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第1章 蒼い記憶 7 17歳の工作員たち

「直ちゃん、なぜ、ここに?」

「智姉が危ないからだよ」

____________________


 直哉がその情報を知ったのは、父泰然と珠子との会話からだった。

「珠子、貴女の娘さんが危ないらしい」

「どういうことですか?」

「知っての通り、我々の党は下野した」

「ええ」

「それを機会として狙っていた奴らがいたんだ...そいつらは、世界的戦争によって地球全体を支配しようとしている大陸勢力の奴らだ。そう、奴らの支援を受けて、日本国内にも動いている謎の勢力がある。奴らに関して、今わかっていることは、彼らは、日本にある政党とは相いれない民主集中権威制国家をこの日本にも樹立しようとしていることだ......そいつらが、我々の党が下野したのを奇貨として、様々な動きをし始めた...その一つが、私の娘となっている智子さんの誘拐らしいんだ」

「いったい誰がそんなことを始めているの?」

「いや、今はわからない......気をつけなければならないのは、貴女の娘さんを狙う作戦の工作員が、17歳前後だということなんだ…これでは日本の高校生たちと区別ができないし、そんな若さで日本国内に潜入しているということは、それだけ優秀な工作員なんだろう」

 父泰然と珠子はそんなやり取りをした後、次の日から活発に活動し始め、家を空けることが多くなった。直哉もまた、この話を聞いてから同潤会住宅から姿を消した。


 直哉はひとり、杖一つとナップザック一つで札幌の文京台に向かっていた。札幌畜産大学付属高校は夏休みが始まったばかりでもあり、校舎にはクラブ活動に参加している生徒たちだけが、普段着のまま登校していた。直哉はまだ中学二年生なのだが、普段着の高校生たちに交じって何食わぬ顔で校舎の中に入り込んでいた。

「図書館にいれば、怪しまれることもあるまい」

 直哉はそう考えて、校舎内の図書室を探した。北の大地に大きく建てられた校舎群は、歩くだけでも大変だった。それでも、直哉は目的の図書室を見出すことができた。


 図書室の中は、補習クラスで登校していた生徒たち、また自主的に受験勉強をしている特進選抜の生徒たちで、ある程度の人数がいた。直哉は、例のごとく図書室の目立たない場所を見つけ、そこに潜むことにした。残った問題は、この図書室に来るかもしれない智子に、どのようにして会うかだった。

「数日、なんとかここで過ごせれば、智姉を見つけ出せる......」

 そんな必要もなく、その日に智子が図書室に来ていた。


「ようやく夏休みなのに、補習なんて地獄だぜ」

 その声は、選抜クラスの刈谷総一郎だった。彼は、わざわざ蒼井智子と同じ北海道の高校を進学先として選んでいた。直哉でなくても、それは奇異なことにみえた。直哉にしてみれば、奇異なこと以上に全てが気に入らなかった。

 直哉の記憶によれば、小学校時代に直哉が蒼井珠子・智子とともに同潤会堀切住宅で過ごしていた時に、総一郎が智子の周辺にわざわざ来ていたことがあった。直哉にしてみれば、身近な智子にどこの馬の骨だかわからない総一郎が、交際を申し込みに来たのではないかと、あの時の毎日が疑心暗鬼であった。直哉の中では、そんな昔のことまで思い出され、とても心穏やかではなかった。そんなとき、直哉は決まって、智子がまだ中学在学の時に、総一郎がわざわざ智子の通う中学校に転校してきたこと、そして同じクラスになっていたことも思い出すのであり、そんなことも気に入らなかった。


