静かな違和感
その日、美奈は少しだけ機嫌が悪かった。
クライアントの要望はコロコロ変わる。
後輩は提出期限を間違え、上司からは「もうちょっと段取り考えて動け」と呆れられた。
「私が全部抱えてるじゃん」と思いながらも、口には出さず、心の中で毒づいた。
そんな中、夕方からの打ち合わせ相手が、谷口俊平だった。
場所は、取引先の会議室。
先に入っていた谷口が、立ち上がって頭を下げた。
「お忙しいところ、ありがとうございます。谷口と申します」
姿勢がまっすぐで、声は控えめ。
だが、それ以外は、印象に残らなかった。
身長は中肉中背、スーツは吊るしのもの。
時計はカシオのデジタル、髪も整っているが地味。
どこを取っても、“普通”だった。
「どうも、上野です。よろしくお願いします」
美奈も営業慣れした笑顔で返す。
その場では、業務的なやりとりが粛々と進んだ。
打ち合わせが終わったあと、谷口が小さな紙袋を差し出した。
「これ、今日寒かったから……缶コーヒーです。よかったら」
美奈は、少し驚いた。
取引先でそんな気遣いを受けることはあまりない。
「あ、ありがとう」
受け取った缶コーヒーは、温かかった。
それだけで、張り詰めていた気持ちが少しだけ緩んだ。
「……変な感じ。大したことされてないのに、なんか沁みるって思っちゃった」
そんな風に思っている自分が、少しだけ恥ずかしかった。
数日後、谷口からメールが来た。
「急に失礼ですが、もしお時間あれば、今度ランチでもいかがでしょうか?」
一読して、正直に言えば、美奈の反応は「なんで私?」だった。
彼は“狙うタイプの男”に見えなかったし、自分も“狙われる理由”が思い浮かばなかった。
それでも、返事を送った。
「お昼、ちょうど空いてる日あるので。軽く行きましょうか」
――本当に、ただの暇つぶしだった。
約束の日。待ち合わせのカフェで、谷口はすでに来ていた。
スマホではなく、文庫本を読んでいた。
見た目はやはり地味で、取り立てて話題になるようなものは何もなかった。
それなのに、気づけば1時間、ずっと話していた。
谷口は美奈の話をよく聞いた。
うなずき方が自然で、口を挟まないのに、ちゃんと「聞いている」と感じられた。
美奈は元彼のことも、仕事のことも、他愛ない愚痴も話した。
「すごいですね」「大変そうですね」
どれもありきたりな言葉だったはずなのに、なぜか、雑に感じなかった。
食後、店を出たところで谷口が言った。
「話してて、なんか落ち着きました。……また、よければぜひ」
「そうですね、また時間合えば」
口では軽く返したが、心のどこかで、妙な“居心地のよさ”を覚えていた。
その夜、美奈は家で一人、スマホを見ながら考えていた。
「なんで私、今日あの人と、ちゃんと話しちゃったんだろう」
見た目も、年収も、肩書も――何ひとつ、条件には合っていない。
けれど、話していると、自分の中にあるざらつきが、少しだけ静かになる気がした。
それがなんなのか、まだわからなかった。
ただ、谷口俊平という男が、今までの誰とも違う“何か”を持っていることは、
美奈自身が一番、うすうす感じていた。