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第1章 蒼い記憶 4 夏の全学合宿

「よし、全員グランド10周だ」

 細田教諭は、直哉と竹刀を交えて以来、剣道を持ち出すことが無くなった。その代りに、彼は全員を鍛える、と称してランニングをさせることが多くなった。特に、直哉には、彼の独特の走り方を目ざとく見つけてからは、直哉にランニングを厳しく当たっていた。


 今回の全学合宿でも、朝からランニングが生徒たちに課せられた。

 ランニングには給水がつきものだった。全員が水を欲しがり続け、それはまだ4周も走っていない段階で始まっていた。

「先生、水を飲みに行っていいですか?」

「女子は休憩していいぞ」

 細田教諭は、やはり女子生徒たちには甘かった。その代り、男子生徒たちはしごかれた。

「えー、おれたちは?」

「男子はまだ元気そうだ、まだ走れそうだな」

「えー!」

 男子たちはそう言いながら、暑いグラウンドをまだ走らされていた。


「先生、十周走りました」

「よし」

 こうして、男子たちもようやく休憩に入れると思われた時だった。ちょうどその時、直樹も他の男子たちと一緒にゴールした時だった。

「高橋、その走り方は何だ!」

「・・・・」


「また細田先生の高橋いじりが始まった」

 周囲の生徒たちも、細田教諭の仲間たちも、そう言いながら二人の姿を見つめていた。

 当の直哉は、この指摘をいつも黙って聞き流していた。だが、細田教諭の声は鋭く続いた。

「足は足裏全体で着地して、つま先でけるように走るんだぞ....やり直しだ、形が治るまでグランドを走り続けろ」

 直哉は平然とした顔でうなづくと、一人でグランドを走り出した。他の男子生徒たちがへばって水を飲んでいる間も独特のかたちで走り続け、淡々とした顔で走り続けた。


 直哉の走り方は、確かに普通とは違っていた。つま先立ちで着地し、つま先立ちのまま地面をけり出していた。走り終えた直哉を、細田教諭は前に立ちはだかってとどめた。

「高橋、お前の走り方は体を壊す」

「いいえ、私の走り方は、幼い時からこの通りにしています……これこそが最強への走りです」

「わざわざそんな走り方をするのは、おかしい」

「いいえ、この走りでなければ、様々な事態に瞬時に対応できません……幼い時からの教えです」

 細谷教諭ばかりでなく、ほかの教諭たちも直哉に指摘した。

「変えるつもりはないのか」

「はい、これであれば、いつまでも走り続けられます」

「へえ、グラウンドをずっと走っていられるッてえことか? それなら勝手にしろ!」

「はい」

 彼は頑として自らの走り方を変えずに走りつづけた。


 早朝練習が終わって朝食をとった後は、全員合宿の目玉、学力増強補習クラスが開催された。それは、能力別のクラスを組み、組のレベルに応じて数学や現代国語などの受験技術、理解力、応用力、受験術をスキルアップするものだった。


 授業が始まった。だが、窓の外を見た生徒たちは、校庭をまだ走っている男子生徒を見て騒ぎ始めた。

「あれは、誰だ」

「あのウエアは、一年生男子だ。一年生男子が走り続けている」

 一旦授業を始めていた教師たちも、次第に気づいて、廊下で相互に連絡を取り合っていた。

「あれは一年生だろ?」

「そういえば、たしか一年生で一時限目の補習クラスを欠席していた奴がいたなあ……高橋直哉だったかな…そうか、あいつだ」

「つまり、彼は、あれからずっと走り続けているんですね......食事前にあの一年生を指導したのは、細田先生ですよね」

「細田先生に連絡して、やめさせましょう」


 こうして、細田教諭は仕方なく校庭を走り続けている直哉を追いかけた。ただ、直哉は走り続けていたせいか、走る速度が増しており、細田教諭はなかなか追いつかかなかった。


「おーい、高橋、止まれ、と、ま、れ......わかった、ハア、ハア、わかったよ、これからはお前の走り方でいい......もう、終わりにしよう...お前は頑固な奴だ…」