 総一郎の連れの女子生徒たちは、まだ、総一郎とおしゃべりを続けていた。

「そうね、私たちも補習のために呼び出されたのよ」

「そうよね、私たちは補習だから来ているけど、補習でもないのに来ている人たちもいるのね」

 そう言ったのは、総一郎と同じ選抜クラスの石見いわみ奈津子なつこ神薙かんなぎ悦子えつこたちだった。

「ほら、あそこ、蒼井さんがいるわ」

 総一郎や奈津子、悦子たちはそう言いながら、少し離れたところに座って自主学習している蒼井智子を見つめた。智子は彼女らの視線に気づかず、この日も黙々と精選問題集を解いていた。直哉も、その姿に、過去のあこがれを再び思い出していた。

「僕の理解力と洞察力は、智姉によって引き出された。その智姉の力は、こんな裏の努力があってこそなんだ」

 直哉が感心して智子を見つめていると、直哉の近くで、ふたたび総一郎や悦子達のだべりが聞こえてきた。

「ねえ、補習クラスも、来週で終わるわよね」

「ああ、そうだ」

「ねえ、補習が終わったら、海に行かない?」

「いいわね」

「同じクラスの人たちも誘わない?」

 この盛り上がりに、総一郎は何か考え込んでいた。

「刈谷君も行くでしょ?」

「あ、ああ、そうだね……行こう......そうそう、蒼井さんも誘おうよ」

「蒼井さん、私たちと同じクラスだけど......彼女は来るかしら?」

「みんなで誘ってみれば、来るんじゃないか」

 こう言いあいながら、三人は智子の前に立った。智子はようやく問題集から目を上げた。

「何かしら? 刈谷君まで......」

「ああ、蒼井さん、皆で海に行かない?」

「海?」

「そう、蘭島での海水浴!」

 悦子と奈津子は、逃がさないわよというオーラを出しながら、智子に同意を迫っていた。智子は遠慮がちながらも、それに抗するようにこたえた。

「私を誘ってくれるの? でも、私、今、先生たちからこの問題集を解いておけと言われていて.......」

 いい返事を渋っている智子に、総一郎は中学時代の智子の勉強の速度を思い出しながら、指摘した。

「行くのは、来週の週末だよ......そのころにはその問題集も終えられるでしょ?」

「え、ええ。そのころには終えられるかもしれない」

「じゃあ、一緒に...」

 悦子達は喜んで声を上げたところ、智子はさらに不都合を訴えた。

「私、水着を持ってないし?」

「水着を持ってないの? それなら、一緒に買いに行かない? わたしたちも新しい水着が欲しいと思うし......」

「え? そ、そうね」

 智子は躊躇いながらも、どうやら海に行かない選択は無いようだった。


 智子は、悦子達とともに、総一郎の紹介してくれたスポーツ用品店に、行くことになった。そこには、大陸で生産された様々な服が売られており、水着もその一環でそろえられていた。悦子と奈津子は、水着選びに慣れているようだった。

「私は、これがいいかな」

 智子は、遠慮がちに二つほどのセパレーツを選んだ。だが、胸がきつく、胴がぶかぶかで全く着心地がよくなかった。

「蒼井さん、そのセパレーツ、色はいいけど、ちょっと幼すぎないかしら」

「そうよ、体形に全然あっていないわ」

 女子生徒たちは、高校生になってから知らずのうちに発育がよくなっていた。特に、智子は自分の発育を認識していなかった。

「私たちだって、こんなビキニを選んだのよ......蒼井さんもこれがいいわ…スポーツをやっているかのように筋肉質でスレンダーよね...なのに、胸は豊かなんだし...」

「そうよ」

「それなら、もっと大胆なものでもいいんじゃないの?」

「それなら、これがいいわ」

「これも似合っているんじゃないの?」

「この色がいいわ」

「これは大胆ね...」

 こうして、智子なりに何度か試着を繰り返し、悦子達にダメ出しを受けながら、何とか純ウレタン製の水着を2着ほど購入した。


 次の週末 総一郎は、智子や悦子達を蘭島の「チェリーガーデン」へと誘った。蘭島駅につくと、そこから30分ほど歩くと少し遠浅の砂地の海岸がある。彼らが止まったのは、その海岸の脇にある宿泊施設を伴った海の家だった。蘭島は、刈谷総一郎たち高校生にとっては、泊りがけで来られる手近な場所だった。ただ、直哉はそこに泊まることもできず、屋外に何とか潜り込める施設を見つけると、時には眠りをとりながらも、必死な思いで智子たちを観察し続けた。

