変わらないことの罪悪感
「私、たぶん……ちゃんと向き合わなきゃいけない気がしてる」
金曜の夜。小さな居酒屋のカウンター席で、美奈はそう言った。
谷口は、箸を置いてゆっくりと彼女を見た。
「向き合うって、何と?」
「自分と……かな。なんか、ね。変わりたいって思うんだけど、どうしたらいいか、わからなくて」
それは、美奈にしてはかなり珍しい言葉だった。
いつもは、「大変だけど頑張ってる」「しょうがないじゃん、性格だし」
――そんな風に、強がりで全部蓋をしてきた。
でも、谷口の前では、少しだけ、それができなくなっていた。
沈黙のあと、谷口は一言だけ答えた。
「そのままでもいいと思いますけど」
「……なんで?」
「変わろうとしてる人が、一番変わってると思うんです。努力してる時点で、たぶん十分なんですよ」
それは、優しすぎる言葉だった。
でも美奈には、うまく受け取れなかった。
翌日、美奈は後輩とカフェで雑談していた。
ふとした拍子に、後輩が恋人の話をしはじめた。
「ほんと、うちの彼って地味でさ。でも誠実だし、安心するっていうか」
その言葉に、美奈の脳裏に、谷口の顔が浮かんだ。
“誠実で安心できる”――
言い換えれば、“退屈で、何も起こらない男”。
どこかで、そう思っている自分がいた。
そして、美奈は自分の思考の冷たさに、嫌悪した。
「変わりたい」と口にしたばかりなのに、心の中では谷口を評価していた。
“この人と付き合ってる私って、価値あるの?”
“もっと華のある人といた方が、私は“映える”んじゃない?”
そんな声が、また勝手に湧いてきてしまう。
自分が“誰かの隣にいる自分”に価値を見出す癖を、
まだまったく克服できていないことに、気づいてしまった。
その夜、谷口の部屋にいた美奈は、また試すようなことを言ってしまった。
「谷口さんって、なんでずっと私といるの? もっと可愛い子とか、穏やかな子とか、他にいない?」
谷口は、ちょっと考えてから答えた。
「可愛いとか、穏やかとか、そういう尺度で選んでないから、かな」
「じゃあ、私のどこがいいの?」
それは問いというより、罠に近かった。
“何かを言ってくれないと、試練にする”――そんな風に、美奈自身がしてしまっていた。
谷口は少し笑って言った。
「……どこって、ひとつじゃないです。でも、そばにいると、ちゃんと生きてる感じがするんですよね」
その言葉に、美奈はなにも言えなかった。
嬉しいとも思えなかった。ただ、苦しかった。
だって私は、“ちゃんと生きてる”ふりをしてるだけなのに。
夜、谷口が寝たあと、ひとりで水を飲みながら美奈は思った。
「私は、この人の隣にいる資格があるのかな」
変われないくせに、変わろうとするふりをして、
優しさに甘えて、無意識に試して、
それでも見捨てられたくない――
そんな自分が、一番嫌だった。
でも、変わるって、どうすればいいのか、やっぱりわからなかった。