第5章
1:
カモン歯科医院は、街の喧騒から少し外れた静かな通りに位置している。朝の診療が始まる時間になると、医院の中には独特の活気が広がり、穏やかな日常が動き始める。堤雄二はいつも通り、診療室に入り、白衣の袖を丁寧に直しながら、その日のスケジュールを確認した。
診療室の中は、機械のかすかな音と、堤がカルテを確認する音が響くばかりだ。堤にとって、この静寂が集中を保つための重要な時間だった。彼は常に患者のことを最優先に考え、その症状や治療に最適な対応を心がけていた。
「おはようございます、先生。」
診療室のドアが開き、小野田沙希が顔を見せた。彼女はいつも通りの明るい笑顔を浮かべ、堤に声をかけた。
「おはよう、小野田さん。今日も一日よろしく頼むよ。」
堤は穏やかに返事をし、彼女の笑顔に少し心が和らぐのを感じた。小野田の存在は、診療所の中で堤にとって欠かせないものであり、彼女の明るさが、診療所全体を温かく包み込んでいた。
その後、佐藤美智子が診療室に入ってきた。中年の彼女は、堤と小野田の間に立ち、二人の関係を調整する重要な役割を果たしていた。彼女の経験と包容力は、診療所の安定感を支えており、堤も彼女の存在にいつも助けられていた。
「おはようございます、先生。今日は少し忙しくなりそうですね。」
佐藤がそう言うと、堤は軽く頷いた。「ええ、でもいつも通りやれば大丈夫です。」
佐藤の言葉に、堤は自然と気持ちが落ち着いた。彼女の温かい言葉は、堤に安心感を与えてくれた。
最初の患者がやってきた。通常の診察が進む中で、堤は少しずつリズムを取り戻し、日常の診療業務に集中していった。しかし、その日の午後、三人の患者が次々と奇妙な行動を見せるようになった。
一人目の患者は、受付を済ませてから診療室に入ってくるまで、ずっと落ち着きがない様子だった。彼は診療椅子に座ると、堤に無理に笑顔を見せようとしたが、その目は焦りに満ちていた。堤はその異常な心拍数の変動と、視線の不自然さにすぐに気づいた。
「どうされましたか?何かお困りのことがあれば、おっしゃってください。」
堤が優しく声をかけると、患者は一瞬怯んだように見えたが、すぐに「いえ、大丈夫です。ただの検診ですから」と答えた。その言葉は震え、堤にはその動揺が痛いほど伝わってきた。
二人目の患者は、久しぶりに来院した女性だった。彼女は診療室に入るなり、携帯電話を気にする様子を見せ、診察中も何度も視線をそちらに向けていた。堤はその行動が非常に不自然であると感じ、彼女が何かを隠していることを直感した。
三人目の患者は、診療が始まる前から何度も周囲を見回し、まるで何かを探しているかのような行動を繰り返していた。堤はその視線が診療室内のどこに向けられているのかを注意深く観察し、その行動が他の患者とは明らかに異なることを感じ取った。
2:
午後の診療が進むにつれて、堤の中で不安が徐々に膨らんでいった。三人の患者が見せた不自然な行動は、ただの偶然ではないと彼は確信した。堤の能力は、患者たちの内面的な動揺や恐怖を鋭く感じ取り、その背後に何か大きな陰謀が潜んでいるのではないかという疑念を抱かせた。
「先生、今日は少し変わった患者さんが多いですね。」
昼休み、スタッフルームでコーヒーを飲んでいた小野田がそう言った。彼女の観察力は鋭く、彼女もまた患者たちの異常さに気づいていた。しかし、堤はそれを打ち明けるべきかどうか迷った。
「そうだな…でも、大丈夫だよ。たまたま忙しいんだろう。」
堤はそう答えたが、その言葉には自分を納得させるための力が込められていた。佐藤美智子はそのやり取りを見守りながら、二人の間に流れる緊張感を感じ取っていた。
「先生と沙希ちゃんがいるなら、大丈夫ですよ。何かあったら、みんなで対応しましょう。」
佐藤の言葉は、堤と小野田を安心させるものだったが、堤の胸中にはまだ消えない不安が残っていた。
3:
その日の診療が終わる頃、堤は診療室に一人残り、深い考えに沈んでいた。三人の患者が見せた異常な行動が、彼の心に不安の影を落としていた。診療所の静寂は、普段は堤にとって安心感を与えるものだったが、その日は違った。不安と疑念が堤の心を覆い、その静けさが圧迫感を伴うものに感じられた。
堤は小野田と佐藤のことを思い浮かべた。二人はこの診療所の日常を支える重要な存在であり、彼女たちとの穏やかなやり取りが、堤にとってかけがえのないものだった。しかし、その日常が崩れつつある気配が、堤の心に暗い影を落としていた。
「このままでいいのか…?」
堤は自問したが、答えは見つからなかった。何かが迫っている、その漠然とした恐怖が堤を締め付けていた。
その時、診療所のドアが開く音がして、堤は振り返った。そこには、嘉門義弘が立っていた。彼の顔には、普段の陽気な表情ではなく、どこか思い詰めた様子があった。
「堤先生、ちょっと話があるんだが…」
嘉門の言葉は重く、堤はその声に込められた何かを感じ取った。その瞬間、堤の心には、これからの日常が変わり始めるという予感が深く刻まれた。