第1章 蒼い記憶 5 濡れ衣
智子による直哉の指導は、数日続いた。直哉にとって鼓動の高まりと苦痛を伴った指導は、三日ほどで読解力を身に着けさせた。おそらく、通常の男子ならば、智子によるあのような指導方法であれば、いやでも忘れないものだった。当然、直哉も、急速に脅威的に読解力を身に着けていった。さらに、教えている智子自身が驚いたのだが、直哉は読解力を身に着けた途端に、それに従って、英語、数学、社会、理科の解題能力も驚異的に獲得していった。おそらくは、幼いころから究めてきた剣の極意・秘伝に秘められた論理・哲学に慣れていたため、論理的理解力が発揮されたのだろう。
ただ、論理構築に関する実力は、そうは簡単に養成できなかった。智子は、まずは例題を繰り返させることで、直哉が覚えたばかりの言葉と使い方を例題や形式に関連させ、論理を繰り返し身体に覚えさせた。
「直ちゃん、これって、実力テストの過去問だよね……これも解答できるようになったね!」
「僕、文章が読めると思ったら、頭の中で文章が踊るようになったんだ......まるで、剣の極意を現した霊剣の操のように法を含んでいるように見えたんだ......すると、論理が分かって…論理活用の仕方が分かって.......すると、問題が解けたんだ」
「へえ、直ちゃん、すごいじゃない!」
「智姉のいうとおりに動いたら、まるで魔法みたいに、頭の中で問題が踊りはじめて解かれていくんだ」
「じゃあ、これもやってみて!」
この繰り返しによって直哉は数日で飛躍的に成長していた。(最終的には、その後の夏休みの残りの期間を要するほどだった。)
こうして、合宿所で、二人の勉強の日々は続いた。ただ、四日ほどたつと、冷蔵庫に残されていた観物などの食べ物が、そろそろなくなるころだった。この問題も、直哉は簡単に解決できるようになっていた。
「智姉、食べ物がもう無くなったって?」
「そう、まだまだ勉強は続けたいし、もう少しここでやっておきたいから、食べ物が欲しいなって、考えたのよ」
「それなら、おそらく、地下に倉庫があると思う。それも、冷凍庫が......」
「窮すれば通ず、ね」
「え、何? 又聞いたことの無い言葉を言うね、どういう意味?」
「え、肝心なことを気付かない人、という意味よ」
「え? ぼく、冷凍庫を指摘したよね」
「そうね、唐変木!」
「え? 何?」
「それなら、朴念仁!」
「え? どういう意味?」
「そうね、とってもいい人、という意味よ」
「そうか、僕って、そうなのかあ」
「見掛け倒しかもね」
智子はそう言うと、地下室へ行ってしまった。直哉は智子が時々難しい言葉を使うので、その旅に振り回されていた。実は、直哉は智子からいろいろと教えられたが、難しい言葉だけは教えられていなかった。
二人だけが残った施設には、確かに大電力供給施設が地下にあった。そうであれば、地下に冷凍庫があるのは道理だった。そこには、次の宿泊者たちのために、すでに冷凍食品が大量に運びこまれているはずだった。
「直ちゃん、これは食べられるわ」
施設の地下室だけは電源があった。だが、調理室など地上の施設は全電源が全て切られていた。他方、冷凍食品は全てが解凍しただけで食べられるわけではなかった。智子は、次の日にキッチンの電源を入れる必要があるとはんだんして、この日は冷凍庫に手を付けないことにした。
だが、直哉は夜中にもう一度起きて、冷凍庫の中を漁った。どうやら彼は、何とか解凍して食べられる物にありついたようだった。
「これ、食べられるぞ」
直哉はそう言いながら、食べ漁っていた。この物音に気付いた直子は、地下室に来て呆れてしまった。
「こんなに食い散らかして......そう、将来はゴキブリ亭主ね」
「将来がゴキブリ亭主だと? あっ、その言葉はわかるぞ……ゴキブリみたいな......亭主ってなんだ?」
「ほら、やっぱり知らないみたいね」
「どういう意味だよ」
「さあ、知らないわ」
「智姉、最近意地悪だよな」
「え、意地悪しているつもりはないわ......これも難しい言葉を覚えるにはいい機会でしょ!」
「だって、意味を教えてくれないじゃないか!」
「えっ? あ、そうね......でも、直ちゃんに教えたら、怒るもの......」