「ご指導、ありがとうございます」

 直哉もこうして、ようやくクラスメイト達と一緒に補習クラスに加わることができたのだった。


「起立、礼、着席!」

「おはよう、二時限目は英語だな。ここは、出来の悪い奴らばかりが集まっているな。それでは、英語の補習授業を始める…棚橋は一行目を、高橋は二行目を読んでみろ」

「はい、あいあむ あ ポリスマン……ぐっどもーにんぐぅ、みすたあしんぷそん、トデイ、あーゆーごーいんぐ あうとぉ?」

 前の生徒が読み終わると、直哉は英語も読めないなりに、隣りの生徒から小声で言われた通りに声を出した。

「おー……いえす! あいあむごーいんぐ とー こんびにえんすすとあ」

「よし、棚橋! 読んだところを訳してみろ!」

「あれまあ、私は警官です…おはようございます、シンプソンさん、きょうはおでかけですか?」

「よし、いいぞ、滑らかに訳しているな......次、高橋が訳してみろ!」

 教師は直也が答えられそうにないことを知ったか知らずか、問いかけてきた。この時も、直哉は隣の生徒の小声で言われた通りに答えた。

「あら、はい、私は便利な店さんと一緒に行きつつあります」

「高橋、それでは意味が分からんぞ……英文法は忘れたのか?」

 直哉は、顔を真っ赤にしてすわった。英語教師は、直哉が座って黙ってしまったのをしばらく見つめ、翻訳しなおして見せた。

「高橋、こう訳すべきだな......『ええ、そうなんですよ、今からコンビニエンスストアに行くところなんです』とね」


 直哉は、幼いころから家庭で仕事をしているため、勉強はほとんどおろそかになっていた。それでも、彼はどの時間でも努力を惜しまずにひたすら聞き、ノートに書き写し、発言し、学んできた。彼自身、今回の補習クラスで挽回を期していたはずだった。だが、中学校での授業内容はあまりにも先に進んでいた。


 一日の授業が終わった時、直哉は一人で、セミナールームに入って行った。そこは、自習室としてあてがわれているガランとした食堂のような部屋だった。教科書とノートを広げると、教科書の記述と書き写した板書の内容とを、彼なりに理解するために一生懸命に見つめていた。こうして、2時間もたつと、上級生の2年生、3年生の使用希望者たちが、セミナールームに入ってきた

「蒼井さん、私たちと一緒にあの問題を勉強しましょ!」

「ええ、そうしましょ!」

 数人の女子生徒とともに、智子がやって来ていた。


 全学合宿の終わりには、五教科の実力テストが控えていた。内心に響くことを聞かされていた生徒たちは、本来ならば、智子たちのように必死になるはずだった。三年生に限らず、二年生も一年生も、本等ならばセミナールームに籠って自習するほどの覚悟が必要だった。


「蒼井さん、僕らにも教えてくれないか?」

 直哉が遠くから彼女を見つめていると、彼女の周囲には、彼女から教えを乞おうとする男女たちが集まって来ていた。智子はそれほどまでに成績の良い、つまり学年で一位にもなる女子生徒だった。


「蒼井さん、その解き方もいいけど、今日教えてもらった漸化式を使ったほうが、もっと速く解けるよ」

 智子の傍に寄ってきた男が、直哉のところから見えた。たしか、智子の隣のクラスで、年中智子とトップを争っている 刈谷総一郎とかいう男子生徒だった。背の高いスマートでハンサムな男だった。

「刈谷君、ありがとう…そうよね、その方が速く解けるわ」

「そうそう、蒼井さんに聞きたかったところがあるんだよ」

「え、なに?」

 智子の周りに集まっていた男女たちの会話が、いつのまにか智子と総一郎のやり取りを見守る集団に代わっていた。そんな中心にいて、智子と総一郎はとても幸せそうだった。彼らは、いかにも充実したやり取りをとても幸せそうに続けていた。それは、直哉にとって、智子がとても遠い世界に生きる天上世界の天女のように見えた。


 直哉は、その光景を見ないように、そっと席を外した。そのまま、彼はセミナー室の隅に引っ込み、全ての光景に背を向けて、目の前の教科書と参考書に集中しようとした。だが、それはできなかった。

 かれには、幼い時から彼の心に刻まれた智子の姿があった。しかも、中学生になって、年上らしく豊かに成長した智子の身体の印象が、より強く心に刻まれていた。しかも、その智子は、出来の悪い下級生の直哉にとって、過去に一緒にいたことさえ思い出してはならない存在になっていた。

「僕は、ここにいる僕は...」

 そんな独り言が出たことに気づくと、彼は教科書や参考書に書かれている言葉が頭に入らなくなった。余計に彼は目の前のテキストに、意識を集中させようとした。ひたすら、ひたすら……そうして、いつの間にかセミナー室は夕暮れの中に沈んでいった。


