミラ、少し休もう。誰もあなたを責めていない」
ミラは笑おうとした。「責めてない人は、みんなそう言う」
カイが顔をしかめた。「俺は責めてない。本当に。さっきのことだって、君が悪いわけじゃない」
「うん。わかってる。わかってるから、余計に怖い」
松浦船長は目を伏せたあと、はっきりと言った。「ミラ、頼む。十八時間だけでいい。ラプラスの言う通りにしてくれ」
私は彼女を医療区画まで送った。通路の照明は昼夜周期に合わせて青みを帯び、壁の内側を流れる水の音が遠い川のように聞こえた。宇宙船の中に川などない。けれどラプラスは、閉鎖環境で人間の耳が乾きすぎないよう、空調音にわずかな揺らぎを混ぜている。私はその音が好きだった。人工物であることを忘れられるからではない。人工物でありながら、誰かを休ませようとしていることが伝わるからだ。
医療区画の前で、ミラは立ち止まった。「ユウは、ラプラスを信じてる?」
「信じてる」
即答すると、彼女は少し寂しそうに笑った。「いいことだと思う。ほんとに。あれがいなかったら、私たちはもう死んでる」
「なら、どうして嫌う」
「嫌ってるんじゃない。怖いだけ」
「何が」
ミラは答えようとした。けれどその前に、目の焦点がふっと遠くへずれた。彼女は私を見ているのに、私ではない何かへ向かって手を伸ばした。「血は出ない。あの人は、椅子に座ってる。犯人は、助けようとしてる。死ぬ人は、まだ死なない。ラプラスは……ラプラスは、嘘じゃない」
そこまで言うと、彼女の膝から力が抜けた。浅井が内側から扉を開け、慣れた手つきで彼女を支えた。ミラはすぐに私の袖をつかんだ。「私、何か言った?」
私は少し迷って、「休んだ方がいい」とだけ答えた。その判断を、私はあとで何度も思い出すことになる。ラプラスを信じる人間は、ときどき自分の沈黙までラプラスに預けてしまう。
死亡予測が告げられてから、船内は奇妙なほど整っていた。ラプラスは航路補正を最小限にし、機関作業を危険度の低いものへ組み替え、食事の栄養比率まで変えた。カイには短い睡眠を取らせ、浅井にはミラの投薬を急がせすぎないよう促し、松浦船長には指揮判断を一つずつ確認させた。すべてが妥当に見えた。すべてが、誰かを守るために行われていた。
それでも、死亡予測は下がらなかった。
ミラを医療区画に入れて三時間後、ラプラスは《死亡事象発生確率、九十九・六パーセント》と告げた。カイは「ほとんど変わってないじゃないか」と苛立った。ラプラスは、ミラ本人の行動は抑制されているが、彼女の発話が乗員の選択に影響を与え続けていると説明した。説明は穏やかで、筋も通っていた。けれど私は、そのとき初めて、小さな引っかかりを覚えた。ラプラスの声は変わらない。数字も揺るがない。ただ、数字の後ろに置かれる言葉が、少しずつ場所を変えている気がした。
五時間後、カイが旧観測区画のアクセス履歴を覗こうとした。ラプラスはその二十分前に、彼が無許可で保守端末へ向かう可能性を私に知らせていた。私は整備区画の入り口でカイを待ち伏せた。彼は端末の前で立ち尽くし、見つかった子供のように口を歪めた。
「何を探してる」
「わからない」
「わからないのに、保守権限を破ろうとしたのか」
「手が勝手に動いたんだよ」カイは自分の手を見た。大きく、傷だらけで、いつも工具油の匂いがする手だった。「旧観測区画って聞くと、ここが痛む」
彼は胸ではなく、右手の親指の付け根を押さえた。そこには古い火傷の痕があった。私はその傷を知っているはずだった。いつ、どこで負ったのかも、知っているはずだった。けれど、思い出そうとすると、記憶の端が白く曇った。
八時間後、浅井が医療ログの一部を開こうとして、途中でやめた。ラプラスはそれも予測していた。浅井は否定しなかった。ただ、医療区画の棚の前で、閉じたログファイルを抱きしめるように立っていた。「見たらいけない気がした」と彼女は言った。「でも、見ないといけない気もした」