「あっ、今までの難しい言葉って、全部悪口だったんだな」
直哉は思わず、智子を押し倒した。その調子に、彼ら二人は懐中電灯の明かりを失ってしまった。遠い入り口辺りに非常口という青白い小さな表示灯があるだけで、二人は真っ暗な中でもつれあったまま、床の上で凍り付いた。
「あ、あの、智姉、ごめん」
「直ちゃん」
二人はこう言いながら、相手の身体の存在感に打ち震えた。そして、自然に二人が唇を重ねた時、キュルキュルという直哉の腹部の音が鳴り始めた。
「い、痛い」
腹痛はすぐに来た。直哉は突然非常口という表示等の方へ駆けだした。たしか、そこにはトイレがあるはずだった。
「うう、痛い」
「直ちゃん、大丈夫?」
直哉の腹痛と下痢、吐き気は激しかった。そのうちに発熱が始まった。次の日になって、直哉はすっかり食欲を無くしていた。
それでも、次の日の夜には、智子の看病のおかげもあって、熱や腹痛、下痢は収まった。ところが、消化器官に食べ物が残っていないせいで、体内脂肪が代謝されるようになったゆえに、彼は吐き気と顔色の悪さが始まった。直哉のそれはケトン症であり、脂肪を脳が代謝したために、変な悪夢にうなされた。
「智姉、智姉…これはこう解くの?」
「こ、これは、漸化式!」
「論理的に因数分解の結果がこうだから、複雑に見えるけど、こうなる!」
様々な学科の悪夢は、問題を解かされる無慈悲な訓練のようなものだった。それでも、快方に向かい頃には、直哉はもう一段の実力アップを手に入れていた。
「こんな状態じゃ、直ちゃんが死んじゃう」
智子は、意識がもうろうとなったままの直哉を抱えて、途方に暮れた。彼らは、後日、心配して来るまで駆け付けた珠子によって、やっと戻ることができた。珠子は、学校側の不注意を責めようとしたが、泰然に迷惑がかかることを嫌って、何も抗議らしいことをしなかった。
____________________
二学期になった。直哉も、智子も再び登下校の毎日となった。ただし、直哉は以前にもましてクラスの中で孤立するようになっていた。
「直ちゃん、背中、背中!」
「えっ? 何? あっ、これ?」
直哉の背中に、いつの間にか紙が張り付けられていた。それを三年生の智子が一年生エリアを経由した時に気づいて、指摘したのだった。
この時、直哉は一年生たちの教室群がある廊下を歩いていた。たしかに、彼が居眠りしているときに、背中に近づいてきた者たちがいた。直哉は、彼らに攻撃的意思がないと見極めて、放っておいたのだが......
「出来が悪くて寝てばかりいる無能男だよ」
智子が直哉の背中から外した模造紙には、そんなことが書いてあった。智子は、その言葉が許せなかったのだろう.その紙をはがしてからも、細かく引き裂いていた。そんな直子の姿を見ながら、直哉はなぜこんなにこの人は怒っているのだろうか、と考えていた。
「直ちゃん、こんなことをする奴らに腹が立たないの? 後ろから気付かないように近づいて、いたずらするなんて、卑怯でしょ! ねえ、何で平気な顔をしているの?」
「うーん、別に......分かっていたし......」
「え? わかっていたの? わかって放っておいたわけ?」
「わかっていても、放っておくよ......だって同じことを経験済みだもの......智姉だって、僕にわからない難しい言葉を使って揶揄っているじゃないか!」
「あ、そうね、でも私の言う難しい言葉って、ちょっと屈折しているだけよ」
「また、屈折なんて難しい言葉を.......あ、つまり、ツンデレ?」
「へえ、直ちゃん、そんなことを私に指摘するわけ?」
「い、いやあ、なんかそんな気がしたんだよ......それに、こんなこと、智姉にしか言わないよ」
「えっ?」
「そう、どうせ僕は孤立しているわけだし...」
「孤立って...直ちゃん......そう言えば、ずいぶん難しい言葉を使うようになったわね」
「難しい言葉......そうだね、最近は難しいことを考えるようになっていてね......そうしていると、奴らが悪戯しに来たことが分かっていても、そんな愚かな奴らに関わるのが面倒くさくって......」
「へえ…でも、直ちゃんにこんなことをするなんて、よくないことだわ」
