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ダークネス イン ザ ティース  作者: 望月 健一
2/15

第1章

 1


 堤雄二は、いつも通りの時間に診療所に到着した。朝の冷たい空気が彼の顔に触れるが、その感覚は彼にとって特別なものではなかった。堤は朝の静けさが好きだった。街がまだ完全に目覚めていない、誰もが自分自身の世界に閉じこもっているようなこの時間帯は、彼にとって唯一の安らぎの時間だった。


 診療所のドアを開けると、彼を迎えたのは無音の空間だった。時計の針が静かに時を刻み、部屋の隅に置かれた観葉植物が静かに葉を揺らしているだけだった。堤は深く息を吸い込み、いつものようにコートをハンガーにかけた。朝のルーチンは彼にとって、静寂の中で自分自身を整える時間だった。


 彼がデスクに向かうと、受付の小野田沙希が明るい笑顔で「おはようございます、堤先生」と声をかけた。彼女はいつも診療所を和やかに保つ存在で、その元気な挨拶が彼に一瞬の温かさをもたらした。堤は軽く微笑んで「おはよう」と返したが、心の中にはいつもの静寂が漂っていた。


 小野田は、堤が何かを抱えていることを敏感に感じ取っていた。彼の表情の微妙な変化や、動作の僅かな違和感を見逃すことはなかったが、彼女はそれをあえて口に出さなかった。彼女の中で、堤への淡い感情が芽生えていたことは、彼女自身も認めざるを得ないものだった。しかし、それを表に出すことはなく、ただ彼の仕事を支えるために今日も笑顔を絶やさないように努めていた。


 堤はデスクに座り、診療スケジュールを確認した。患者の名前がリストに並んでいるが、どれも見慣れた名前ばかりだ。特に何も変わらない、いつもと同じ一日が始まろうとしていた。


 しかし、心の奥底では、何かが違うと感じていた。何かが、今日という一日を特別なものに変えようとしているような、そんな予感があった。堤はその感覚を意識の奥に押し込み、仕事に集中しようと努めた。


 2


 診療が始まると、堤はその熟練の技術と冷静さで患者を次々と診ていった。彼の動きは無駄がなく、患者に対する声かけも的確だった。彼は常に患者の表情や呼吸に注意を払い、その微妙な変化を見逃さないようにしていた。これが、彼が患者から信頼される理由の一つだった。


 だが、この日は何かが違った。堤の敏感な耳に、診療室の外から聞こえてくる小さな音が異様に大きく感じられた。誰かの足音、廊下を通り過ぎる風の音、受付の電話のベル音。それらはすべて、彼の頭の中で反響し、集中力を奪おうとしているかのようだった。


 長い一日の診療時間も終わりに近づき、夜の闇が窓の外に降りてきた。予約されていた患者は全て終了し、あとは診療後の片付けとミーティングをして終わろうかというところだった。窓越しの夜の闇の中に不安そうな物思いに耽る自分の顔が写っていた。

「堤先生、緊急の患者さんがいらっしゃいました。」


 小野田の静かな声が彼を現実に引き戻した。堤は微笑んで頷き、カルテに目を落とした。次の患者は、今日初めて名前を見る人物だった。


「沼田裕和…」


 堤はその名前を心の中で繰り返したが、特に何も感じることはなかった。彼はその名前が特別であるかのように感じることはなかった。ただの一人の患者に過ぎない。そう思い直し、診察の準備を始めた。


 小野田がカルテを渡す際、ふと彼女の手が堤の手に触れた。その一瞬、堤は小さな暖かさを感じたが、それが彼の心に及ぼす影響は微々たるものだった。小野田は気づかないふりをして、すぐに手を引っ込め、再び笑顔を作った。


「先生、今日は何か気になることでも?」


 小野田がそう尋ねたが、堤は首を横に振るだけだった。彼の中にある不安は言葉にするには漠然としており、説明しようがなかったからだ。小野田はその答えに納得したふりをして、堤の表情を読み取ろうとしたが、それ以上は何も聞かずに自分の仕事に戻った。


 3


 診察室のドアが開き、沼田裕和が入ってきた。その瞬間、堤は何かが違うと感じた。彼の姿は、普通の患者とは違っていた。顔色は悪く、目の下には深いクマができている。服装もどこか乱れており、まるで何日も眠れていないかのような印象を与えた。