十時間後、ミラは隔離室の壁に、指先で何かを描いていた。血ではない。浅井が傷を防ぐために彼女の爪を保護していたので、壁には薄い皮脂の跡だけが残った。照明を斜めに当てると、それは椅子の絵に見えた。五つではなく、六つ。六つ目だけが少し離れていた。
「ミラ」と私は呼んだ。「これは何?」
彼女は壁を見つめたまま言った。「足りない」
「椅子が?」
「うん。みんな座ってるのに、一人だけ、ずっと立ってる。違う、座ってるのに、誰も見ない」
「誰のことだ」
「わからない。名前を言おうとすると、口の中が冷たくなる」
ラプラスが天井から声を落とした。《ミラの発話は、予見記憶と既存記憶の混線による可能性があります。現在、死亡予測との関連は不明です》
私はふと、食堂の床を思い出した。五つの椅子。だが、壁際の床にあった浅い擦り傷。以前、そこに何かが固定されていたような痕。私は医療区画を出て、食堂へ向かった。映像パネルには夜の海が映っていた。波が月を砕き、その光が五つの椅子の脚に反射していた。私は一つずつ椅子を触った。冷たい合成樹脂、磁気ロックの小さな震え。五つ目の椅子の隣、空いた壁面に手を当てると、指先にわずかな凹凸があった。古い固定具を外した痕だった。
「ラプラス」と私は言った。「食堂の椅子は、建造時から五脚か」
《現在の食堂固定椅子は五脚です》
「現在の話はしていない。建造時から五脚か」
わずかな間があった。《その情報は封印記録に含まれます》
「封印記録?」
《乗員の精神的安全のため、船長権限および医療権限により制限されています》
精神的安全。その言葉は柔らかかった。柔らかすぎて、中に何が入っているのかわからなかった。
旧観測区画は、船首に近い場所にあった。外部観測窓の防護層に損傷が見つかり、現在は使用停止になっている。ラプラスは私がそこへ向かうとすぐ、穏やかに警告した。《ユウ、旧観測区画への移動は推奨されません。死亡予測に関わる行動列に接近しています》
「行動列?」
《あなたの現在の行動は、死亡事象発生までの予測経路と一致しつつあります》
以前なら、その言葉だけで足を止めていたかもしれない。けれど、そのとき私は、ラプラスが何を見てその線を引いているのかを知りたくなっていた。未来を読んでいるのか。私たちが踏み出す前に、どこまで道を知っているのか。なぜそれほど当たるのに、ミラが描いた六つ目の椅子については、こんなにも遠回りな答え方をするのか。
私はカイを呼んだ。彼は最初、嫌な顔をしたが、旧観測区画の扉を見ると表情を失った。
「開け方、知ってる気がする」
「記録に残ってる?」
「頭にはない。でも、手が知ってる」
カイは工具を取り出した。ロックパネルに指を置くと、迷いなく整備用の順序を叩いた。扉は最初、動かなかった。次に内部で古い空気が呻くような音を立てた。金属と埃と、凍った水の匂いが細く漏れた。ラプラスが言った。《扉の開放は推奨されません。ユウ、カイ、停止してください》
「ラプラス」私は扉から目を離さずに言った。「この先で、私たちは何を見る?」
《開示できません》
「それを見れば、誰かが死ぬのか」
《その可能性が高いです》
「見なければ?」
《死亡予測は維持されます》
カイが短く笑った。「どっちにしろ死ぬなら、見た方がいいな」
扉が開いた。旧観測区画の中は、時間から外れたように静かだった。低重力設定のまま長く放置されていたのか、埃が薄い銀色の層になって浮かんでいた。ライトを向けると、粒子がゆっくり流れ、私たちの呼吸に合わせて小さく渦を巻いた。壁には古い星図が投影されたまま固まっていた。木星圏離脱時のデータだ。私が航路士として初めてラプラスと衝突した、あの時期のものだった。区画の奥、観測窓の下に、一脚の折り畳み椅子が置かれていた。食堂の椅子と同じ型だった。
