第6章
1:
数週間前、嘉門義弘は診療所の一角で手紙を手に取っていた。差出人は市川宏哉——彼の旧友であり、かつての同僚でもあった。二人は歯科大学の同期であり、卒業後も互いの研究や診療について頻繁に情報交換をしていた。市川は研究熱心な人物で、歯科治療の最前線で常に新しい手法を探求していた。その情熱は、嘉門にとっても大きな刺激となり、彼らの友情は年を重ねるごとに深まっていった。
手紙の内容は、市川らしい緻密で丁寧なものだった。日常の近況報告に始まり、研究に対する熱意が感じられる文章が続いていた。
「嘉門先生、近々お会いしたいと思っています。実は、研究のためにいくつか患者から抜歯した歯を譲っていただけないでしょうか。特に金属冠のついた歯があれば大変ありがたいです。」
嘉門はこの手紙を読み、少し不思議な感覚を覚えた。市川が歯を求めるのは珍しいことではなかったが、今回は特に金属冠にこだわっているようだった。彼の研究に関する内容は以前から聞いていたが、このような具体的な要求をしてくるのは珍しかった。
「珍しいな。何か新しい研究でも考えているのか…」
嘉門はその手紙をしばらく手に取り、何度も読み返した。市川の研究がどのような方向に向かっているのか、その詳細を知ることはできなかったが、彼が何か重要な発見をしたのではないかという予感があった。
市川との交流は、嘉門にとってかけがえのないものだった。彼らはお互いに信頼し合い、時には診療や研究について熱く語り合うこともあった。市川の手紙には、その信頼がにじみ出ていた。
2:
手紙を受け取った数日後、嘉門は市川が訪れるのを楽しみにしていた。久しぶりに彼と会い、どのような研究を進めているのかを直接聞けることを期待していた。しかし、その訪問は実現することはなかった。
市川は約束の日時に現れず、何度か電話をかけてみたものの、応答はなかった。嘉門は少しずつ不安を覚え始めた。市川が無断で連絡を絶つことは考えにくく、何かあったのではないかという不安が胸をよぎった。
その日、診療所での仕事に集中しようと努めるも、嘉門の頭から市川のことが離れなかった。彼の手紙に書かれた「近々会いに行く」という言葉が、まるで何か不吉な予感を予兆するかのように思えてならなかった。
「市川君、どうしたんだ…」
嘉門はその日、診療が終わった後も、市川のことを考え続けていた。彼が言っていた研究の内容が何であれ、それは市川にとって非常に重要なものだったに違いない。だが、その内容を知ることができないまま、時間だけが過ぎていった。
3:
数日後、嘉門のもとに歯科大学時代同期の友人から連絡が入った。市川宏哉が遺体で発見されたという知らせだった。嘉門はその知らせに衝撃を受け、言葉を失った。市川の死がもたらす影響がどれほど大きいかを直感的に理解していた。
市川の遺体は遠く離れた場所で発見されたらしい。警察からの説明では、彼の死因は不自然なものではなく、遺書もあるため自殺と断定されていた。
時は現在に戻る。
「堤先生、ちょっと話があるんだが…」
嘉門が診療室に入ってきた。彼の表情は硬く、普段の陽気な雰囲気とは明らかに違っていた。
「どうしましたか、嘉門先生?」
堤が尋ねると、嘉門は一瞬言葉を選ぶように黙り込み、そしてゆっくりと口を開いた。
「実は…数週間前に市川先生から手紙が届いていたんです。研究のために、患者から抜歯した歯を譲ってほしいという内容でした。しかし、その後、彼は現れず、連絡も途絶えました。そして…彼の死が確認されました。自殺だったそうです。だが、私にはそうは思えない。」
堤はその言葉に衝撃を受けた。市川の死が、これまでの出来事とどう繋がっているのか、その全貌はまだ見えなかったが、何か大きな力が働いていることは明らかだった。
「市川先生が言っていた研究とは…?」
「正確には分かりませんが、何か重要なものを見つけていたのかもしれません。彼が求めた歯には、何か特別な意味があったのかもしれない…」
堤は、市川が沼田の歯について何かを知っていたのではないかという疑念を抱き始めた。市川が嘉門に手紙を書いたのは、その歯を手に入れるためだった可能性が高い。そして、沼田の歯が何か重大な秘密を含んでいるのではないかという考えが、堤の胸に芽生えた。
「この歯が、何か大きな事件に関わっているのかもしれません。」
堤はその言葉を呟き、嘉門は深く頷いた。市川の死が単なる偶然ではないことを確信し、これからの調査に全力を注ぐ決意を固めた。
「これからどうするか、しっかりと考えなければなりませんね。」
嘉門はそう言って、堤の肩に手を置いた。その重みには、二人がこれから直面する困難な道のりを示唆するものが感じられた。
診療所の外では、夜の静寂が深まっていた。だが、その静けさの中には、これから訪れる嵐の前兆が感じられた。