08.たったひとりの異世界人
谷口梨花、16歳。
ごく普通の高校生だった私は、ある日突然異世界に転移した。
誰かが召喚したならまだ納得もできた。けれどこの世界には、”異世界”という概念すら存在していなかった。
絶望する私を、自由に動き回れるからと支えてくれた第三王子のカイン様。
カイン様から紹介された、魔術師たちの集まる魔術塔の面々と共に、まずは異世界、私の元いた世界と繋がる陣を敷けるか否かの研究が始まった。
時折、元いた世界を夢に見ることがあり、しかもそれは私が居なくなった後の世界で。
だから私の夢と元の世界が繋がっているのだということになって、研究室に泊まり込みでデータを集めた。
しかし、研究はなかなか軌道に乗らない。
焦れた私は、この世界を脅かしているらしい魔王を倒せば、何かが変わるかもしれないと思い立つ。
聞けば、この世界に残る伝説には勇者や聖女の存在があるという。
カイン様の助力を得ながら王の信頼を勝ち得、各国の王とも連携を取って魔王に対抗する力を持つ者たちを探すことに。
勇者、聖女、他にも魔術とは異なる性質の力に目覚めた者たちが各地にいた。時には私やカイン様が直接出向いて協力を仰ぎ、魔王対人類の図式ができあがった。
彼らの力によって世界各地で起こる魔物たちの侵攻は食い止められ、そして遂に勇者たちが魔王を討ち果たす。
けれど、その一報が入っても私は何も変わらなかった。
何も、変わらなかったのだった。
「今日も成果はありませんでした」
「分かりました。ありがとうございます」
このやりとりも何度目だろう。魔術塔のみんなが悪いわけではない。彼らは寝食を削って研究に励んでくれている。成果がなかったという、したくない報告だって律儀に毎日してくれて。
私をこの世界に呼び寄せた原因すら、未だ分かっていないのだ。成果が出ないのも仕方のないことだと思う。
魔王が討ち果たされたという知らせが入った日は、ついに帰れると思ったけれど、何も起こらなかった。
むしろ、今まで時々見ていた家族の夢を見なくなったくらいだった。
もう、帰れないのだろうか。
このまま家族の顔も忘れて、この世界で死ぬのだろうか。
外の空気が吸いたくて中庭を歩く。初めは迷子になって出られなくなった中庭も、もう知り尽くしてしまうくらいには馴染んだこの世界で、私は。
「リカ」
「カイン様」
行く当てもなく中庭を歩いていると、背後から声を掛けられる。振り返るとカイン様が心配そうな顔で私を見ていて、慌てて表情を取り繕った。
「顔色が悪いぞ、中に戻れ」
城へ誘導するように肩に置かれた手は優しくて、ずっと心の奥底に仕舞い込んできた想いが溢れ出しそうになる。ずっとこの世界で生きていくことになるのなら、秘めたままにしておく意味もないのではないかと。
「リカ?」
自然と足が止まっていたらしい。こちらを気遣うように顔を覗き込んでくるカイン様と視線が絡んだ瞬間、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。
堤防が決壊したみたいにとめどなく涙が溢れて、止まらなくて。
「最近、もう夢も見なくて」
「……あぁ」
「だから、私、もう、帰れないのかもって」
「そうか」
「帰れないなら、ずっとこっちにいるなら……わた、し」
「リカ」
全部言い終わる前に、カイン様の温もりに包まれる。思ったよりしっかりした胸板が額に触れて、両の腕が背中に回された。
「俺は、リカが好きだ。キミがいつか元の世界に帰る時、重荷になりたくなくて言わずにいたが……リカも同じだろう?」
「ど、して……」
「見ていれば分かる」
「えぇ……?」
ずび、と鼻をすすりながらカイン様を見上げる私の顔は、きっとものすごいことになっているに違いない。けれど、私とカイン様の額同士がこつんと触れ合って、至近距離で見つめあう。
「先に言われるのは嫌だったから言わせてもらったが、リカからも言ってくれ。聞きたい」
今まで聞いたことないくらい甘い声でそんなことを言うカイン様は、ずるい。恥ずかしさで溶けてしまいそうな心持ちになりながら、絞り出すように「好きです」と言った。
「ん? 聞こえないな」
「うそ!」
「何度でも言ってくれ」
「好き! 好きです! 私がこの世界で今まで生きてこられたのは貴方のお陰なの、本当に……」
言いながらまた泣き出す私を、カイン様がきつく抱きしめる。私も両腕をカイン様の背中に回し、しがみつくみたいにしてその存在を確かめた。
どちらからともなく触れた唇は、柔らかくて、あたたかかった。
カイン様は王子ではあるけれど、第三王子という立場もあって王位を継承する気などサラサラないと公言して憚らない人だった。だから安心しろと言われた私は、その言葉の意味に気付いて真っ赤になる。
しかし、すぐには私の気持ちが落ち着かないだろうと、正式にどうこうというのは待ってくれるようだった。勢いで告白してしまったけれど、まだどこか心は沈んだままだったから、その思い遣りがありがたかった。
カイン様の優しさに包まれて、ゆっくりこちらの世界に骨を埋める覚悟を決めればいい。
そう、思っていた。
◆
「リカ様! リカ様!」
いつも私に成果報告をしてくれる魔術師のサリオスさんが、普段であれば塔にいるはずの時間に部屋を訪ねてきた。何事かと扉を開ける私の目の前に差し出された物を見た瞬間、時が止まった。
だってそこには、電子レンジがあったから。
「え……?」
「や、やはりこれは、リカ様の世界の物なのですね? 先程仕上がった魔法陣から無機物を召喚したところ、見たことのない物が召喚されたので、これは、リカ様に確認を取らねばと……!」
全速力で駆けてきてくれたのだろう。上がった息で必死に報告してくれる言葉が、本当なら飛び上がるほど嬉しかったはずの言葉が、今は遠くに聞こえた。
どうして今なの?