「直ちゃん、まだ残っていたのね、待っていてくれたの?」

智姉ともねえ・・・」

「なになに? 勉強していたの?」

 いつの間にか、懐かしい匂いが直哉の後ろにあった。そして、先ほどまでの直哉の屈折した物思いを、全て打ち消すような明るい声が、後ろから直哉の頭脳を貫いていた。

「僕は勉強ができない…一切わからないんだ」

「どこがわからないの?」

「問題が読めないんだ」

「え?」

 事情を察した智子は、思わず絶句していた。直哉は、小学校に入学した時から、漢字はおろかひらがなもろくに読めていなかった。彼はそのまま中学生になっていた。彼なりに努力はした。しかし、彼は、学ぶ前に家の仕事をし、鍛錬をしてきただけだった。

「僕は、字が読めないんだ......」

 そう言うと、彼は教材を置いたまま、セミナー室を飛び出していった。智子は直哉の後ろ姿と、テーブルに残されたテキスト類、そしてテキストに書かれた文を、そのまま何回も書き出しているノートを目にした。ノートは、彼が問題を解くために使っていたのではなく、彼がテキストの文を一生懸命に書き出して、意味を理解するために使っていたのだった。

 そして、その横には、彼の悔し涙がいくつもこぼれていた。


 その夜、全員が風呂上りとなったころになって、三年生有志達が言い出した怪談話大会が始まった。

各学年各組ごとに車座になって、それぞれが自慢の怪談話をするというものだった。話は盛り上がり、夜は更けていった。終わるころには、誰もが夜に独り歩きを憚るようになった。実は、三年生有志達がもくろんだ通りだった。

 就寝時間になった。男子の就寝エリアは一階、女子の就寝エリアは二階だった。全員が就寝するころになって、やっと直哉が一人セミナー室から帰ってきた。彼は、全学年が参加した余興のことなど、一切知らされておらず、先ほどまで一人でセミナー室で頑張っていたのだった。この時間になって、直哉は一人だけで、大浴場にはいる用意のために出かけたところだった。

 この時、実は余興がまだ続いていた。男女のトイレは離れにあり、大浴場の隣に位置していた。直哉がちょうど大浴場へと離れへの渡り廊下をとおったあと、その渡り廊下の両側に、三年生の有志達が待ち伏せを始めていた。

 一人目の犠牲者は、一年生の女子だった。怖かったのだろう、二人の女子生徒が寄り添って渡り廊下を進んでいった。その後ろ姿を確認すると、彼らは、彼女たちの背後から足音を聞かせた。その足音に驚いて、彼女たちは後ろを振り向いたとき、渡り廊下の照明が点滅し始めた。彼女たちが立ち止まると、照明が完全に消えた。しばらくたつと、そこにぼんやりとトマトジュースを浴びた男がひたひたと近づいていった。彼女たちが悲鳴を上げてもときた道を逃げ帰ってしまったのは、言うまでもなかった。

 何人かの女子生徒たちが犠牲になった。そして、その女子生徒たちをまとめて、トイレに護送するために、三年生の智子ら数人が付き添うことになった。

 15人ほどになった女生徒たちは、渡り廊下をこわごわと進んでいった。すると、再び彼女たちの背後から、足音が聞こえた。渡り廊下の照明も消え、ふたたびトマトジュースの血を流しながら、男が現れた。違ったのは、ちょうどその時、直哉が大浴場から帰ってくるところだった。

 女子生徒たちは、悲鳴を上げると、そこに座り込んでしまった。智子も腰を抜かして動けなくなっていた。

「いやー、こわい! たすけて!」

 この時、大浴場の方から真っ暗な渡り廊下を走ってくる足音が聞こえた。これに驚いたのは、トマトジュースをまとった三年生たちだった。彼等もまた、その得体のしれない足音に驚いて、我先に逃げ出してしまった。残ったのは智子たち三年生女子生徒らと、下級生の女子生徒たちだった。

