10.孤独の首なし淑女(レディー・デュラハン)は気の利く従者を迎えたい
突如として首なし淑女のアイシュ・レーンイシュトスに異世界召喚された主人公・抱井斗真は、頭部の代わりにそっと静かに揺らめき立つ炎を首から上に浮かべたアイシュの従者として、異世界で生活することになる。
抱井斗真は高校一年生。一大企業の社長である父とその秘書だった母のもとに生まれ、優秀な兄とは対照的に不出来な人物だった。早々に両親から見切りをつけられ、以後は家庭内で使用人のような立ち回りを要求される。そして、それを甘んじて受け入れる生活を続けていた。
一方、そんな彼を召喚したアイシュは高貴なるデュラハンの淑女。古き時代に捨てられた城を改築し、悠々自適に暮らしていたのだが、『魔力逆流症』という病を患ってしまい自力での生活が困難になる。その打開策として城に残されていた古の召喚魔法陣を起動する。
そうして二人の日々は始まった。
当初こそ戸惑い、またそんなアイシュの首のない姿に恐れ慄いてはどこまでも隷属的な人生を憂いるばかりだった斗真。「現実世界でも異世界でも僕は変われない」と悲観を続けていたが、次第に、アイシュとの生活は必ずしも実家での暮らしと同じではなかったことに気付く。
斗真は幸せだった。
アイシュは嫌な両親とは違い、斗真の仕事ぶりを認め、時には休むことすら勧め、礼を欠かさず、褒めて可愛がるような人だった。それが自己肯定感の低かった斗真の心にどこまでも染み渡っていった。
斗真はこの世界で初の『生きがい』を知ったのである。
しかし、斗真は同時に罪悪感を覚えている。
それは子どもの頃から植え付けられてきた呪縛。自分が幸せになることに強い忌避感を覚えている彼は、そんなある日、アイシュが魔力逆流症の治療薬の目処が立ったことを嬉々として報告すると、愕然とした。
"これでお前の手を煩わせることはもうない"
その言葉に両親から見切りを付けられたあの日のトラウマを再発させてしまった斗真は、家出のように城を飛び出す。
雨の中。まだ薬が完成したわけでもないのに自身の役割を放棄して、あまつさえ信頼をぶち壊しにして。己の無責任さを斗真は自責する。
己は何のために生きるのか。
自問自答した斗真は翌日城に帰り、アイシュに向かってこんなことを言った。
「僕が必要なくなったのなら、僕を元の場所に返してください」
――その発言の真意とは。
僕の心のなかで、真っ黒い,姿をしたもう一人の僕は、いつだって僕のことをこう責め立てる。
『お前は、不出来な上に無責任なのか?』
『お前は、兄を立てるために生まれたんじゃないのか?』
『お前は、幸せを享受していい人間なのか?』
『人を散々失望させておいて、呑気に笑っていいと思っているのか?』
『人に迷惑を掛けることしかできないウスノロが』
『満足に役目も果たせないグズめが』
『自分の価値を少しでも誤認して、必要とされたくて家出しちゃうようなかまってちゃんが』
……全くもって、その通りだ。
僕に幸せな生活なんて許されないし、この人生に『生きがい』や『やりがい』を見出してしまうなんて大間違い。この人生は僕のためじゃないのに、僕のためにしようとしてどうする?
母が言うように、父の冷たい視線のように、兄の無関心さのように、色々と足りていない僕は人様に迷惑を掛けてきた分だけ、生涯を掛けて返済していかなきゃならない。
今思えば、全てが間違いだった。
こんなところでうつつを抜かす前に、僕は家族に還元しなきゃいけないものが山ほどあったんだ。あんな家族の元にいるより、アイシュさんと一緒にいたいと思ってしまうなんて、僕には過ぎた願いだった。
そう、僕は自分のために生きちゃダメだったんだよ。
× × ×
"……それは、本当に言っているのか?"