「はじめまして。歯科医師の堤といいます。沼田さんですね。今日はどうなさいましたか?」

 堤は冷静に声をかけたが、沼田の様子に内心で警戒を強めていた。彼の動きはどこか不安定で、目の焦点も定まっていない。堤は彼が深刻な病気を抱えているのではないかと一瞬疑ったが、その疑念はすぐに消えた。


「先生…助けてください…」


 沼田の声はかすれており、その言葉はどこか切羽詰まったものであった。堤は彼の目を見つめ、その中に何かが潜んでいることに気づいた。恐怖、絶望、そして何かから逃げようとしている焦り。それらの感情が、沼田の目に浮かんでいた。


「どうされましたか?何かお困りですか?」

 堤は静かに問いかけた。彼の声には常に患者を安心させる力があるが、今日はそれが効果を持たないように感じられた。


「先生…歯を…抜いてほしいんです。」


 その言葉を聞いた瞬間、堤の中に警鐘が鳴り響いた。抜歯は通常、慎重に行われるべき処置であり、患者が自ら要求することはほとんどない。特に、理由もなく健康な歯を抜きたいと願う患者には、何か他の理由があることが多い。


「なぜその歯を抜きたいのですか?痛みがあるのでしょうか?」


 堤は慎重に尋ねたが、沼田は答えずに視線を逸らした。その態度が、彼の中でさらに疑念を深めた。


「…理由は聞かないでください。ただ、抜いてほしいんです…どうか…」


 その懇願の言葉に、堤は少しの間考え込んだ。医師としての倫理観が頭をもたげるが、同時に目の前の患者が抱える何かが彼を引き寄せていた。何か重大な理由があるはずだ。堤はその理由を探ろうとしたが、沼田の口は固く閉ざされたままだった。


「分かりました。では、診察させてください。」


 堤は深く息をつき、診察を始めた。沼田の口の中を慎重に確認し、異常がないかを確かめた。しかし、見たところ特に問題はないように思えた。


 だが、堤はそのまま診察を続けた。そして、ある一点で手を止めた。何かが違う。彼の指が触れた感覚が、通常の歯とは異なっていた。まるでその歯が…何かを隠しているかのように。


「この歯を抜いてほしいということですね・・・。ただ、私が見る限り大きな異常があるようには見えないんですが、本当に抜いてしまっていいんですか?」


 堤はそう言って沼田に説明したが、沼田は焦燥感にかられたように何度も頷く。仕方なく堤は抜歯の準備を始めた。その間、沼田は一言も発さず、ただ震えるようにしていた。


 4


 抜歯が終わると、堤は抜いた歯を注意深く見つめた。その歯の中には、小さな金属片が光っているのを確認した。その瞬間、堤の中に言いようのない不安が広がった。この歯には何かがある。この小さな金属片が、沼田の怯えの理由であり、そして何かもっと大きなものに関わっているのではないかという疑念が頭をよぎった。


「これで終わりです。お疲れさまでした。」


 堤は平静を装って沼田に声をかけたが、その心は大きく揺れていた。沼田は何も言わずに立ち上がり、深く頭を下げて診療室を後にした。その姿は、まるで何かから逃げるように見えた。


 堤はその後も、抜いた歯を見つめ続けた。何かが隠されている。だが、それが何なのかはまだ分からない。堤はその歯を洗浄して血液などを取り除いた後、保管用のガラス瓶に入れた。


 その時、扉がノックされ、小野田が顔を覗かせた。「先生、大丈夫ですか?」彼女は堤の表情に不安を感じているようだった。


 堤は小野田の視線を感じながらも、深く考え込んでいた。「ああ、大丈夫だよ。ちょっと考え事をしてただけだ。」


 小野田はそれ以上は何も言わず、少し心配そうに頷いてから診療室を後にした。彼女が去った後、堤は一人静かに考えを巡らせた。


「この歯が、何かを引き起こすのだろうか…」


 堤は一人、診療室の静寂の中でその思いを抱えながら、外の闇に目を向けた。静寂は、次第に深まっていく。彼の心の中にも、静かな不安が芽生え始めていた。

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