「だ、だれ?」

「キャー来ないで!」

 暗闇の中で、大浴場からの足音が近づくと、彼女たちはすっかり腰を抜かして、悲鳴を上げるだけだった。

「僕です、智姉ともねえ

「え、直ちゃん? なんでここに?」

「今、風呂から出て来たんですよ」

 智子たちは、洗面道具を持って風呂上がりの姿の直哉を見上げた。それで安心したのか、智子たちはすっかり動けなくなってしまった。

「何があったんですか?」

「お、お化けが出たの!」

「え? お化け?? へえ?」

 直哉のおかしさをかみ殺したような調子の問いかけに、智子は少しばかりカチンときたらしく、言葉がきつくなった。

「直ちゃん、本当に出たんだからね! ほら、そこに血が!」

「この赤い液体? これ、ケチャップの匂いだよ」

 智子は、一連のお化け騒ぎが悪戯であることに、やっと気づいた。極まりが悪くなった智子は、直哉に八つ当たりを始めた。

「へえ、ケチャップはすぐわかるんだね」

「うん、そうだね」

「ふーんだ! 無神経!」

「智姉、それって聞いたことの無い日本語だ! 難しすぎる」

「そうでしょうね」

「意味は?」

「神経がない人のことよ」

「え? そんな人間がいるの? そんな珍しい、ありえない人間がいるなんて......」

「私の目の前にいる男の子!」

 直哉は後ろを振り返り、左右を見渡したが、ほかに男子生徒はいなかった。

「そんな男は見当たらないぞ……そもそも、ここには僕以外の男子生徒はいないぞ!」

「もう、いい......皆さん、行きましょ!」

 智子は他の女子を連れて、行ってしまった。直哉は智子が怒っている理由と、智子の言った言葉の意味と、それがなぜこんな場面で出てくるのかという、二重三重の謎に、すっかり困惑した。


 この時、直哉はふと昔を思い出した。あれは、小学校時代に智子たちといった海だった。この時、彼らは怪談話と木々のそよぐ浴室、深夜のトイレ談義で盛り上がったのだった。

 怪談話をしたゆえに、風呂に入れなくなった直哉に、付き添ってくれたのが、智子だった。彼女は直哉にトイレに、そして風呂に付き添ってくれたことを思い出したのだった。

「そうか、付き添えばよかったのか? でもなあ、女子トイレの入り口だって、僕は近づくのが嫌なのに......」


 次の日の朝の訓練は、水泳だった。

 この日、直哉にしてやられた三年生男子たちは、直哉を懲らしめることにしていた。直哉をだまし、早目に直哉が更衣室に来るように仕組んだ。たしかに直哉はクラスでも孤立しており、またやることが遅かったから、早目に更衣室に行くのは、極めて自然なことだった。こうして直哉が女子更衣室に入り込むと、三年生男子たちは、男子更衣室の看板と女子更衣室の看板とを入れ替え、直哉を女子更衣室に閉じ込めたのだった。


「さあ、さっさと着替えて、泳ぎに行きましょ!」

「私、この合宿のために、水着を新調したのよ」

「え、わたしもよ!」

 女子生徒たちの声が聞こえた時、直哉は当然ながら非常に驚いた。すでに彼は全ての服を脱いだ後だった。

「え? ここは女子更衣室なのか?」

 彼は、女子更衣室の掃除道具入れに隠れるしかなかった。多くの女子生徒たちががやがやとしている中で、直哉のいる道具入れの前に来たのは、三年生の智子だった。

「昨日の夜のお化けたちは、私たちの同じクラスの男子たちだったみたい」

「え、そうなの?」

「じゃあ、助けてくれたあの男の子は誰なの? あんた、『直ちゃん』と呼んでいたよね?」

「うん、彼はまっすぐで潔癖な男の子なのよ」

 隠れている直哉は、隠れているそのそばでそう言われたこともあって、きまずさと羞恥心でほとんど気を失ってしまった。

 この時、直哉は昔、小学校二年生だった頃のプールの記憶を思い出していた。


 そのころは、珠子と智子に連れられて銭湯に出かけたことが何度かあった。直哉は、当然ながら子供であるということで女子更衣室に連れられた。そこで彼は目の前の光景に戸惑いと強い羞恥をいやというほど感じた。ただ、まともに着替えられない直哉には、どこでも智子たちの手伝いが必要だった。

 その後も、彼女たちと銭湯や海水浴などに出かけたのだが、そのたびに直哉はろくに着替えられなかった。

 時間入れ替え制のプールに行った時の話だが、女性たちと同じ空間での着替えに懲りた直哉は、男子更衣室で一人で着替えると言い張ったことがあった。この時、更衣室に入った後、彼は肝心のトランクスを智子達に預けたままであることに気づいた。かれはそとへでて、女子更衣室の前に佇んで智子を待っていた。入ることは憚られたのだ。そんな時、智子が女子更衣室の中から直哉のトランクスをもって出てきてくれたものだった。