 直哉の見立てでは、総一郎がスポーツ用品店に智子らを連れて行ったのも、チェリーガーデンに智子たちの宿泊先を設定したのも、総一郎がわざわざ選んだのであり、彼の背後に何か得体のしれない者達が蠢いているに違いなかった。しかも、彼らの狙いは智子に違いなかった。

 

 智子は、総一郎、奈津子、悦子とともに、海岸に出た。蘭島の海岸は、総一郎たちのような高校生たちで、にぎやかだった。

「ビーチバレーができるようね」

「ちょうど、4人で出来るわ」

 こんな会話とともに、智子たちは早速渚で水の掛け合いに興じた。ただ、男子が総一郎だけであることは、バランスの悪いことだった。それを見かけたのか、そこに男子高校生らしい二人が近づいてきた。直哉から見ても、明らかに智子たちを誘おうという魂胆のようだった。

「へえ、お姉さんたち、男が一人だけじゃあつまらないでしょ?」

「ねえ、お姉さんたち、俺たちと遊ばない?」

 二人の男子高校生は、そう言いながら智子たちに近づいてきた。直哉は彼等と総一郎とが争い始めるのではないかと、成り行きを見つめていた。だが、総一郎は彼らを迎え入れ、女子生徒たちにまるで友人のように彼らを紹介していた。

「こいつらシベリア生まれの中国人...俺とは幼い時からの知り合いなんだ...なまえは、釈 悠然と趙 虹洋くひろ...見たとおりの男たちだ」

 見た目からすると釈悠然は、バミューダを着用した色白の精悍な体つきだった。他方、趙虹洋は細身の色白な体にパーカーを着たままの華奢な男だった。

「ああ、虹洋くひろは、病弱で水には入れないんだよ」

「そうなの? じゃあ泳げないのね」

「それなら、ビーチバレーをしない?」

「そうだね、男も三人そろったことだし、ペアを組みましょうよ」

 総一郎は悦子と、悠然は奈津子と、虹洋(くひろ)は智子とペアを組んだ。彼らは、それぞれが休みながら、海に泳ぎに行きながら、海岸での一日を過ごしたのだった。直哉はそんな彼らを遠くの日陰からひたすら見守っていた。

____________________


 宿に帰ると、水着着用の露天風呂が、岩場の陰に用意されているとのことだった。そこで、智子たちも総一郎たちも、水着のままその露天風呂へと向かった。ただ、虹洋だけは、なぜか水着にならず、上着を着たままの姿だった。