返してください、と口にした僕に対して、彼女は試すようにそう言った。
僕の脳内に直接伝わる彼女の声音は、いつもよりも数段冷え切っていて、その感情は読み取れるものではない。
肩身を震わせ萎縮しながら、伺うように僕は言葉を並べる。
「……はい。元より、僕が召喚された理由は、一人では不便な生活の介助です。薬が完成したら、僕は必要なくなる」
確かめるように僕がそう言うと、彼女は否定も肯定もせず押し黙る。
「それなら僕は、待たせている家族の元に帰らなきゃ」
"お前の家庭の事情は、シェリルから聞いているぞ"
「っ、どうして」
僕は困惑する。
シェリルは、ある日この城に迷い込んだ黒猫になれる女の子の名前だった。当初は彼女が呪いを掛けられた獣人であると気付かなくて、黒猫の頃に城で飼うことになり、毎日のように夜な夜な自分の話を聞かせていたら、のちに呪いが解けて本当は人間だったと発覚。人様に家庭のことを話すのは母が定める禁忌だったから、異世界であるにも関わらず恐れた僕は慌てて口止めした過去がある。
……なのに、裏切られていたみたいだ。
シェリルが理由もなく吹聴して回る子だとは思っていないけど、この場にシェリルは同席していないから、確かめようがなくて内心強いショックを受ける。
顔を暗くする僕を前に、玉座に座るアイシュさんは、僕を追い詰めるように再度言葉にする。
"改めて聞くぞ。それは本心で言っているのか?"
本心かそうでないかを聞かれたら、きっとこれは僕の本心ではない。でもだからといって、この世界にいたい、アイシュさんと離れたくない……そう心から思っても、僕には口が裂けても願えない。それらは僕個人の私欲でしかない。
残念ながら、抱井斗真という人間には、家族にまだ返さなきゃいけないものが沢山あって……。
言葉にして否定する勇気もなかったから、なんとか首肯だけを返すと、アイシュさんはぎゅっと拳を握りしめる。
"……そうか"
頭部の代わりの青白い火が、少しだけ揺らめいた気がした。
「………」
それ以上の言葉は脳内に伝わってこない。
ああ、これで僕の将来は決まったんだ。自ら口にしたことではあるけれど、やっぱり寂しく感じてしまうのは、『本当は止めてもらえるんじゃないか』という甘えがあったからで。
僕は浅ましい人間だ。自らの首を絞めている自覚はある。
話が終わったと見て、僕は立ち上がる。薬の完成は約三日後だそうだ。それをもって僕はこの世界で与えられた従者という役割を終え、元の世界へと帰ることになる。
「失礼します」と声を掛けながら背を向けると、退室の間際、後方のアイシュさんを起点に魔力の乱れが広がったのを悟った。
まずい! 僕は咄嗟に振り返る。これは『魔力逆流症』の症状だ。
「アイシュさん!」
"……ッ、く……ッッ"
魔力逆流症は、五感を魔力で代替するデュラハンにとって致命的な病の一つだ。五感に対する魔力の流れが逆転することで、例えば音を感じるはずが音が押し寄せてくるように感じたり、肌に触れるものが肌を突き刺すように感じたり、空間が歪んで壁や天井が迫ってくるように誤認してしまうことで、転倒のリスクが非常に高くなる。
それらの一般的な『軽症状』ならまだいいのだが、最たるものでいえば思念伝播。魔力で制御されていた思考や言葉が決壊したダムのように溢れ出ることで、いわゆるサトラレ化してしまうというのが――もっとも厄介な症状だった。
"近づくな……ッ"
「でもっ」
僕のことを押し除けようとして呻くアイシュさんのそばに駆け寄り、彼女の丸くなった背を必死にさする。そうこうしているうちに、彼女から溢れ出た魔力が淀みのように空間に滞留し、その思念が僕のなかにも流れてくる。