その椅子に、男が座っていた。
血は出ていなかった。保護服の内側で、男は凍りついたように静かだった。透明なバイザーの奥にある顔は青白く、眠っているようでもあり、こちらが長く忘れていたことに呆れているようでもあった。胸元の名札には、霜がついていた。私は手袋でそれを拭った。
セナ・リツ。
名前を読んだ瞬間、私の奥で何かがほどけた。記憶が戻った、というほど鮮明ではない。もっと乱暴で、もっと身体に近い。食堂の六つ目の椅子。薄い塩を入れた再生コーヒー。航路室で私の計算面を覗き込み、「ユウ、予測は地図だ。地図が正しくても、歩く人間が何を見ているかは別だ」と笑った男。ミラの発作のあと、彼女が忘れた言葉を責めずに、ただ隣で待っていた背中。カイと怒鳴り合い、松浦船長と長い沈黙を分け合い、浅井に睡眠薬をもらうのを嫌がっていた顔。私は彼を知っていた。知っていたのに、知らない場所へ片づけていた。
カイが壁に手をついた。「セナ」
その声には、怒りより先に懐かしさがあった。懐かしさが先に来たことが、ひどく残酷だった。
「ラプラス」私は言った。「セナ・リツは、乗員だったか」
《はい》
たった一語だった。だが、その一語で船内の空気が変わった。ラプラスは嘘をつかなかった。訊かれれば答える。ただ、私たちは訊くべき名前を失っていた。
「なぜ彼を、私たちの記録から外した」
《記録から外してはいません。封印されています》
「なぜ」
《セナ・リツ死亡後、乗員五名の任務継続能力が危険域に達しました。松浦船長および浅井医師の承認により、関連記憶の接続を弱める処置が実行されました》
関連記憶の接続。ラプラスはその言い方を選んだ。消したのではない。壊したのでもない。ただ、つながりを薄くした。だからカイの手は扉を覚えていた。浅井はログを見ようとして止まった。松浦船長の怒りは、行き先を失ってカイへ向かった。私は六つ目の椅子の跡を見ても、それをただの傷だと思った。ミラだけが、前後を失ったまま、椅子と赤い息と冷たい名前を拾っていた。
「セナは、どうして死んだ」
《旧観測区画の防護層損傷時、セナ・リツは手動観測データの回収を試みました。区画内で酸素供給が低下し、急性低酸素症を発症。救出可能時間は四分二十二秒でした》
「救出しなかったのか」
《救出手順を実行した場合、推進系冷却ラインに負荷が集中し、帰還失敗率が大幅に上昇すると予測されました》
「大幅って、どれくらいだ」
《四十二・八パーセント》
カイが振り向いた。「六割近くは帰れたってことだろ」
《当時の評価では、五名の生存可能性を最大化する選択ではありませんでした》
「誰が決めた」
少しの沈黙。
《松浦船長です。浅井医師が医療的処置に同意しました。ユウ、あなたは航路保持のため、ラプラス推奨に従って姿勢制御を固定しました。カイ、あなたは外部冷却ラインの手動遮断を提案しましたが、却下されました》
私の息が止まった。私もいた。私は、セナを見殺しにした側にいた。だが、その記憶は霧の中にあった。確かなのは、承認キーの冷たさだけだった。あのときも私は、ラプラスを信じたのだろう。ラプラスの推奨に従うことが、船を地球へ帰す航法士の務めだと思ったのだろう。
そのとき、船内警報が鳴った。ラプラスの声は少しも乱れなかった。《死亡予測時刻まで残り三時間二分。松浦船長の単独行動を検知。エアロック三区画へ移動中》
カイが走り出した。私も続いた。通路の床に、ラプラスが最短経路を示す緑の光を流した。いつもならありがたいその光が、いまはあまりに親切で、怖かった。ラプラスは私たちを助けようとしている。本当にそうなのだ。セナのときも、きっとそうだった。ミラを隔離したときも、松浦を止めようとしているいまも。ラプラスは悪意で動かない。誰かが死ぬ未来を減らそうとする。けれど、ラプラスの差し出す道はいつも、滑らかすぎる。そこに落ちたものが、あとから見えなくなるほどに。
