第4章
1:
沼田裕和の死体が街外れの林で発見されたというニュースが、堤雄二の耳に届いたのは、診療が終わり、夜が更けた頃だった。沼田が最後に診療所を訪れた日のことが、まるで昨日のことのように脳裏に甦った。堤は、その日の夜、診療所で抜いた歯に隠されたマイクロチップのことを思い返しながら、胸の中で不安が膨らんでいくのを感じた。
翌朝、堤が診療所に到着すると、警察官が彼を待ち構えていた。堤は、警察官たちに促され、署に連行された。取り調べ室の中で、堤は警察官たちから沼田との接触について尋ねられた。
「堤先生、沼田裕和さんが最後に診療所を訪れた日のことを詳しくお話しいただけますか?」
堤は冷静を装いながらも、胸の中でざわめく不安を抑えつけ、沼田とのやり取りを思い出しながら話した。
「彼は…抜歯を希望していました。特に理由は話してくれませんでしたが、私はその希望に従いました。その後、彼がどうなったのかは…私も知りません。」
堤の言葉は慎重で、嘘偽りのないものだったが、警察官たちはその言葉にどこか疑念を抱いている様子だった。取り調べは数時間に及んだが、堤はその間、冷静さを保ち続けた。彼は、何も知らないという主張を
貫いたが、警察官たちの視線には未だに疑念が漂っていた。
「先生、今後も何か分かったことがあれば、すぐに我々に連絡してください。」
そう告げられ、堤はようやく解放されたが、彼の心には深い不安が残っていた。警察が彼を疑っていることは明白だった。そして、沼田の死に関わる何かが、この先に待ち受けているのではないかという漠然とした恐怖が彼を覆っていた。
2:
警察署を後にした堤は、診療所に戻る前に深く息を吸い込んだ。静かな朝の空気が肺に染み渡り、一時的に緊張を和らげてくれるが、その効果は瞬間的なものだった。堤の心には、まだ何かが引っかかっていた。彼の敏感な聴覚が、警察官たちのわずかな吐息や心音を捉え、彼らの疑念を感じ取っていた。堤は、これが単なる取り調べではないことを理解していた。
診療所に戻ると、堤はすぐに嘉門義弘に連絡を取った。彼はこの状況について相談し、適切な対策を講じる必要があると考えた。嘉門は堤の話を聞いた後、彼にある弁護士を紹介することを提案した。
「堤君、こういう時には、信頼できる弁護士が必要だ。私の知り合いに人権弁護士の望月正信という男がいる。彼は優秀で、何度も困難なケースを解決してきた。彼に相談してみるといい。」
堤は嘉門の提案に従い、望月正信に連絡を取ることにした。数時間後、診療所に現れた望月は、スーツ姿がよく似合う50代の男性で、穏やかな微笑みを浮かべていた。彼の目には鋭さがありながらも、堤を包み込むような暖かさがあった。
「堤先生、初めまして。嘉門先生からお話を伺っています。」
望月は握手を求めて手を差し出し、堤はそれに応じた。握手の際に感じた望月の手の温度、強さ、そして呼吸のリズムは、彼の内面を垣間見せるものだった。堤の感覚は、望月が落ち着いていて信頼できる人物であると告げていた。しかし、その微妙な違和感が、堤の心に小さな不信感を芽生えさせた。
「警察とのやり取りについて伺いました。どうやら、少し行き過ぎた対応があったようですね。私がこの件を引き受けますので、堤先生は診療に集中してください。」
望月の言葉には力強さがあり、堤の不安を少しずつ和らげていった。望月は手際よく、必要な書類や手続きを進める準備をし、堤に適切な助言を与えた。
「もし何かあれば、すぐに連絡をください。私が全力でサポートしますから。」
望月の存在が、堤にとって大きな支えとなった。彼の協力を得られることに、堤は安心感を覚え、彼に対して全面的に信頼を寄せるようになっていった。
しかし、その一方で、堤の内心には小さな疑念が芽生え始めていた。彼の敏感な感覚は、望月の微かな言動や呼吸の変化から、何か違和感を感じ取っていた。それが何なのか、堤にははっきりとはわからなかったが、その違和感が彼の心をざわつかせていた。
「本当に望月先生を信じていいのだろうか…?」
その疑問が堤の心にわずかな影を落とし、彼は自分の感覚を頼りに、この不信感を解消するための手がかりを探す決意をした。
3:
望月が去った後、堤は診療所の中に一人静かに座っていた。診療所の静けさが、彼の心の中にある不安を浮かび上がらせる。望月の存在は確かに心強いが、堤の心にはまだ整理しきれない思いがあった。
堤は自身の敏感な聴覚と、それに伴う感受性の鋭さに戸惑っていた。彼が捉える音や感覚は、普通の人には聞こえない、感じられないものであり、それが彼の判断に影響を与えることがあった。例えば、望月の静かな呼吸のリズムや、警察官のわずかなため息の響きが、堤に彼らの心情や意図を感じさせる。しかし、それがいつも正しいとは限らない。
堤は過去に何度もこの能力に悩まされ、孤独を感じることが多かった。周囲の人々の微妙な変化を感じ取るたびに、それが自分への攻撃なのか、それとも単なる気のせいなのかを判断するのに苦労していた。そんな中で、望月の存在は確かに安定感をもたらしてくれるものだったが、同時にこの鋭敏すぎる感覚が、堤をさらに混乱させることもあった。