「なんでパーカーを着たままなの?」

「ああ、僕はあまり情けない姿をさらしたくないんだ」

「へえ、ほかの男の子は、総一郎も悠然くんもバミューダだけになっているのにね」

「僕は、華奢でがりがりだから、情けない体を見せたくないんだよ」


 確かにそこは露天風呂だった。だが、そこは大規模な露天風呂ではなく、ほかの客たちは見当たらなかった。

「へえ、俺たちの独占じゃないか」

 総一郎がそう言うと、悠然は真っ先にお湯の中に飛び込んでいた。

「あまり熱くない...ちょうどいいね」

「ちょうど、ほかの場所からは見えないところなのね」

 悦子は周りを見渡しながら、そう言った。その言葉を受けて総一郎が冗談を言った。

「ほかの人たちの視線は無いことだし、本当の混浴にしちゃう?」

「え?」

 智子が驚いた声を上げると、隣にいた奈津子がさらに輪をかけた。

「本当の混浴って、全部脱いじゃうの?」

「おお、そうだ、いいね」

 悠然がそう言うと、少し離れたところから監視していた直哉は仰天した。ただし、パーカーを着たままの虹洋がたしなめるように声を出した。

「あのさあ、ここはほとんどみられることはないけど、本来ならいつ崖の上に人影が見えるか、分からないんだよ!」

「そうよ!」

 悦子も同意して、総一郎の二の腕をつねった。

「いててて、分かったよ......ほんの冗談だよ」

「冗談にしては、行き過ぎよ」

 悦子は、戸惑っている智子の顔色を見ながら、怒気を含んで強い調子で指摘した。すると、総一郎は黙り込んでしまった。

 この様子に、女子生徒たちもまた黙り込んで、静かに湯船につかり続けた。


 しばらくすると、虹洋が総一郎に目配せをした。智子は何のことだろうと総一郎を見ていると、総一郎の目つきが変わり、とげのある太い声で話し始めた。

「そうだ、さきほどは、確かに行きすぎだったね」

「そう、行き過ぎだね…...つまり、ここからは冗談じゃないんだ......さあ、皆、僕たちに付き合ってもらおうか」

 虹洋も総一郎に呼応して女子生徒たちを威嚇するように見つめた。それを合図に、総一郎と悠然が女子生徒を囲むようにして、湯船の深いところへと追い込んだ。奈津子も智子も湯船にしゃがみこんでしまった。

「な、なにをするの? 刈谷君!」

 奈津子や智子が不安そうに口々にそう言うと、虹洋がさらに冷たく声をかけた。

「お嬢さんたち、騒がないで」

「さあ、女の子はみんな、ここからさらにお出かけになるんだよ」

 総一郎も、つづけて半分嘲笑するように声をかけた。総一郎の態度を見て、悦子は悔しそうに彼をにらみつけ、彼のほほを平手でたたいた。

「この仕打ちはどういう意味よ?」

 悦子が怒鳴ると、奈津子も続けて総一郎たちをなじった。

「そうよ」

「女の子たち、随分、反抗的だね。そういう女の子たちには罰を与えないとね」

 こういうと、虹洋は彼女たちがしゃがみ込んでいる湯溜まりに、薬品のようなものを投げ込んだ。途端に、湯溜まりの中に浸かっていた総一郎たちや女子生徒たちのポリウレタン製の水着が、一気に解け去った。

「え?」

「これ、なに」

 智子は絶句し、悦子も奈津子もあっけにとられて、驚きの声を上げた。

「なにをしたの?」

「女の子たち、裸になっちゃったね。もう逃げられないぜ」

 総一郎は、自らのトランクスも溶解し去っているにもかかわらず、仁王立ちになって大声を上げた。そして、悠然や虹洋たち男子高校生は、平然とした顔で彼女たちに沖を示した。そこには岸へと近づいてくる、漁船に似た小さな船が見えた。それは単なる漁船ではなく、明らかに大陸勢力の三角旗を掲げていた。

「あ、あれに乗れって言うの?」

「そうさ、あれでみんなは日本とおさらばだ」 


 この時になって、直哉には、男子高校生たちの動きが、単なる誘拐でないことが分かった。

「これはいけない」

 直哉はそう言うと、隠れていた場所から砂地へ飛び出していった。


 すでに、女子生徒は着岸した船に載せられる寸前だった。

「智姉たち、乗ってはだめだ」

 直哉は大声で智子たちに呼びかけた。かけてくる直哉に気づいた虹洋は、かけてくる直哉を見つけると両手に青龍刀を持ち出した。虹洋は華奢ではあったが、両手に刀を構えた姿は、まだ中学二年でも小さな体格の直哉に比べて、十分な力を持っているように見えた。

