第2章
1
沼田裕和は、診療所を出た後も心のざわつきが止まらなかった。診察室を出るときには安堵の気持ちが少し湧き上がったが、それは瞬時に消え去り、再び不安が襲ってきた。冷たい夜風が彼の顔を切りつけるように吹きつけ、彼は思わずコートの襟をきつく締めた。
「何かがおかしい…」
その思いが、頭の中で繰り返された。彼は、堤が抜いた歯に隠されていることを知っていた。しかし、その内容を口にする勇気はなかった。もしそのことを誰かに知られたら、彼の命はない。そう思うと、さらに恐怖が膨れ上がってくる。
彼は歩きながら、自分がどこに向かっているのかも分からなくなっていた。無意識に足を動かしているだけで、何かに突き動かされているような感覚だった。道の先には薄暗い街灯が立ち並び、彼の影が長く伸びていた。
「このままじゃいけない…何とかしないと…」
そう自分に言い聞かせたが、何をすべきかは分からなかった。彼はふと、ポケットの中のスマートフォンに手を伸ばしたが、連絡すべき相手が思い浮かばない。誰も信頼できる人間はいない。彼は孤立していた。
沼田は、ついに立ち止まり、頭を抱えた。何が正しいのか、何をすべきなのか。答えは見つからなかった。ただ一つ確信していたのは、このままでは自分は追い詰められるということだった。
その時、背後から足音が近づいてきた。沼田は一瞬、振り返るべきかどうか迷ったが、恐怖が彼をその場に立ち止まらせた。足音は次第に大きくなり、冷たい汗が彼の背中を伝った。
突然、何者かが沼田に飛びかかってきた。彼は声を上げようとしたが、喉が凍りついたように声が出なかった。視界がぼやけ、身体が強く地面に押さえつけられる。その瞬間、沼田の目には絶望的な表情が浮かんだ。自分の命がここで尽きるのではないかという恐怖が、彼の心を完全に支配していた。
暗闇の中で、沼田の視界がゆっくりと閉ざされていった。
2
その頃、堤雄二は診療所で一人静かに考え込んでいた。抜いた歯をガラス瓶に入れ、デスクの上に置いていたが、何かが気になって仕方がなかった。診療後の静寂の中で、彼は一つ一つの出来事を振り返り、沼田の不安定な様子と異常な要求について考えていた。
「なぜ、あの歯を抜いてほしいと頼んだのだろう…」
堤は疑問を抱きながらも、その答えが容易には見つからないことを感じていた。彼は医師としての経験から、患者が不自然な要求をする背景には何かしらの理由があると知っていた。だが、その理由が何であるかは、患者自身が語らなければ分からない。
堤は抜いた歯をもう一度見つめた。光にかざしてみると、小さな金属片がわずかに反射しているのが見えた。それが何であるかは、この時点では判断できなかったが、堤の中で強い疑念が膨れ上がっていた。
「この金属片が、沼田の怯えの原因なのか…?」
堤はその可能性を考えながら、次に取るべき行動を思案した。すぐに何かを決断するべきではないが、少なくともこの歯をしっかりと保管し、必要であれば詳しい検査を行う必要があると感じていた。
堤はふと、祖父との思い出が頭をよぎった。祖父は堤にとって唯一の理解者であり、彼の能力について深い洞察を持っていた。幼い頃から祖父の傍で育った堤は、その教えを通じて自分の力を磨いてきた。しかし、祖父が亡くなってからは、その力を完全に理解し使いこなすことは難しくなっていた。
その能力は、彼にとって祝福であり呪いでもあった。患者の痛みや不安を深く感じ取り、それに応じた治療を施すことができる反面、時にはその感情に押しつぶされそうになることもあった。今日の診療で感じた異様な感覚も、その能力が働いた結果であることを堤は理解していた。
「もっとじいちゃんに聞いておくべきだったな…」
堤は自分の力を完全にコントロールできていないことを痛感しつつも、今はその力を信じるしかなかった。彼は深呼吸をして、冷静さを取り戻そうと努めた。
その時、ドアがノックされ、小野田が顔を覗かせた。「先生、大丈夫ですか?」
小野田の声は柔らかく、堤にとってはほっとするものであった。彼女は堤の表情から何かを感じ取ったようだったが、あえてそれを口に出さず、ただ心配そうに見つめていた。
「ああ、大丈夫だよ。ちょっと考え事をしてただけだ。」
堤は微笑んで答えたが、その微笑みはどこかぎこちないものだった。小野田はそれ以上は何も言わず、静かにドアを閉めた。
堤は彼女の優しさに感謝しながらも、心の中で沸き上がる疑念を消すことができなかった。彼女との関係も、どこか微妙な距離感があるように感じられたが、それが何故なのかは堤自身も理解していなかった。ただ、彼女が自分にとって特別な存在であることは間違いなかった。
堤は椅子に深く腰を掛け、窓の外を見つめた。夜は深まり、街はさらに静けさを増していた。だが、その静けさの中に何か不吉なものが潜んでいるような気がしてならなかった。
3:
その夜、堤は自宅に戻るとすぐに書斎にこもり、考え続けた。彼の頭の中には、沼田の異常な様子と、彼が持ち帰った歯のことが離れなかった。時計の針は深夜を指していたが、眠気は一向に訪れない。堤は、何か重大なことが起ころうとしているという直感を無視することができなかった。
「一体、あの男は何を恐れていたんだ…?」
堤は自問自答を繰り返したが、答えは出なかった。診療所での沼田とのやり取りが、何度も頭の中で再生される。彼の震える声、焦りに満ちた目、そして無言の訴え。そのすべてが堤の心に重くのしかかっていた。
「もっと詳しく話を聞いておくべきだったのかもしれない…」
そう後悔しながらも、堤はそれがもう遅いことを理解していた。今さら沼田を呼び戻すことはできない。だが、彼の中に芽生えた疑念は次第に大きくなり、沼田がただならぬ状況に置かれていることを強く感じさせていた。
堤はまた、小野田のことを思い出した。彼女との距離感は、堤自身がその感情を整理できないことに起因していたのだろうか。彼女の優しさは確かに堤にとって救いだったが、その優しさに甘えて良いのかどうか、堤は迷っていた。彼女の存在が自分にとって特別であることは認めつつも、その関係性をどう扱うべきか悩んでいた。
その夜、堤は何度も目を覚まし、そのたびに窓の外を見つめた。街は静まり返り、何の音も聞こえない。しかし、堤の心の中には不安が渦巻いていた。何かが迫っている。その漠然とした恐怖が、彼を眠りから引き離していた。