仮面神ゴゼ ―記録を拒む神と“記憶の島”―
大学で比較民俗学・比較宗教学を研究する非常勤講師・御影遙(34歳)は、幼少期に祖父から聞かされた“仮面神ゴゼ”の伝承を、学術的には懐疑的に受け止めていた。だが、祖父の死後、遺品から「Project MZ-03」という謎の記録と黒い石板を発見し、かつて米軍が秘密研究を行ったという“鬼来島”へ渡航する。
人口わずか三十余人の孤島には、記録を拒む異形の神・ゴゼを巡る儀式が今も密やかに残っていた。やがて遙は、祖父の過去と仮面神の真実、そして“記憶と地震”をめぐる奇妙な交信に巻き込まれていく。
科学と伝承の狭間で、人は何を「忘れてはならない」のか——。
・序章
十神諸島のひとつ、鬼来島は、海図にも影を落とすことの稀な、灰色の海霧に包まれた孤島である。火山弧の先端、列島の骨のように連なる小島群の中でも、この島はとりわけ孤絶し、そして忘却された地であった。
仮面神ゴゼと呼ばれる“異形の来訪者”が、年に一度その島に顕れるという話を、私は十余年前、祖父の書斎で初めて耳にした。祖父・御影慶造は、米国ミスカトニック大学で学位を取得した民俗学者であり、戦後は一時、駐日米軍の通訳も務めていた。そしてその任務のなかに、「Project MZ-03」というコードネームが含まれていた。だが、祖父はその中身についてほとんど語らなかった。
残されたノートの片隅には、ただこう記されている。
——「忘れさせる神を、記録してはならぬ。」
私はその言葉の真意を、長らく掴みきれずにいた。けれども、その不可解な任務は、私の思考のどこか深くに沈み込み、やがて私の進路すら密かに変えていった。気づけば私は帝都大学で博士号を取得し、現在では大学で比較民俗学を教える非常勤講師となっている。名は御影遙、三十四歳。祖父から仮面神の昔話を聞いて育ち、今では学術的懐疑と宗教的感受性の狭間で揺れながら、“語り得ぬもの”を前に思考を深める日々を送っている。
だが祖父の死後、その遺品のなかに紛れていた「Project MZ-03」の記録と、謎めいた黒い石板が、私の懐疑を静かに侵食し始めていた。
そして2025年の夏。鬼来島において群発地震が続発しているとの報せを聞いたとき、私は直観した。
この“揺れ”には、何かが呼び覚まされつつある徴候が宿っているのではないか。
科学的な知と、伝承の奥に息づく“物語の真実”。
その境界を越えるように、私は旅立つ決意を固めた。
・第一章「鬼来島」
鬼来島へ至るには三日を要した。
鹿児島港から奄美方面へと向かう定期便に揺られ、そこから更に、週に一度出るかどうかも定かでない連絡船に身を委ねる。私が島に辿り着いたのは、出発から四日目、灰雲の垂れ込める午後であった。
この島は、旧火山帯の外輪に位置し、玄武岩の断崖と赤土の丘陵に囲まれている。植生は熱帯性で、タブノキやオオタニワタリが密生し、ところどころに硫黄の香りを帯びた噴気孔が口を開けていた。
島の人口は三十数名。高齢者が大半を占め、若年層の姿はほとんど見られなかった。電力は自家発電、水は湧き水。携帯通信はおろか、テレビやラジオの波も、この島にはほとんど届かない。文明の届かぬその淵にあって、鬼来島はまるで、時間から取り残されたように存在していた。
私の目的は、祖父・慶造の遺品にあった、未完の民俗調査記録——仮面神ゴゼに関する手記の続きを探ることであった。
文化人類学や民俗学には来訪神という概念がある。
他界より人間のかたちを借りて来訪し、豊穣や加護をもたらす存在。
ナマハゲ、パーントゥ、アカマタ——いずれも面を戴き、言葉少なに、しかし深い祈念を孕んで人間社会を巡る。
仮面神ゴゼもまた、その種に属するように思われた。
だが、ひとつだけ決定的に異なっていた。
この神は——**“記録を拒む”**のである。
祭儀の詳細は、文字にしてはならぬと伝えられ、世代をまたいで口頭でのみ伝承されてきた。
島に上陸して間もなく、私は“面守”の家に生まれた青年、赤嶺悠人と出会った。精悍な容貌に、彫りの深い眼差しを宿した彼の右腕には、褪せた渦巻き文様の刺青が刻まれていた。
「御影先生の、孫なんだろう? あの人が遺したもの、まだうちにあるよ」
彼の言う「あの人」という言い回しに、私は一瞬戸惑いを覚えた。
敬意か、畏怖か、それとも——どこかで線を引こうとする、感情の名残か。