「ここから先は通さない」

「いいや、押しとおる」

 虹洋は両手の青龍刀を大車輪のように振り回しながら、直哉に切りかかってきた。直哉は虹洋の青龍刀の動きを見極めると、持っていた木刀を真正面から一気に振り下ろした。虹洋の二つの剣は激しい金属音とともにたたき落された。これを見た総一郎と悠然は、虹洋とともに船の方へ逃げだした。

「逃がさぬ」

 直哉は一気に船へと駆けのぼり、総一郎と悠然を叩きのめしていた。それと同時に、彼は智子たちをかばいながら船から飛び降りた。この様子を見た虹洋は、新たに棒を構えて直哉に挑みかかった。直哉は振り返り、虹洋が落とした青龍刀を拾って上段に構えた。これに虹洋が棒を突き出し、直哉は棒をかわしつつ踏み込んで上段から一気に青龍刀を振り下ろした。虹洋はすんでのところでそれをよけたが、虹洋の服が全て正面から切り裂かれた。

 驚いたことに、切られた虹洋の服の切れ目から現れたのは、女の豊かな胸だった。

「お、女?」

 途端に直哉は気が動転した。その隙をついて、虹洋は船を離岸させた。船の上には、まだ総一郎と悠然が目を回したままだった。


「直ちゃん、なぜ、ここに?」

「智姉が危ないからだよ......智姉を狙っている奴らがいることは分かっていたんだよ」

「こっちを見ないで!」

「みてない、みてないよ...だから、智姉たち、もう一度湯だまりに戻って」

 直哉は、何を考えたのか、持ち込んできた木刀で、総一郎や悠然たちが持ち込んでいた衣服を探し当てた。

「ここに、男物だけど、二つの浴衣があったよ」

 直哉はそれらを智子たちに投げてよこした。智子は奈津子や悦子にそれらを渡すと、直哉に声をかけた。

「直ちゃん、貴方の上着を私にちょうだい」

「え、智姉は着なかったの?」

「二人に着せたわ…...私の分をおねがい」

「あっそう、これは少し破れているけど、いいの?」

「ないよりましだわ」

「じゃあ、投げるよ」

「でも、こっちをみないでよ」

「ハイハイ」

「でも、不思議ね、なぜ、すぐに、何処に彼らの荷物があるのか、わかったの?」

「いや、さっきわかったんだ」

 それは、恐らくは直哉が初めて発動した不思議な術だった。そもそも、気の利かない直哉が、探し物を見つけ出すなどという気の利いたことが、できるはずもなかった。ただし、これが直哉にとっての魔法使いへの歩みを始めたことになるかは、わからなかった。とにかく、こうして、直哉は、智子と友人二人を助け出した。

 すでに、夕闇が迫り、陸風が吹き出していた。直哉は三人の女子生徒を先導して、砂浜にでた。

「きゃあ」

 風で、直哉の後ろにいた浴衣の裾がはだけた。悲鳴で直哉は反射的に振り返った時、浴衣の二人はしゃがみ込んでいた。その後ろには、智子が大きめの上着を着ているはずが、大きめであるがゆえに風でめくれ上がった上着を、抑えきれずに苦労している姿があった。

「こっちをみるな」

 直哉は慌てて前を向いた。

「智姉、それじゃあ、僕のTシャツを着る?」

「そんなのを着たって、下半身が隠れないでしょ」

「あ、そうか、忘れていた......三人とも履いていないんだ......」

 直哉がこの言葉を言い終わらないうちに、彼の後頭部目掛けて智子がサザエの貝殻を投げつけていた。


 その夜、智子たちは、泊る所がなかった。今までの宿は安心できないこともあって、智子たちは直哉の泊まっていた部屋に入り込んだ。

 彼女たち三人は困ったことに、次の朝まで着の身着のままで過ごした。直哉はさらに困ったことに、二歳上の女子生徒たちと一緒に雑魚寝をすることになった。女子生徒たちはそんなに意識をしていなかったのだが、直哉は布地を介して柔肌をいやでも感じていた。