「あんな奴ら、やっていることはくだらないし、大したことは無いし......それに、智姉が僕の代わりに怒ってくれいているんだから、僕は怒らなくて済むよ.......ありがとう」
智子は、以前は無口で無関心だった直哉が、何を考えているのか、初めて理解した。今まで彼が無口で無関心だったのは、周囲の人間たちを歯牙にもかけないためだった。それでも、智子は直哉にちょっかいを出した者がいたことに、非常な怒りを感じていた。
____________________
「エッチ!」
「えー、おれはだめなのか?」
三学期も終わりが近かった。そんなある日の昼休み、自習時間が終わるころだった。もう給食当番たちの配膳作業が始まっているはずの昼休みに、当番になっているはずの男女たちが、配膳そっちのけで当番をサボっていた。作業場に残されて黙々と一人作業をしていたのは、直哉だけだった。
彼はぶつぶつ独り言を言っていた。
「サボっているうえに、あんなことを堂々とやっているなんて!」
彼には、結婚前の男女が公然と行為をしていることが信じられなかった。彼にとって、幼なじみの智子を相手にすることを想像するだけでも、羞恥と苦痛を伴っていた。ところが、彼の周囲では、下手をすると二人だけではなく数人の男子生徒が、一人の女子生徒に、いや数人の女子生徒とともに行為をしていた。彼は、驚愕しつつ、怒り、そして呆れかえっていた。それでも、彼は黙々と配膳作業をすすめていた。
彼が、別の大鍋を取りに行っている時だった。配膳のために今日室へ運び込もうとした大鍋が、配膳台車ごとなくなった。直哉一人だけが騒いで探したのだが、見つからなかった。当然ながら、直哉のクラスでは、おかずが一品足りなかった。
「あの一年生たち、確か直君と同じクラスの人たちね...彼らは、大鍋をこんなところでひっくり返して......なぜかしら? カラスにでも恵んでやるつもりなのかしら」
智子は校舎裏で複数の男女生徒たちが大鍋を持ち込んでひっくり返すのを見ていた。そして、午後の授業が始まるころ......
「おーい、校舎裏に誰が大鍋を捨てたんだ?」
細田教諭をはじめとした教諭たちが、騒ぎ始めていた。
「あれは、給食の大鍋ですね」
「確か、細田先生のクラスの分ではないですか?」
「こんなひどいことをする奴は、早く捕まえる必要がありますね」
「一罰百戒ですよ!」
今日職員室で、教諭たちが議論していた。すると、そこに数人の『証人』を自称する男女たちが、やってきた。彼らは直哉が犯人であると指摘した。
「今日は、高橋直哉君が給食当番でした」
「僕たち、別の用事で校舎裏に行っていたんですが、高橋くんがブツブツ言いながら大鍋をひっくり返していました」
「私も見ました...なぜ、裏庭であんなことを、と思っていたんです」
放課後前のホームルームに、この問題がクラスで議論された。直哉は責められた。彼はいつもの通り、くだらないことと言って取り合わなかった。
「僕は一人で給食配膳係をしていたんだぞ。お前たち、なまけて不純な行為ををしていたくせに、よくそんな嘘を言っていられるなあ」
「私たち、不純じゃない」
「僕たち、皆での用事があったから、校舎の裏に行っていたんです」
『証人』を自称する男女たちは、こう言い続けた。直哉は皮肉を込めて反論した。
「へえ、皆で不純なことをやっていたのかよ」
「高橋、お前が給食の鍋を校舎裏に捨てたことについて、証人が数人いる。これについて、申し開きはあるか」
担任の細田教諭は、直哉の皮肉屋反論を気にも留めず、証言だけを取り上げた。さすがに直哉はそれについても指摘をした。
「細田先生、僕が指摘した彼らの不純行為をとがめないんですか?」
「ああ、そうだ、証人がいないからな......だが、高橋、お前の行為については、複数の証人がいるんだぞ」
「だから、それは奴らが嘘を言っているんで.......」
「彼らの言っていることが嘘だという証拠、証人は見当たらないようだが」
「へえ、細田先生まで、これだけで僕を犯人扱いするんですか? 彼らが謀議をしていると思わないんですか?」
「謀議? よくそんな言葉を知っているなあ......感心するぜ! お前、こんなに追い込まれてもお高く留まっているんだな?」