それなら、私は。
カイン様は。
「リカ様?」
「あ、いえ、すみません! これは、私のいた世界の物です。間違いありません」
「ありがとうございます! それではこの魔法陣でこれより有機物の召喚に進みます! 人間と同程度の大きさの生き物が喚べれば、リカ様をお戻しすることもできますよ! きっともうすぐです! それでは!」
電子レンジを抱えて去っていくサリオスさんの背中を見送り、私は立ち尽くした。頭の中では数日前、カイン様と想いを通わせあったあの日の光景がリフレインしている。
帰れる可能性が、ある。
どれほど願っても片鱗すら見られなかった希望の光が、今になって灯るなんて。カイン様の手で固められた仮初の地面が、ガラガラと崩れ落ちていくような気がした。
その日、会いにきてくれたカイン様を部屋から出ずに追い返した。また、みっともなく泣いてしまうと思ったから。
ひとり枕を抱いて、真っ先に思い浮かぶのはお母さんの顔だった。それが今はカイン様の顔も同時に浮かぶ。あっちにもこっちにも大切な人がいたら、私はどうすればいいんだろう。
バカだなぁ。バカだったなぁ。
諦めるのが早すぎたんだよ。
でも、ずーっと待ってたんだよ。
だって、ずーっとダメだったんだよ。
「ううう、あぁぁあぁあーーーッ!」
お母さん、お父さん、お兄ちゃん、カイン様、私、どうしたらいい?
心も身体も引き裂かれそうなくらい泣いて、苦しんで、そうしたら私が二人になって、あっちとこっち両方で幸せに暮らせる?
「ひっ……うぐ……うぁ、あぁ……ああぁーーーあぁーーー!」
泣いて、泣いて、泣いて、泣いて、いつの間にか朝になっていた。
瞼が重たくて開かない。頭が痛い。喉も痛い。よろよろと起き上がって鏡の前に行くと、可哀想なくらいボロッボロの私がいた。
目も顔もぱんぱんに腫れて、鼻の下はガピガピで、どうしようもないなと絶望しながら顔を洗う。水で冷やした布で目を冷やすけれど、今更すぎて気休めにしかならない。
コンコン
「リカ」
ノックの音の後に控えめなカイン様の声。私は思わず固まった。このまま動かず黙ったままでいれば、まだ眠っていると思ってくれるかもしれない。
「魔術師たちから話は聞いた。小動物の召喚には成功したそうだ。だから……もう少しで、リカも……」
聞いてなくてもいいと思って話したのかもしれない。カイン様の声はどんどん小さくなっていって、最後の方は聞き取れなかった。無言のまま、扉の前に立っているらしい。
私も動けないまま、しばらく時が流れた。すぐに去ると思ったカイン様は、まだ扉の向こうにいる。
「リカ……すまない、俺は、キミを還したくない……。会えば引き止めてしまうから……手紙を書くことにした」
扉の下に封筒が差し入れられ、少しして足音が遠ざかっていった。私は、動けなかった。
涙も涸れるくらいに泣いたと思っていたのに、また溢れてくる。服も床も、涙を受け止めはしても慰めてはくれない。
崩れ落ちるようにしゃがみこみ、手紙に触れる。
きっと、私の思うままに選択することを促す内容なのだろう。この手紙を読んでも、私は心を決めきれないに違いない。
「どうしたらいいの……?」
元の世界に帰って、高校生活に戻って、カイン様を忘れるの?
この世界に留まって、家族を忘れるの?
あんなに帰りたいと思っていた元の世界。
なのに。
「なんで、言おうと思っちゃったんだろう……」
触れた唇の熱を、知らないままでいたなら。でも、たとえ片想いのまま別れを迎えたとしても、結局引き摺っていたような気がする。
どっちの方が良かったかなんて分からない。
ただひとつ分かっていることは、どちらの世界を選んでも後悔するということ。
結局その日は、部屋から出られなかった。
次の日の朝、また扉の下から差し入れられた手紙は読めないまま。大型犬の召喚及び帰還に成功したという報告を聞いて、素直に喜べなかった私にサリオスさんが心配の声を掛けてくれる。
「今はまだ、あちらの座標を指定して召喚することが叶わないのですが……もう少しで座標固定の方法が解りそうなんです。そうすれば」
「家に、送り届けてもらえるんですか」
思ったよりも硬い私の声を聞いて、サリオスさんがたじろぐのが伝わってくる。私のためにしてくれていることなのに。私のためを思ってくれていると知っているのに。罪悪感に押し潰されそうになる。
勝手だ、私は。本当に。
「…………リカ様、私は、私たちは、貴女の望みが叶うよう努力します。拠り所のない辛さは、分かる者も多いですから。みな、貴女が笑顔でいられればそれでいいのです。だから、何でも仰ってください。実現できないだろうと思うことでも。未知への探究心なら、我々に勝る者はおりません」
「サリオスさん……」
「また明日、いつもの時間にご報告にきます」
去っていく足音を聞きながら、私はまた思考の渦に飲み込まれていくのだった。