 次の日、直哉は目の下にクマを作りながら、シャツと短パンを身に着けさせた三人の女子生徒を、無事に札幌の学園まで送り届けたのだった。


 この日の深夜、この四人とはべつに、蘭島から小樽方面に逃げるようにして列車に乗り込んだ三人がいた。それは、刈谷総一郎、趙虹洋、釈悠然だった。

 彼らは、大陸勢力の工作員だった。彼らは、組織の指令によって智子ら三人を襲ったのだが、直哉の反撃によって作戦を失敗してしまった。彼らは、失敗した罰として殺されるはずだったのだが、何とか逃げ出して小樽に向かうところだった。

____________________


 直哉は卒業の年次となった。そろそろ、中学校卒業から先の進路を決める秋を迎えていた。そんな秋の休日だった。いつもの休日とおなじように、直哉は、同潤会住宅周辺から曳舟川・葛西用水を越谷まで走り、戻って来る時だった。


「ブロロロ」

 機械の声としては、低音を非常に轟かせた利かせた騒音が曳舟川そして葛西用水を北上していた。足立葛飾辺りでは非常に珍しい紅旗(大型の中国製乗用車)が、後ろから迫る厳つい装甲車両から逃走を図っていた。その車は、直哉の目の前で、中川の土手へと抜けていくように曲がり、土手へと駆け上がった時だった。河川敷にでたところで、後続車が発砲した。すると、タイヤを撃ち抜かれたのか、大きな車体はもんどりうって中川下へと大きく転がり落ちた。

 大きな音とともに大破した車両の周囲には、数台の装甲車両から出てきたカンフーの使い手たちが駆け寄って包囲した。すると、ひっくり返った大型車から額に血を流した少年がはい出てきた。その顔立ちに、直哉はおぼえがあった。趙 虹洋くひろ、しかし趙虹洋は女のはずだった。目の前の少年は男だった。いや、女が男装した姿なのかもしれなかった。


你們あんたたち! 那麼さては,是大亜大陸的組織嗎?」

 そう言いつつ、少年はふらつき、片膝をついた。頭からの出血がひどく、とてもカンフーの達人たちに対抗できそうには見えなかった。

「たすけなければ!」

 直哉は何も考えないで飛び出していた。あっという間に囲む一団の背後に達し、一団の男たちは不意を突かれた形だった。それでもカンフーの達人たちは、一斉に直哉を囲むと彼に打撃を与えようとした。この時、すでに直哉は持っていた木刀を振り上げれつま先立ちで立ち廻り、攻撃を加えてきた男たちを撃ちたたくこともなく、ただ一振り二振りだけですべての男たちを一度に撃破した。

 少年もまたカンフーの使い手らしく、不意を突く形で、周囲の男たちを一挙に撃破していた。

「大丈夫か?」

不要做不必要的工作よけいなことをするな!」

 少年はこう言って、自らの怪我を直そうとしたが、眼に血液が入ったせいで、ふたたびしゃがみこんでしまった。直哉は、先ほど強い剣幕で少年に意味の分からない何かを言われたばかりなのだが、やはり手を出さないわけにはいかなかった。

「今、けがの手当てをしてやる」

不必要いらない!」

 少年は強い剣幕で拒もうとしたのだが、頭部からの血が止まらなかった。少年は仕方なしに直哉が手当てをするに任せた。いや、目に血が入り込んだために、一時的に視界を奪われ、また気を失ったのだった。

「これはいけない」

 直哉は少年を病院へ送ろうかとも考えたが、少年が襲われたことを思い出し、同潤会にある自宅まで背負って運び込んだ。この日、父泰然は継母珠子とともに永田町に籠ることになっており、誰もいなかった。

 少年は熱を出し、次の日の夕刻まで眠っていた。看病のため、直哉も中学校に行かなかった。もちろん、どうせ出席扱いになることが分かっていたので、あまりそのことに注意を払わなかった。