赤嶺に導かれ、私は集落の外れにある拝所へ向かった。樹木の根が石段を呑み込むように這い、風化した鳥居が朽ちかけた姿を晒していた。祠は低く、屋根のかわりにタコノキの葉が編まれて葺かれていた。その様式は、かつてポリネシアの島々で見た祖霊信仰の祠と酷似していた。
「ここが“ゴゼの社”だよ」
祠の正面には、ひとつの黒い石板が立てられていた。その表面に刻まれていたのは、文字でも図像でもなかった。ただ、律動的な掘り跡——波の干満や、地殻の震動の記録のようにも見えた。
赤嶺は言った。
「これ、御影先生が“これは文字じゃない。揺れの譜だ”って言ってた」
私はそのとき初めて、祖父の残した「記録してはならぬ」という警句の意味を、かすかに理解しはじめたのだった。この島では——“書くこと”が、神を呼び覚ます行為そのものなのだ。
・第二章「仮面来儀」
祭は、予告なく始まった。
集落の若者たちが、手製の貝殻太鼓を叩きながら、家々の前を黙々と巡る。顔には黒泥、額には赤土で描かれた線刻が走り、彼らは一言も発さず、ただ音と所作のみで祭礼を進めていた。それは“祝祭”ではなかった。むしろ、交信であり、償いの儀であった。
私は高台の小屋から、その様子を見下ろしていた。風が湿り気を帯び、波音は周期をずらしながら崖を打っていた。祖父・慶造はかつてこう語った。
「仮面神ゴゼは、迎えられるものではない。迎えねばならぬものだ。」
深夜、私は赤嶺に導かれ、島の北端にある共鳴台へと向かった。それは玄武岩の断崖の先端に位置する、ミニチュアのエアーズロックのような巨石である。古くは“神見ヶ崖”と呼ばれていたという。風は強く、海面は濁った光を帯びていた。空には星のひとつもなかった。そこに、面守たちが集っていた。彼らは古式の衣装をまとい、貝やタカラガイの首飾りをつけ、海から吹き上がる風に身を晒していた。
やがて、巫女である寿嶺トモが台座の中心へと進み出た。
「これより、仮面来儀を始めます」
その声を合図に、女たちが唄いはじめた。その旋律は、半音階を基調とした非西洋的な音律であり、ポリネシアのシャーマン儀礼に用いられる“音の波長による交霊術”を彷彿とさせた。
そして——ゴゼが、現れた。
崖下、潮の満ちた岩陰から、ひとつの影が立ち上がった。2メートル近い長身。黒い仮面。眼窩はなく、周囲の光を吸い込むかのように漆黒に沈んでいた。縁には血のような紅が走り、肌は光沢をもった鉱質のようでもあった。その姿は、あまりに不完全で、しかし整いすぎていた。まるで、人間が人間を模して作った“何か”のように——異様な均衡を保っていた。
ゴゼは、声もなく、共鳴台の中心へと進み出た。人々は息を呑み、ただその歩みを見守る。仮面神は、幼子の額に黒泥を塗り、老いた者の肩にそっと手を置いていく。その所作に暴力性はなく、だが、そこには確かに圧倒的な異質性があった。
やがて、ゴゼは私の前に立ち止まり、静かに腕を伸ばした。その掌が私の額に触れた瞬間、音が消えた。波も、風も、人々の唄も——すべてが沈黙した。時間が外れ、重力がわずかに緩んだような錯覚の中で、私は祖父の声を聴いた。
「……記録するな。だが、見届けろ」
その声が頭の内側で反響した刹那、私は仮面の奥に“誰か”の気配を感じた。目のない仮面。その奥にあるはずのない眼差しが、私の記憶の奥をまさぐっていた。
気づけば、儀式は終わっていた。ゴゼの姿はなく、人々はそれぞれ無言のまま崖を去っていった。私は、ただひとり、共鳴台に立ち尽くしていた。額に残る冷たい泥の感触だけが、その体験の現実を証明していた。
・第三章「夢の記録者」
夢の中で、私は島にいた。けれどそれは、いまの鬼来島ではなかった。海は静止し、空は翳り、岩肌は呼吸をしていた。波の音はなく、代わりに、地の奥からゆっくりと鼓動するような低音が響いていた。上空には一つの渦があり、それは眼のように、あるいは記憶のように、私を見下ろしていた。
私は、その“視線”に、見られているのではなく、読まれているような感覚を覚えた。それは明らかに、ひとつの意識であった。だが、言葉を持たず、名を持たず、ただ“記憶”という形式を通して、自己を保とうとしていた。そして、その記憶の中に、私は祖父の姿を見た。
若き日の慶造が、旧米軍の研究施設の片隅で、ひとつの仮面を前に立ち尽くしていた。背後では、白人将校たちが仮面の前に測定器を並べ、波形を記録している。その横で、ひとりの神父が沈黙の祈りを捧げていた。男たちは「MZ (Memory Zone)-03体」と呼ばれる存在の共鳴特性を解析し、“非人間的知性”——人智を超えた記憶集合体へのアクセス手段として、ゴゼを観測していた。