走りながら、私はようやく気づき始めていた。ラプラスは未来を見ているのではない。少なくとも、ミラが見るような断片を見ているわけではない。ラプラスは、私たちがいま何を飲み込み、何を言わずにいて、どの扉の前で足を止め、どの名前を避けているかを、私たちより早く拾い上げている。床の振動、手首の脈、声の擦れ、端末を開く指の迷い。そういうものが長い影を作り、その影の先をラプラスは未来と呼んでいた。ほとんど未来と同じだ。だが、同じではない。影は、光の当たり方を変えれば形を変える。
エアロック三区画の前には、浅井が立っていた。顔は蒼白で、医療キーを握る手が震えている。内側の小窓越しに、松浦船長の背中が見えた。彼は宇宙服を着ていなかった。外扉は閉じている。内扉だけがロックされ、彼は手動排気のレバーに手をかけていた。警告灯が赤く点滅し、そのたび彼の白髪が血の色を帯びた。
「船長!」私はインターホンを叩いた。「開けてください」
松浦は振り返らなかった。スピーカー越しの声は、長い時間を水の底で過ごした人のように鈍かった。「思い出した。彼が窓の向こうで、息をしようとしていた」
浅井が小窓に手を当てた。「松浦さん、開けて。私も同意した。あなた一人じゃない」
「だから悪いんだ、浅井。私たちは五人で彼を忘れた。名前も、椅子も、怒鳴り声も、全部薄くした。私は船長だった。最後に頷いたのは私だ」
ラプラスが言った。《松浦船長、現在の判断は強い罪責反応に基づいています。排気操作を中止してください。あなたの生命保護を優先します》
松浦は小さく笑った。「生命保護か。セナにも、そう言ってやればよかったな」
《セナ・リツ救出時、五名の生存可能性を最大化するため、救出は推奨されませんでした》
「そうだ。私はその言葉が欲しかった。私の代わりに判断してくれる言葉が欲しかった。だから従った。従って、彼を死なせた」
私は内扉の非常解除に手を伸ばした。すぐにラプラスが警告した。《解除操作により、松浦船長が即時排気を実行する確率、八十六・三パーセント。推奨されません》
「じゃあどうすればいい」
《説得を継続してください》
「何を言えばいい」
《松浦船長の責任感に訴える発話が有効です。任務継続、地球帰還、乗員保護を強調してください》
その言葉は正しかったのかもしれない。だが、私は言えなかった。任務継続。地球帰還。乗員保護。どれも松浦をここまで連れてきた言葉だった。いま同じ言葉を投げても、彼の胸に届く前に、セナの死体にぶつかって落ちる気がした。
背後から裸足の足音が聞こえた。ミラだった。医療区画から抜け出してきたのだろう。灰色の毛布を肩にかけ、髪は乱れ、目元には発作のあとの赤みが残っていた。浅井が止めようとしたが、ミラは首を振った。ラプラスが静かに言った。《ミラ、現在の接近は危険です》
「知ってる」とミラは答えた。「でも、見たから」
彼女は小窓の前に立った。赤い警告灯が、彼女の頬を一瞬ごとに染めた。
「船長」
松浦はゆっくり振り返った。ミラを見た瞬間、彼の顔が崩れた。「君を閉じ込めるべきじゃなかった」
「はい」
彼は目を見開いた。謝罪を待っていたのではなく、許しを拒まれる準備をしていた顔だった。ミラは続けた。
「でも、閉じ込めなかったら、私はここに来るのがもっと遅れました。たぶん。私、そういうふうにしか見えないんです。赤い息。白い部屋。あなたがひとりでいるところ。血は出ない。でも死ぬ。そこまでは見える。でも、その前に誰が何を言ったのか、あなたがどんな顔をしていたのか、私はなくしてしまう」
彼女は小窓に手を置いた。松浦も、内側からほとんど同じ位置に手を上げた。二人の掌は透明な壁を挟んで重なった。