 夕方になって、少年はようやく目を開けることができた。

「ここは?」

 少年は、日本語で直哉に尋ねて来た。

「貴方は、日本語しか分からないのか?」

「あ、ああ」

 直哉は、侮辱されたと感じ、気のない返事を相手に返した。少年はそれを感じたのか、少し笑いながら、さらに直哉にとって難しい問いかけをした。

「ということは、貴方にとって私の言う言葉は『It is all chinese to me』というところだね?」

「なんだ? なんだ?」

 直哉はすっかり混乱していた。少年は嘲りからあきれ返った反応になっていた。

「貴方は英語も分からないのか?」

「英語? ああ、分かるさ。俺はもう高校に推薦で合格しているんだ....ただ、今の表現の本当の意味は分からないね」

 直哉は、かき集めた威厳を示しながら、自己主張しつつ自嘲気味の答えをした。少年は、もう直哉の苦手な分野を見切りつつあった。

「つまり、貴方は格言とかが苦手なのか?」

「なに? 格言? なんだそれは?」

「やっぱりね。そんな物知らずだから、向こう見ずなのか? こんな火中の栗を拾うなんて......」

「ど、どういう意味だ?」

「貴方は、状況を把握することもしないで、私を匿って大丈夫なの? という意味だよ」

「あんた、難しいことを言うね……」

 直哉は少年をしばらく眺めた後、ふたたび口を開いた。

「あんた、たぶん、日本人じゃないよね?」

「ああ、そうだよ」

「あんたは、命が狙われているのだろう?」

「そうだね」

「それなら、あんたの名前を聞かない方がいいだろうね」

「いいや、貴方とは一度会っているはずだよ...あのとき、貴方に反撃されて作戦は失敗した。抹殺されると聞いて、大陸勢力の組織から逃げ出したんだよ...でも、あなたのその表情からすると『そんなことは覚えていない』と言っているようだね...まあ一応、はっきりと名前を言っておくよ......私は趙虹洋(ツァオホンヤン)、中国本土の人間だよ」

「そうか、どこかで会ったことがあるのか? そうか、あの時、でかい胸をさらけ出した女! いや、これだけの怪我でも死んでいないのだから、あんたは男だろう」

「私が男だって? 貴方はあれほどはっきり証拠を見たはずなのに、それでも男だと断定するんだね......『虹洋』、この名前からして女だとわかるだろうに......まあいいや」

 虹洋は、目の前の中学生の常識さえ疑いはじめた。当の直哉は、そんなことを全然気に留めることもなく、勝手に話を進めていた。

「僕は高橋直哉......こうしてぶらぶらしているのは......ああ、僕は日本の中学生なんだ......中学は授業が馬鹿らしくて通っていない」

「へえ、それにしては、格言を知らないね」

「難しい言葉は、教えられていないからね」

「そんなの、本来ならば学ぶべき事項じゃないの?」

「学ぶ? つまり自ら学ぶべきことなのか? 教えてくれる人がいるから、その人から教えられるのを待っていたのだが......」

「何か、いろいろ偏っているね…...日本の教育の結果がそれなのか?」

「偏り? たしかに、僕の知らないことはまだまだ多いからね......でも、僕はもう中学生の勉強は終えているから、いろいろと知っているんだ...あんたの言っていることと姿からすると、あんたは高貴な身分じゃないのか?」

「へえ、そんなことが貴方にわかるのか?」

「あんたは高貴の出にちがいない…...僕が様々に学んだ古書によれば、おそらくはあんたは『東宮(プリンス)』なんだろ? 女だったら『公主(プリンセス)』と呼ばれているはずだ?」