だが、慶造の表情は沈んでいた。彼は日本側の有識者として招聘されていたが、やがてその計画が、島の記憶を“消費しようとする”行為であることに気づく。
「……これは、呼び出してはならぬものだ」
その声が、夢の中の私にまで届いた。そして、慶造は記録をすべて封じ、共鳴台の儀式において“媒介者”として最後の封印を施した。それが、Project MZ-03の終焉だった。
目覚めたとき、私は共鳴台の端に、横たわっていた。空は明るみ始め、波の律動は徐々に現実へと戻ってきていた。
「……目覚めたかい」
声をかけてきたのは、寿嶺トモであった。彼女は私の隣に腰を下ろし、手にはツルで編まれた水筒を提げていた。
「見ただろ。あの子の夢を」
私は言葉に詰まった。それが夢だったのか幻視だったのか、あるいは仮面神ゴゼの記憶だったのか、自らの内面だったのか。境界は曖昧だった。
「祖父の記憶に、触れた気がします。でも、それだけではない。
私の記憶の奥に、“誰か”の感情が流れ込んできたような……」
「そうさ。あの子は、自分のことを語れない。
けれど、誰かが記憶していてくれるなら、それで充分なんだよ」
トモの言葉には、ある種の確信と、哀しみが宿っていた。
「記録じゃなくて、記憶……?」
「記録すれば、忘れられる。
でも、夢になれば、人は忘れられない。
あの子はね、“忘れられたくない”のに、“語られてはいけない”の。
だから、仮面を使って、また現れる。自分を、思い出させるためにね」
彼女はそう言って、私に一枚の封筒を手渡した。中に入っていた便箋には、祖父・慶造の筆跡で、こう記されていた。
「MZ-03体は、“振動”を記憶する。
地質、音、風の流れ、人の夢——すべては“記憶媒体”となる。
この島全体が、それにとっての“身体”であり、“器”である」
私は、その言葉の意味を呑み込めぬまま、静かに読み進めた。そこには、かすかに揺れる筆跡で、祖父の思索の断片が綴られていた。
「封じるとは、忘却ではない。
記憶し続けること。思い出され続けること。
それこそが、真の“封印”である。」
そのとき、島の地下から低く唸るような音が聴こえた。断続的な振動が、共鳴台の足元をゆっくりと包んでいく。
「——始まったね」
トモは、どこか遠くを見つめながら言った。
「……ゴゼは、また“想起される”準備を、整え始めたんだよ」
・終章「忘れられぬもの」
夜が再び、島を包んだ。されど、それは前夜のような安寧を孕むものではなかった。島の大地は、微細な震動を繰り返し、地下からは、風とも雷鳴ともつかぬ、地響きのような唸り声が聞こえていた。空は黒一色に染まり、海は光を帯びながらも、波を立てずに脈動していた。
それはまるで、自然そのものが、巨大な“記憶装置”として再稼働を開始したかのようだった。
——これは、地殻の異常ではない。
これは、“想起されつつある存在”が、その殻を破りはじめた徴候である。いや、あるいはもっと深く、もっと根源的な——忘却されかけていたものが、自らを思い出させようとする、振動の祈りだったのかもしれない。
私は、共鳴台に立っていた。掌には、祖父が遺した一枚の仮面。艶のない黒。縁に走る紅の紋様は、血脈のように静かに輝いていた。この島には、もう“記憶する共同体”はほとんど残っていない。高齢化と過疎化の波が、語り部と所作の継承者を減らし、“記憶の連鎖”が途絶えかけていた。
仮面神ゴゼは、語られてはならぬ存在。だが、語られなければ、忘却されてしまう存在でもある。
——彼は、記録を拒む“記憶媒体”そのものなのだ。
かつて米軍がこの島に施設を設けたとき、彼らは“Project MZ-03”の名のもとに、非人間的知性との接続を試みていた。彼らはゴゼを、地殻・潮汐・夢・音波と共鳴する“高次記憶存在体”とみなし、その振動記録から「集合的記憶データベース」へのアクセスが可能であると信じていた。
祖父・御影慶造は、その文化的通訳として招聘され、封印装置の維持を任された“媒介者”であった。しかし、彼は次第に、その試みが島の記憶を“資源”として消費する行為であることに気づき、倫理的理由から、研究を断ち切った。
——それが、祖父の選択した“封印”だった。