「自分は本当に正しい判断をしているのだろうか?」
その疑問が頭の中をぐるぐると巡り、堤は自分を信じ切ることができないでいた。彼の能力が正しい方向に導いてくれると信じつつも、その感覚に裏切られることを恐れていた。
「今は、望月先生を信じるしかない…」
堤はそう自分に言い聞かせ、心を落ち着けるために深呼吸をした。彼は一つ一つの音に耳を澄ませ、周囲の静寂が再び訪れるのを待った。堤は、再び診療所の一日が始まる準備を整え、患者を迎えるために立ち上がった。
4
次の日、堤が診療所に戻ると、待合室で一人の男が座っていた。男は40代半ばの無骨な風貌で、短髪に鋭い目つきをしていた。彼の姿は、まるで長年の刑事生活が体現されたかのように見えた。堤が近づくと、その男はゆっくりと立ち上がり、堤に視線を合わせた。
「私は栗山太一、元刑事で今は探偵をしている。」
栗山はしっかりとした手つきで名刺を差し出しながら、堤に挨拶をした。堤はその名刺を受け取りつつ、なぜ探偵が自分を訪ねてきたのか不思議に思ったが、栗山の次の言葉でその疑問が解消された。
「実は、小野田さんが私にあなたのことを紹介してくれたんです。彼女があなたのことをとても心配していて、信頼できる人が必要だと思ったと。」
堤は一瞬驚き、小野田が自分のためにここまで考えてくれていたことに胸が温かくなるのを感じた。彼女が自分を信じ、助けを求めていたことが、堤の心に響いた。
「そうだったんですね…沙希さんがそんなに私のことを…」
「ええ、彼女はあなたのことを本当に心配していました。そして、あなたがこの事件の真相を突き止めるために、力を尽くすと信じているんです。」
栗山の言葉には温かさが感じられ、その言葉が堤の心にしみ渡った。
「先生、少しお話を伺いたいのですが、よろしいですか?」
栗山の鋭い目が堤を射抜いた。堤はその鋭さに一瞬戸惑いながらも、彼の真摯な態度に心を動かされ、診療所の奥へと栗山を案内した。診療所の中は静まり返っており、二人の足音だけが床に響いた。堤の敏感な聴覚は、栗山の心拍のリズムを自然と捉えていた。その心拍は落ち着いており、栗山が冷静であることを堤に伝えていた。
診療室に入り、二人が向き合って座ると、栗山はすぐに本題に入った。
「堤先生、沼田裕和という男についてお聞きしたいのです。彼の死について、何かご存知のことがあれば教えていただけないでしょうか?」
栗山の質問に対し、堤は慎重に言葉を選びながら答えた。彼の聴覚は栗山の声の抑揚、呼吸のリズム、そして彼の瞳に映る感情を細かく感じ取ろうとしていた。栗山の態度からは誠実さが滲み出ており、その真剣な姿勢が堤の信頼を徐々に引き寄せた。
「実は…」
堤は覚悟を決め、栗山に全てを話し始めた。沼田が診療所に現れたときの様子、彼の不安そうな態度、そして抜いた歯の中にあった小さな金属片について堤は正直に語った。
「その歯に、何か異常があったのです。金属片のようなものが埋め込まれていて…私はそれを分析するために、嘉門先生の紹介で山崎という歯科技工士に相談しました。」
栗山は堤の言葉を一言一句逃さないように聞きながら、彼の誠実さに心を動かされた。栗山の反応を見て、堤は自分の敏感な感覚が正しい方向に導かれていることを確信した。栗山の態度からは隠し事が感じられず、彼が真実を追求しようとしていることが堤にははっきりと伝わった。
「その金属片は、何か重大な秘密を持っている可能性がありますね。沼田の死と関係があるとしたら、それは非常に重要な手がかりになるでしょう。」
栗山の言葉に、堤は頷きながらも、心の中にさらなる不安が広がるのを感じた。もしもその歯に隠されたものが重大な証拠であるならば、堤はその事実を知ることで、さらなる危険に晒されるかもしれないという不安がよぎった。
「先生、私がこの事件の真相を突き止める手助けをします。一緒にこの謎を解き明かしましょう。」
栗山の言葉には力強さと確信が込められていた。その真摯な態度に堤は少しずつ心を開き始めた。栗山の心拍が安定していること、呼吸が規則的であること、そのすべてが堤に栗山への信頼を強めさせた。堤はこの直感が間違っていないと確信し、栗山に協力することを決意した。
「ありがとうございます、栗山さん。私も協力します。この事件の真相を知りたいんです。」
堤の言葉に、栗山は満足げに頷いた。
「では、これからも情報を共有しながら進めていきましょう。堤先生、これからもどうかよろしくお願いします。」
栗山の力強い握手を受け、堤は肩の荷が少し下りたように感じた。しかし、心の奥底にはまだ不安が残っており、これからの困難な状況に備えて、心を引き締める必要があると強く感じていた。
堤は診療所に戻りながら、沙希と栗山の協力を得て、この事件の真相を解き明かしていく決意をさらに固めた。