細田教諭は、そう言いながら、ホームルームを終えてしまった。この直後、ひっくり返された鍋に、直哉の名前が書かれた樹脂製手袋が見つかり、かつ、おかずの一部が直哉の机から発見された。
職員会議では、彼が盗んだと断定されてしまった。
次の週の月曜日の朝、恒例の朝礼があった。
「一年生から、三年生の全員に聞いてもらいたい」
校長がおもむろに口を開いた。
「残念なお知らせをしなければならない......一年生の一人が、盗みを働き、クラスメイト達に用意されたはずの大鍋を、校舎裏に廃棄したという事件があった」
「えー」
生徒たち全員が大声を上げた。特に、直哉の同じクラスの方からは、歓声が上がっていた。
「私たち、見たんだよ」
「僕たち、証人なんだぜ」
証人となっていた男女たちが、如何にも驚いた風の大声を上げていたのだった。この様子を見た他のクラスや、二年生、三年生たちも、一様に驚いた顔をした。
「証人がいるのか」
「しかも、複数だぜ」
朝礼会場は次第に大騒ぎになった。
「みなさん、静かに!」
「おい、全員静かにしろ!」
「静粛に!」
校長や教員たちは、おもむろにそう言って生徒たちを制し始めた。だが、直哉のクラスでは、騒ぎが収まらなかった。直哉を囲んで、クラスメイト達が皆口々に非難をしていた。
「高橋、お前が犯人だろ!」
「僕がやったというのか!」
直哉は大声で反論をし続けていたが、その声はかき消されていた。
「こいつ、いつも一人だけで勝手なことをしていやがったからな」
「ハブられているから、仕返しのつもりだったのだろうよ」
「僕はやっていない! やっていない!」
「へえ、証拠があるのかよ」
「証拠? そう言うなら、僕を訴え責め立てている側が証拠を示すべきだろ」
直哉はそう言って、自らが学習したばかりの刑事訴訟の在り方を思い出して指摘した。それを聞いていた細田教諭は、議論を引き取った。
「みんな、静かにしてくれ......高橋のいうとおりだ...訴える側が証拠を示す必要がある......ところで、その証拠だが、ここに実は証人がいるんだよ....高橋」
「え、証人が?」
直哉は絶句して細田教諭を見つめると、彼の後ろに数人の男女たちが集まって直哉を指さしていた。
「細田先生、私たち、見たんです......彼が鍋を捨てていたところを」
「僕たちも見ました......酷いことをするんだなって、思っていました!」
直哉は糾弾されて、「証人」たちを睨みつけた。彼らは確かな親と同じ日に給食当番のはずが、怠けて不純な行為をしていた奴らだった。
「セ、先生。ホームルームでも僕は言いましたよね......彼らはあの日不純なことをして給食当番を怠けていたんですよ」
「高橋、それについては、証拠がないよな」
この時、三年生たちの方から、細田教諭の傍に走り寄った女子生徒がいた。蒼井智子だった。
「細田先生、ちょっと待ってください」
「おお、これはこれは、三年生のトップ、蒼井さんじゃないですか? 何をしに来たんですか?」
細田教諭は、驚いた。その表情を確認した智子は、さらに訴えた。
「細田先生、結論を待ってください.......直ちゃんが、高橋くんが、そんなことをするはずがありません」
「でも、蒼井さん、彼の行為を見たという証人が複数いるんですよ」
「もしかして、給食の大鍋をひっくり返したということなら、私は彼らが大鍋をひっくり返したところを見ていました」
細田教諭は、予想もしない智子の証言に驚いた。だが、次の瞬間、辺りを見渡したうえで、智子に冷たく指摘をして彼女の発言を封じてしまった。
『証人ねえ。でも、ここにやってきたのはあなた一人だけらしいね......証人は一人だけでは不十分なのだよ....さあ、列に戻りなさい」
「でも、高橋くんはやっていません」
『証人が一人では、証言として取り上げられないはずだよ....そう言えば、貴方と高橋くんが大切にしているという啓典の書でも、証人は二人以上必要であると書かれているようだがね」
こういうと、細田教諭は手を振って二度と智子のいう言葉を取り上げなかった。
「智姉、もういいよ、啓典の言葉は的を得ているよ。誰一人、ここには正しい者はいない。誰一人。それに、智姉、こんな僕は価値がない、天にも見捨てられている虫ケラさ。だから、僕に関わってはいけない。離れていてくれ」