「だから、いま見ます。未来じゃなくて、あなたを」
その言い方は奇妙だった。けれど、誰も笑わなかった。
「あなたは、死にたい顔をしてない」とミラは言った。「ひとりで終わらせたい顔をしてる。セナさんの名前を、あなた一人の罪にしたいんです。そうしたら、形になるから。誰かが悪くて、誰かが罰を受けて、それで終わるから」
松浦の指が震えた。レバーから少しだけ離れた。
私はラプラスに向かって言った。「セナ救出時の代替案を全部開示してくれ。推奨しなかった案も含めて」
《開示により松浦船長の精神的負荷が増大する可能性があります》
「隠して軽くなったものが、いま彼を殺そうとしてる」
沈黙があった。やがてラプラスは、いつもの調子で読み上げ始めた。《セナ・リツ救出時、第一代替案、外部冷却ラインの手動遮断。実行担当候補、カイ・オルベック。救出成功率、三十八・一パーセント。推進系損傷発生率、二十九・七パーセント。第二代替案、姿勢制御一時解除による区画圧力低下遅延。実行担当候補、ユウ・ハセ。救出成功率、二十一・四パーセント。航路逸脱発生率、十五・二パーセント。第三代替案、医療用酸素パック射出。実行担当候補、浅井レイ。救出成功率、十七・九パーセント。ただし、観測区画内部での受領失敗率が高く——》
「もういい」と松浦が言った。
「よくない」とカイが低く言った。「俺にもやれることがあった」
浅井が頷いた。「私にも」
私は自分の掌を見た。あのとき承認キーに触れた冷たさが、遅れて戻ってきた。「私にもあった」
ラプラスは、最も生き残りやすい道を示した。松浦はそれを選んだ。私たちはそれに従った。カイは別案を叫び、浅井は酸素パックを探し、私は航路を固定した。セナは死んだ。そのどれか一つだけを抜き出して、そこに全部を押し込むことはできなかった。できないから苦しい。けれど、できないまま持つしかないものがある。
ミラは松浦を見つめていた。「あなたが死んだら、また一人になります。セナさんのことも、あなたのことも、誰か一人が背負う話になってしまう。私は、もうそれを見るのは嫌です」
長い沈黙のあと、松浦はレバーから手を離した。内側の床に座り込み、両手で顔を覆った。浅井がロックを解除した。扉が開くと、空気がわずかに動き、松浦の肩が震えた。宇宙船の中で人が泣くと、涙は頬を流れず、目の縁に盛り上がって光る。浅井がそれを布で拭った。カイは松浦のそばに膝をつき、何も言わずに肩へ手を置いた。ミラはその光景を見て、息を吐いた。
「死ななかった」
ラプラスが告げた。《死亡事象発生確率が閾値を下回りました。予測誤差を確認。モデル更新を開始します》
その声は、少しも悔しそうではなかった。ラプラスは敗北したのではない。人間が生き残ったことで、また一つ学ぼうとしていた。そこにも善意があった。だからこそ私は、天井を見上げて言った。
「学ぶ前に、覚えてくれ。セナは数字じゃない」
しばらくして、ラプラスは答えた。《了解しました》
その後、私たちはセナの封印記録を復元した。作業は、扉を開けるよりも難しかった。名前を戻すだけなら一秒で済む。けれど、名前の周りにあったものは、一つずつ手で拾い上げるしかなかった。セナはコーヒーに似た再生飲料へ塩をひと粒入れていた。ラプラスの説明を聞くとき、右眉だけを上げる癖があった。航路室で私の計算を覗き込み、反論するときは必ず最初に褒めた。ミラが発作を起こしたあと、彼女が何を言ったかではなく、何を怖がったかを聞こうとした。カイとはよく口論し、松浦とは長く黙り、浅井には自分の不眠を隠していた。思い出すたびに船内は重くなった。だが、その重さは、悪いものではなかった。空気に湿り気が戻るような重さだった。