「私が?」

「あんたは紅色皇子なんだろ?」

「紅色皇子? 何それ? それにどんな古書を読むとそんなことが分かるのか?」

「あんたの肌の白さと美貌、孤高の雰囲気から見ると、東宮とか公主にみえる......まちがいない…...僕の読んだ呼んだ古書によれば、そういうことだ」

「どこの古書?」

「古書とは「ろんご」とか「さいこんだん」とか「そんし」とかのことだよ......それから......」

「貴方の言う『ろんご』とか『さいこんだん』とかいう名前は、聞いたことが無いね」

「それから、『刺客聶隱娘あんさつしゃニーインニャン』とか『東魏茹茹公主墓志』とかいう唐代の高貴な古書に描かれている人物の様子と、あんたの様子がよく似ている」

「貴方が読んだという『刺客聶隱娘』が、高貴な古書ねえ? 貴方は、相当にズレた人間だね...そんな程度で、よくもあんたは進学校に推薦されたね...それに、『ろんご』『そんし』『さいこんだん』という本は、なんなの?」

「へえ、知らないんだ、それでよく中国本土で生まれたと言えるね」

 この直哉の嘲りに、虹洋は明らかに怒りを表した。

「そういうあなたが読んだという『刺客聶隱娘』が、どんな書物か知っているの?」

「唐代の古書だろ?」

「私たちの文化では、高貴な文書ではないね」

 今度は虹洋が直哉をあざけった。だが、直哉は平然としていた。

「あんたは、さきほどまで何かの組織に襲われていたんだろ? 僕がそれを悟ったのも、先ほどの唐代の古書を読んでいたからだぜ」

「組織に襲われていた......確かにね…...でも、貴方自身は、夢見がちで向こう見ずだと言われていない? 危ない橋を渡っている自覚はないのか?」

「いや、僕にとって危険はないと見切っていたよ......確かに、謎の組織が絡んでいるだろうけれど、それも僕にとっては学びさ」

「学び? へえ?」

「僕は、昔から剣の道しか知らない。だから、さまざまなことを教えてもらう必要があるんだ」

「剣の道? どういうこと?」

「僕は、昔から『五輪書』『霊剣操』などの古書を読んできたんだ…『さいこんだん』とか『ろんご』とか『そんし』とかも、だよ......何でもこれらの本はこの日本から西にある国でのものらしい……西方浄土なのかな」

「つまり、『さいこんだん』とか『ろんご』とか『そんし』…...ああ、わかった、そうか、『さいこんだん』は『菜根譚』、『ろんご』は『論語』、『そんし』は『孫氏』ということか......でも『西方浄土?』」

「そう、日本を出て西へ西へ向かうと、到達するらしい……」

 直哉がそう言うので、少年は地図を見せた。たしかに、そこには日本の西にある国として、中国本土があった。

「この中国本土があんたの言う「西方浄土」だっていうの?」

「そうだね」

「私、ここで生まれたのよ! 貴方が言っていた古書も、私の民族の書物であることは、確かだね」

「え? 西方浄土で生まれたのか、ということは、「さいこんだん」も「ろんご」も「そんし」も、そこで書かれたのかあ......じゃあ、あんたは学問が非常にできるんだな.....そんなにいろいろ教えてくれるなら、あんたの学校は西方浄土の学校に違いない」

 直哉は、思い込みの激しい人間だった。彼は、少年との会話で少年の言う「学院」にすっかり魅入られてしまった。

「貴方はよくわからないことを言いだしているね......まあいいよ、じゃあ、あんたも私たちの学院に来なよ......私を助けてくれたお礼に、入学許可をもらえるよ......そこにいれば、私もあんたも守られるだろうし......」

 直哉は、中学を卒業後に「東亜異術学院」に通うことになった。そして、趙は、やはりあの時の女子生徒だった。


 この東亜異術学院は、北海道の小樽の郊外にあるということだった。だが、この学校は、名前からして、また冷静に考えても、常識的にいっても、とても怪しい学校だった。しかし、直哉は北海道にあるということで、智子の近くに行けると考えて、その学院を進学先として決めてしまった。

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