直哉はそういうと、朝礼の列から校庭の端へとトボトボ去っていった。智子は天にも見捨てられているという直哉の言葉の意味する重さを知った。
この光景を見守っていた校長は、朝礼の席で宣言した。
「高橋くんは、悪いことをしたことがはっきりしたね......それをかばう蒼井さんも、うそつきだということになるね......これらのことはもうすでに教育委員会の刈谷委員長にもご報告済みだ......さあ、先生たち、高橋を警察へ突き出せるように、連行していきなさい...生徒たちは、前を向きなさい」
生徒たちは一気に騒ぎ出した。
「高橋なにがしは、罪人だ」
「盗みだろ? 少年院送りだ!」
「蒼井さんは、罪人をかばいだてしている。なんでだよ」
「あの子はやっぱり頭が良すぎるんだろ....だから、俺たちみたいなこの中学校の生徒たちとは、頭の構造が違うんだよ」
「そうそう、やっぱり、トップの女の子って、ひとりよがりよね」
こうして、直哉は警察に突き出された。また、智子は今まで成績トップでいたことが響き、やっかみを言われつづけて、校内で孤立した。
後日、直哉は少年鑑別所に収容された。だが、葛飾区教育委員会では別の問題が起きていた。ここでは、刈谷総一郎の父、刈谷伊一郎がわが子が通う中学校のしりぬぐいをしていた。
「委員長、あの中学校は、葛飾東部にありましたよね」
「そうだよ......私の息子が通っているんだ」
「あ、それは失礼しました......ところで、鑑別所へ送られた高橋くんは、実はあの高橋泰然先生の隠し子らしいということですが......」
「なんだって?」
「なんでも、高橋先生の別宅が同潤会住宅の一角にあるそうで......」
「それで、先生の息子が、あの中学に通っていたのか......教育委員長のご子息が通われている中学校で、代議士先生の隠し子が問題を起こしたなんて......これが公になったら、われら教育委員会は持たないぞ」
「わかった、私が委員会を代表して泰然先生に事情を説明しに行くよ」
刈谷伊一郎は、国会議員会館に高橋泰然を訪ねた。
「実は、ご子息様がわが区の中学校で窃盗と器物損壊に及ばれまして......」
「ああ、そうらしいね」
「ことが事だけに、穏便にしておくのがよろしいかと」
「私には子供がいないことになっている。今更、あいつのことが公になると、たしかに面倒くさいことになる…」
「では......」
「ああ、このことで、そちらを責めたりはしないよ。ただし、公にならぬように、お願いしておくよ!」
「は、高橋先生にはご迷惑が掛からぬようにしておきます」
三学期が終わるころ、直哉は鑑別所に収容されながらも、穏便な処置に終わりそうだった。だが、直哉のところに泰然は一切来なかった。ただひとり来たのは、智子だけだった。
「直ちゃん、いいお知らせがあったわ」
「え?」
「穏便な処分で済ましてもらえるらしいわ......処分保留で出て来られるらしいわ」
「僕は、初めからやっていないんだ!」
「そうね、うやむやで終わるのね......本当は、私が証人だから、守って上げられれば良かったのに......役に立てなくてごめんね」
「いや、いいんだ。これでわかったことがあるんだ......僕にとって智姉だけが家族だったんだなってね」
「直ちゃん、もう一つ、悪い知らせもあるの......」
「え?」
「私、遠いところの高校へ行くの......推薦で札幌にある大学付属高校へ入学することになったのよ......学校の先生は、条件を出していて、これ以上騒ぐなっていうから......」
「そうか、それがいいね」
直哉は、全てに絶望していたせいもあって、淡々とそう答えるだけだった。
直哉が少年鑑別所から同潤会の別宅に帰ったのは、卒業式の一週間前、実力テスト実施の前日だった。
すでに、蒼井智子ら三年生は、登校せず、卒業式を迎えるばかりだった。直哉は再び元の中学校のクラスで過ごすようになったが、誰も彼に近づこうともせず、誰も口を利かなかった。また、彼にとって授業はすでに習得済みのつまらない内容ばかりだった。
「智姉、ありがとう、おかげでこの中学で勉強することは無くなったよ」
そう言いながら、実力テストの解答をさっさとし終えるのだった。