第2話【救えなかった命】
この世界のどこかに、
一度だけ訪れることができる不思議な喫茶店がある。
「白猫珈琲店」――
それは、後悔と祈りを抱えた人の前にだけ現れる場所。
店主の名は、朔真。
黒髪で長身、現実離れした静けさを纏う青年。
彼が淹れる一杯の珈琲には、
人の心を癒し、過去にそっと寄り添う不思議な力があるという。
今日の客は――
“救えなかった命”に今も縛られた女性だった。
【救えなかった命】
第1章
夜の帳が降りたころ、白猫珈琲店の扉が、静かに音を立てて開いた。
鈴の音がひとつ、儚く響く。
「……いらっしゃいませ」
いつものように、低く柔らかい声で朔真が迎える。
ランプの灯りが琥珀色の光を落とし、彼の黒髪が淡く輝いていた。
足元では白いペルシャ猫が、客の靴先を嗅ぐようにして静かに見上げる。
現れたのは、三十代半ばほどの女性だった。
疲れた眼差し、泥の跡がついた靴。
彼女の手には小さなキャリーバッグ――中には、空気のように静かな毛布が一枚。
何も、動いてはいなかった。
「……コーヒーを、ください。
ブラックで。苦いのを。」
朔真は何も問わず、頷くだけだった。
彼女の肩に積もった夜の悲しみを、言葉でほどくには、まだ早い。
彼が淹れたのは、“レクイエム・ブレンド”。
深煎りの豆に、ごく僅かな蜂蜜を落とした特別な一杯。
それは“別れの痛みをやわらげる”という意味を持つ珈琲だった。
湯気が立ち上り、静けさの中で香りが広がる。
その香りに包まれるうち、女性の唇が震えた。
「今日……一匹、助けられなかったんです。
保護した猫。病院へ運んだけど、間に合わなくて……
私が、もっと早く気づいていれば……」
彼女の言葉は、途中で途切れた。
涙が落ち、カップの縁を濡らす。
朔真は黙ってカウンター越しに、そっと小さな皿を差し出した。
その上には、白い猫型のクッキーが一つ。
“無垢の象徴”として、この店では亡くなった命への祈りの印とされていた。
「その子は、もう痛みから解放されています」
「……あなたの手を知って、安心して旅立ったのでしょう」
「でも……私は何もできなかった……」
「救えなかった命、という言葉には“あなたが愛した証”が残ります」
朔真の声は、夜風のように静かだった。
「人は、誰かを完全に救うことはできません。
ただ、その想いが届いた瞬間――その魂は孤独ではなくなるのです」
「命は、形を変えても想いの中で生き続ける」
女性は顔を上げた。
朔真の眼差しの奥には、深い悲しみと優しさが同居していた。
それはまるで、彼自身も“救えなかった誰か”を抱えているようだった。
朔真は何も言わず、
棚の上に並ぶコーヒー豆の瓶からひとつを選び取った。
黒と白の斑模様のラベル――“ノアの調べ”。
ゆっくりと粉を挽き、湯を注ぎ、香りが立ちのぼる。
その香りはどこか懐かしく、
雨のにおいと混じって、結衣の涙腺を静かに緩めていった。
「この豆は、ねこを救った人のためのものです」
朔真は静かに言った。
「たとえ助けられなかったとしても――
あなたの手が、その子に“愛された”という証になる」
結衣は震える指でカップを持ち上げた。
コーヒーの表面に、かすかな白い光が映っていた。
それはまるで、小さな猫が丸まって眠っているように見えた。
「……この味、どこかで……」
「それは、“あの子”が覚えていたぬくもりですよ」
白猫がそっと女性の足元に身を寄せる。
その仕草に、彼女の口元が少しだけ緩んだ。
「この子……まるで、あの子みたい」
「もう一度、頑張ろうと思います。
救えなかった分まで、次の子を……」
朔真は微笑み、カップを静かに片付けた。
「きっと、その子もそう願っているでしょう。
――あなたが笑ってくれることを。」
女性が店を出たあと、扉の鈴が小さく鳴った。
外には月が浮かび、夜気が澄んでいる。
カウンターに残されたキャリーバッグの中。
そこに忍ばせてあった首輪には、小さな銀の鈴がついていた。
白猫がその鈴を軽く咥え、朔真の足元に置く。
「……今度は、きっと届くといいな」
朔真の声が、夜に溶けていった。
その瞬間、店内の時計がひとつだけ、時を刻む音を響かせた。
――誰かの心が、またひとつ救われた印として。
第2章
朝靄に包まれた坂道。
鳥のさえずりが遠くに響く。
その道を、ひとりの女性が歩いていた。
――数日前、白猫珈琲店で出会った朔真と、あの白猫。
夢だったのではと思うほど、あの夜の記憶は淡く、けれど確かに胸に残っている。
「命は、形を変えても想いの中で生き続ける」
あの言葉が、心の奥で静かに響いていた。
彼女――**有紀**は、小さな段ボール箱を抱えていた。
中には、弱々しく鳴く子猫。
雨に濡れ、冷え切って震えていたその小さな体を、有紀は通勤途中に見つけたのだ。
以前の彼女なら、迷っていたかもしれない。