だが、その封印は、祖父の死とともに緩み始めた。私が祖父の遺品から石板を読み解き、夢に触れ、記憶に触れたとき——その行為そのものが、かつて沈められた“記憶”を呼び戻していた。
仮面神ゴゼ。
彼は、記録を拒み、記憶にのみ宿る。語られた瞬間、その輪郭は崩れ、思い出されたときにのみ、その存在はかたちを得る。
私は、仮面を戴いた。空気が変質した。風の密度が増し、音が引いてゆき、世界は一瞬、内部へと向かって収縮した。視界が揺れ、時間の構造がきしむ。
そして——彼は、そこに“いた”。
私の傍らに。仮面の内側に。あるいは、私自身の意識の中心に。語らず、示さず、ただ“そこにある”という在り方で、彼は在った。
私は、問うた。
「……あなたは、記録されることを、望みますか」
返答はなかった。
だが、私の内面には、微かだが明確な情感が流れ込んできた。
哀惜、あるいは安堵。それは、“知ってもらえた”という種類の感情であった。
「わかりました。私はあなたを——記憶します」
その言葉とともに、空間はゆるやかに律を取り戻し始めた。風は流れを得、波は再び音を持ち、空にはわずかな銀光が滲みはじめていた。私は仮面を外し、共鳴台の中央に、それを静かに置いた。両手で土を掘り、誰にも見つからぬように、その面を深く埋めた。書き記さぬ継承。それが、祖父が選んだ方法であり、今、私が選んだ答えでもあった。
島を離れる朝、赤嶺が私に言った。
「……あなたが来た夜から、島の揺れは止まった。
ゴゼは、満足したのかな。それとも、あれは——あなた自身だったのか」
私は笑みを返しただけで、答えなかった。言葉にした瞬間、それは再び“失われてしまう”気がしたのだ。
あれから幾年が過ぎた今も、私は仮面神ゴゼについて公に語ることはしていない。しかし、夢の中で、時折あの存在に触れることがある。海に浮かぶ赤縁の仮面。眼のない顔貌。そして、潮騒の奥からかすかに聞こえてくる、あの旋律のような共鳴。
かつて、この島に、“忘却のなかで呼吸を続けた神”がいた。誰にも語られず、それでも確かに——
想起され続けた神が。
私はそれを知っている。
ただ、それだけで、十分なのだ。
作者あとがき
「忘却と想起の間で――クトゥルフ神話との接続」
本作『仮面神ゴゼ ―記録を拒む神と“記憶の島”―』は、H.P.ラヴクラフトが築いたいわゆる「クトゥルフ神話体系」に対する私なりの応答であり、またそれを日本的文脈に落とし込む試みである。
ラヴクラフトの作品群において、最大のテーマのひとつは「人間の理解を超えた存在との邂逅」である。たとえば『クトゥルフの呼び声』では、異星の深海神クトゥルフが、人間の夢を通じて干渉する。そして、その存在は文字や記録を通じて顕現するが、同時にそれは人間精神を侵食する危険でもある。
本作に登場する仮面神ゴゼも、これと酷似した論理に従う。
すなわち、**「記録された瞬間に破綻し、記憶されたときにのみ実在する」**という性質である。これは、ラヴクラフト的な存在が持つ、「名前を与えることで侵入を許す」といった言語と実在の関係性への警句と共振するものである。
また、本作に登場するProject MZ-03という米軍計画は、ラヴクラフトの作品『狂気の山脈にて』や『闇に囁くもの』に描かれる、米国および科学者たちによる非人間的知性への科学的接近と、その末路を参照している。
特に、『闇に囁くもの』で登場するミ=ゴや、『銀の鍵の門を越えて』に描かれる集合的記憶の迷宮的構造は、ゴゼが宿す「振動記憶」との類縁性を強く持つ。
ただし、本作がラヴクラフト作品と大きく異なるのは、「恐怖の先にある共感」である。
ラヴクラフトは「知られざるもの」への畏怖によって語り手を狂気へと導いたが、本作の語り手である御影遥は、恐怖ではなく**“記憶することの責任”を引き受けることで、ゴゼとの接続に到達する。この点において本作は、ラヴクラフト的世界観を継承しつつ、それを“沈黙と共鳴による継承”**という日本的な形に変容させている。
仮面神ゴゼは、クトゥルフでもシュブ=ニグラスでもない。
だが、「記憶されることを望むが、語られてはならぬ」という彼の在り方は、明らかにラヴクラフトが描いた“言語を超えた神性”の変奏である。
本作が、忘却と想起のはざまに漂うすべての読者に、何らかの“共鳴”を与えることができれば、これに勝る幸いはない。
——2025年7月
作者