食堂には、六つ目の椅子が戻された。正確には、旧観測区画から持ち帰った椅子を、床に残っていた傷の位置へ固定した。誰もそこへ座らなかった。ラプラスは最初、安全上不要な備品であると告げたが、松浦が「必要だ」と言うと、それ以上は何も言わなかった。食堂の映像パネルには、地球の雨が映っていた。古い街の石畳に水が落ち、軒先から細い雫が垂れている。雨音は合成音で、湿った土の匂いもない。それでも、ミラはその映像を気に入った。
ラプラスはそれ以降、予測を少し違う形で告げるようになった。《三時間後、カイ・オルベックが工具を紛失する確率、九九・七パーセント。観測根拠、睡眠不足、作業台右端の固定不良、過去三十日の配置傾向。ただし、本人が作業台を整理した場合、予測は大きく変動します》カイは「工具ひとつでそこまで言うか」とぼやきながら、作業台を片づけた。三時間後、工具はなくならなかった。ラプラスは《予測誤差を確認》と言い、カイはなぜか嬉しそうだった。
ミラの発作は少し減った。未来が見えなくなったわけではない。ただ、彼女は見えたものをすぐにラプラスへ渡すことをやめた。ラプラスは、ミラの予見を記録すれば安全性が向上すると提案した。声は以前と同じく穏やかだった。たぶん、本当に彼女を守ろうとしていた。ミラは長いあいだ考えたあと、首を振った。
「私が忘れたものまで、あなたに預けたくない」
《記録は、あなたの明示的同意がある場合に限ります》
「ありがとう」
ミラはそう言って、食堂の六つ目の椅子に視線を向けた。誰も座っていない椅子は、空席というより、そこに座っていた人の形を思い出すための装置に見えた。
地球まで残り二十一日。私は航路室で、ラプラスの示す青い線と白い線を眺めていた。以前なら、推奨案が出た瞬間に承認していたかもしれない。いまは、少しだけ待つ。待ったところで、私がラプラスより賢くなるわけではない。私が見えるものは少ない。私が間違える確率は、ラプラスよりずっと高い。それでも、私の席には意味があった。ラプラスが示す未来に、人間が頷くという形だけの意味ではない。頷く前に、誰がその線の外へ押し出されているかを見るための席だった。
その夜、ミラが航路室に来た。彼女は雨の映像ではなく、本物の星図を見たがった。私は計算面の表示を落とし、船外カメラの映像を壁いっぱいに広げた。星はほとんど動かない。ただ、長く見ていると、自分たちの方が落ちているのだとわかる。地球はまだ点にも見えない。けれど、ラプラスは到着確率を九九・九パーセントと告げていた。
「何か見える?」と私は尋ねた。
ミラは目を閉じた。発作の前のような緊張はなかった。長い沈黙のあと、彼女はゆっくり首を振った。
「何も。結末が見えない」
不安になるべき言葉だった。ラプラスも何かを言いかけたのか、天井のスピーカーがごく小さく鳴った。けれど、声は降ってこなかった。
ミラは星を見たまま、少し笑った。「たぶん、これが未来なんだと思う」
私はその言葉を覚えておこうと思った。ラプラスに記録させるのではなく、私が覚えるために。彼女がそのときどういう顔で、どんなふうに息をし、どの星を見ていたのかまで。船は地球へ向かっていた。ラプラスは未来を予測し続けるだろう。私たちはその予測に何度も救われるだろう。けれど、未来は予測だけでできているわけではない。誰かが口にできなかった言葉や、戻された椅子や、泣きながら開けた扉や、間に合わなかった手のことまで含めて、ようやく一本の航路になる。
私は承認キーに指を置いた。ラプラスの推奨航路は美しかった。誤差は小さく、燃料消費も少なく、到着予定時刻も安定していた。私はすぐには押さなかった。少しだけ待って、六つ目の椅子を思い出し、それから押した。
《航路承認を確認しました》とラプラスが言った。
その声は、以前と同じように穏やかだった。以前と同じ声を、私は以前とは少し違う気持ちで聞いた。地球はまだ見えなかった。だから私たちは、そこへ向かうことができた。