“どうせ自分なんかに、また救えるはずがない”と。
けれど、今は違った。
「もう二度と、見て見ぬふりはしない」
その決意が、有紀の指先に力を宿らせた。
ふと、風が吹いた。
どこからともなく、あの懐かしいコーヒーの香り――。
視線を上げると、そこにあった。
見覚えのある木の扉。
古びたランプ、そして懐かしい文字。
「白猫珈琲店」
「……やっぱり、ここに……」
扉を開くと、カランと鈴の音。
黒髪の青年が、静かに微笑んでいた。
その足元では、白猫がゆっくりと尾を揺らしている。
「おかえりなさい、有紀さん。」
「……覚えて、いてくれたんですか?」
「ええ。この店は、必要とする人の記憶を少しだけ預かるんです。」
有紀は、胸に抱いた箱をそっと見せた。
中の子猫が、かすかに鳴く。
朔真は何も言わず、カウンターの奥へと歩いた。
しばらくして運ばれてきたのは――湯気の立つ一杯のコーヒー。
「希望のブレンド」と記された札が添えられていた。
そして、小皿に盛られたのは、バタートーストとミルクスープ。
「今日のコーヒーは、“はじまり”の味です。」
「……はじまり?」
「ええ。何かを失ったあとに訪れる“次の命”を迎えるための味です。」
有紀はそっとコーヒーを口にした。
苦味と酸味の奥に、ほんのわずかな甘さがあった。
それは、過去の痛みを包み込むような優しい味。
白猫が椅子の上に飛び乗り、段ボールの中を覗き込んだ。
小さな子猫が、それに応えるように鳴く。
その瞬間、有紀の目から涙がこぼれた。
「……この子、あの子に似てるんです。」
「似ているだけではありません。」
朔真は、穏やかに微笑んだ。
「あなたが“想いを繋いだから”、この子はあなたのもとに来たのです。」
有紀はそっと子猫を抱きしめた。
かすかな温もりが、確かに彼女の腕の中で息づいていた。
外は、朝の光が差し込んでいた。
霧が晴れ、花壇の花が一斉に咲き始める。
朔真は、静かにカップを磨きながら言った。
「命を救うとは、与えることではなく、“共に生きること”なのです。」
有紀は深く頷き、店をあとにした。
白猫がカランと鈴を鳴らす。
扉が閉じた瞬間、店はまた、静寂に包まれた。
朔真は、窓の外を見つめた。
「……人は、失ってからようやく“愛する”ことを覚えるのかもしれませんね。」
白猫が一声鳴いた。
まるで“それでいい”と告げるように。
第3章
朝の光が、淡く世界を包みはじめていた。
霧が残る街角を、ひとりの女性が歩いている。
手には、昨日の夜に飲んだ【はじまりのコーヒー】の香りがまだ残っていた。
あの店の、柔らかな灯り。
黒髪の店主。
足元にいた白い猫。
夢のような、静かな場所だった――。
「確かに、ここに……あったのに」
彼女は目印にしていた古い路地を何度も往復する。
昨日、あの扉を押した場所には、ただの古びたレンガの壁があるだけだった。
看板も、あの鈴の音もない。
「白猫珈琲店……どこに、行ってしまったの……?」
風が吹く。
木々の間から、白い花びらのようなものがひらりと舞い降りてくる。
それは、猫の毛のように柔らかく、陽の光を浴びて光った。
女性は立ち止まり、両手を胸の前で組んだ。
あの店で言われた言葉が脳裏によみがえる。
> “救えなかった命、という言葉には――あなたが愛した証が残ります”
涙がこぼれる。けれど、昨日の夜とは違う。
そこには、少しの温もりと、確かな決意が混じっていた。
「……ありがとう。
私、もう一度……あの子たちのために、歩き出すね」
ポケットの中には、銀の鈴があった。
店に置いてきたはずのそれが、なぜか朝、目覚めたとき彼女の枕元に転がっていたのだ。
鈴を指先で揺らすと、小さな音が鳴る。
どこかで――まるで、白猫が鳴いているような響き。
その瞬間、遠くで微かに焙煎した豆の香りが漂った。
けれど次の風が吹いたとき、それもすぐに消えた。
白猫珈琲店は、今日もまた別の誰かの悲しみを受け入れるために、
この世のどこか――誰の記憶にも残らない場所へと姿を変えていた。
朔真はカウンターの奥で、静かにカップを拭いていた。
足元の白猫が、名残惜しそうに尻尾を揺らす。
「……行きましたね、また一人」
白猫が小さく鳴いた。
「次の客は、いつ来るのでしょう」
「――きっと、また夜が深くなった頃に。」
窓の外には、薄明の空。
そこには、救われた者の涙が、やがて光に変わっていくような美しい朝が広がっていた。
「救えなかった命」は、
決して“失敗”ではなく、“愛した証”でもある。
白猫珈琲店は、
後悔を消す場所ではなく、
後悔に意味を与える場所。
誰かを想い、泣き、願い、
その気持ちが確かに存在したのなら――
その命は、今もどこかで静かに眠っている。
そして今日も、
どこかの街角で“朔真の店”はひっそりと現れる。
ひとりの心が、救われる瞬間のために。