―――――ああ。――どうしてそんなことを言うんだ。――私のことが嫌いになったのか。――返したとて心配だ。――シェリルは泣きながら私に相談してくれたと言うのに。――私だって私の斗真をそこに送りたくはない。――止められないのか。――どうにもならないのか。――この地に勝手に呼び出した以上、無理にこの世界に留まらせることもできない。――だからといって。――このままでいいのか。――私が悪いのか。――どうしたら止められるのだ。――どうしたら斗真を説得できるのだ。――待って、待ってくれ――斗真―――。
「っ……!?」
ぐっちゃぐちゃに混ぜられて、流れ込んでくる思念の濁流。そういえば以前、薬の開発にも携わっているアイシュさんの知り合いの魔女が、魔力逆流症について僕に教えてくれたことがある。暴走し悪化する原因は本人の情報処理が追いつかない精神的過負荷によるもの。
つまり、今回起こってしまったのは、僕が彼女を悩ませたせいなのかもしれなくて……。
言葉の端々から感じられる彼女の想いに僕は引っ張られ、自然と涙を流していることに気付いた。
「ムム!? 何やら秘密のお話のはずがえらいことになってますねぇ!」
「アイシュ様! トーマ! 薬の魔女様を連れてきたよ!」
逆流した魔力の暴走を感知してか、颯爽と駆けつけてくれたシェリルと魔女の手によって、僕たちは医務室へ運び出される。
アイシュさんが落ち着くまでを、そのすぐ隣で僕は見守った。
× × ×
まるで蝋燭の火のように弱まっていた彼女が、少しだけその勢いを強くして起床する。
倒れてからしばらく後のことだった。
「アイシュさん」
"……ああ、またも迷惑を掛けたな。すまない"
申し訳なさそうに彼女が言葉にする。その声音はひどく弱々しい。
こういうとき、彼女の顔が見られないことに僕は強いもどかしさを覚える。本当は彼女が謝る必要はない、どちらかと言えば僕のせいなのだから。その想いを、目を合わせて伝えられたらいいのに、と思ってしまう。
この世界にきてしばらく経つけど、いまだに首がないことには慣れない。
"はは、情けないばかりだ。斗真には世話になりっぱなしで、もう手を煩わせたくはなくて薬の完成を急いだのに"
その言葉に、僕はハッとする。
突き放されたように感じた彼女のあの言葉は、僕の勘違いだったのだろうか。
"だが都合はいいな。私の想いは伝わったのだろう、斗真"
「……っ、は、はい……」
横になる彼女の手が僕の頭をなでる。
"お前が大事だと思っているその場所は、私にはその価値があるように思えん"
これは、僕の実家のことだ。
"であれば、お前のことを大事に思っている場所に、お前は残るべきじゃないだろうか"
……これは、このお城での生活のこと、だろうか。
"お前は、抱え込みすぎなのだ。気の利く従者を求めたのは私だが、それで身を破滅させるような人間を寄こせと召喚陣に願ったわけではない"
言葉が出ない。
涙が溢れてくる。
"私はお前を無責任だとも、不出来だとも思わない"
息が詰まる。それは誰かにずっと言って欲しかった言葉。でも誰にも相談できないから、出てくるはずがなかった言葉。
それをアイシュさんは言葉にしてくれる。
"一度素直になってみろ。この世界にお前の肉親はいない。その言葉は私たち以外には届かないのだから"
異世界に帰りたいか、帰りたくないか。
その選択権をもう一度与えてくれる。
アイシュさんは、僕をよく見てくれている。こんな心優しい人、僕の周りには絶対にいない。こんな人を裏切っていいわけがない。裏切った後、向こうで昔のような生活をもう一度頑張れるほど、僕はきっと強くない。
「やっぱり……」
"うん"
「ここに、いたいです。アイシュさんに、必要とされなくても……」
"斗真は、私の良き従者だろう?"
その言葉に、許されたような気がして。
面を上げる。
"私の病が完治したら、旅行にでも行こう。思えば一度も城の外を斗真に見せていないからな"
今までの役割がなくなっても、アイシュさんはその先の日々を約束してくれる。
やっぱり、僕はここで幸せになりたい。
そう決心してしまえば、どれだけ両親に対する罪悪感があっても、あの世界とここにいる僕を切り離すことなんて容易なんだと気付けた。
 