「そんなに慌てる必要はないわ......私もまだ着替えていないから、遅くなっても大丈夫よ......さあ、一緒に着替えましょ」

 智子はそう言って直哉を女子更衣室に引き入れた。すでに、女子更衣室の中には誰もいなかった。智子は、直哉を立たせると、自分も着替えながら、直哉の着替えをかいがいしく手伝った。

「これ、新しいトランクスね...小学校二年生だから、この小さいサイズなのね」

「僕、自分で穿けるからいいよ」

「直ちゃん、何を嫌がっているの? いいから吐かせてあげる!」

「いいよ」

 直哉なそう言いながらトランクスを智子の手から奪い取って、ぶぜんとした表情で身に着け始めた。

「直ちゃんの甲斐性なし!」

「甲斐性なしって? これのこと? 僕はあるよ、男の子だもん!」

「いいの! そんなのわざわざ見せなくても!」

「なんだい、いつも難しいこと言って! 僕はこれが答えかなと思ったから、見せたのに!」

「だから、そんな変なものじゃないもの!」

「なにがへんなんだよ!」

「もう、勝手にして!」

「変な智姉! フン......ほら、出来たよ」

 直哉は子供用のトランクスを吐き終わって、偉そうに胸を張った。ところが......

「直ちゃん、それ、反対で裏返しだよ....もう、私がやってあげる」

 智子は、水着をまだ半分だけで上半身がはだけたままだった。それでも彼女は直哉をしてトランクスを脱がせたのだが、直哉は癇癪をおこして躓いてしまった。

「あっ」

 二人は、ともにに倒れこんでしまった。直哉は、彼女の胸のふくらみに手で触れてしまった。

「智姉、ご、ごめん」

 直哉は少し気まずい思いをしながら、横を向いた。

「太っていたかしら」

「い、いや、そんなことはない」

 智子がふとったと言い張るので、直樹は改めて智子のお腹を摘まんで、笑いあった。それが、二人の恥ずかしさを覆い、二人ともホッとしたのだった。


 直哉は昔の夢から目が覚めた。すると、ちょうど智子が何か騒ぎ始めていあ。

「あ、いけない! 私、自分の部屋に塗り薬を忘れたわ......着替える前に塗らなければならないのよ......取ってくるから、皆は先に行ってて!」

 智子がそう言うと、他の女子生徒たちはどやどやと、外へ行ってしまった。しばらくたって、智子は戻ってきた。その後、彼女は服や下着を脱いで患部に薬を塗っていた......その音はあまりに静かだった。


 このとき、直哉はやっと意識を取り戻した。彼は、すっかり静かになったので、誰もいなくなったのだろうと考え、まだ穿いていないトランクスと脱いだ服とをもって個室から出てきた。もちろん、様子をうかがいながらなのだが、そこで、服を脱いだまま薬を塗っていた智子と、視線が合った。

「あ! 智姉」

「え? あ、直ちゃん…」

 智子は何も身に着けていないため、両腕で体を隠した。直哉もまた前をトランクスと服で隠した。直哉は気まずさに視線を逸らすと、智子の顔は驚愕から、次第に眉をひそめ、怒りを表わし始めていた。

「直ちゃん、ここで何やっているの!」

「ぼ、僕は男子更衣室と書いてあったから、ここに入ったんだ」

「え、それって......」

 智子は少し間をおいて、全てを察した。直哉は嵌められたのだと。


 この時、女性教師たちが着替えにやってきた。二人は慌てて、空いていた細長い用具入れに隠れた。この着替えの時間は、長かった。女性教師たちは、この日の訓練の方針とクラス分けを話し合いながら、ゆっくり着替えていた。

「智姉、こんな格好で、ご、ごめん」

「昨夜の三年生の男子たちが仕組んだことね、仕方ないわ」

 智子にそう言われても、目の前にいる智子の肌が直哉の肌に押し付けられた状態に、直哉は火傷に似た熱さを覚えた。特に、直哉にとって自らの肌に直接感じる彼女のふくらみは、困惑どころか恐ろしいものだった。小学生の時に覚えていた彼女のふくらみが、あまりに巨大なものに変化していた。

 直哉は、智子の肌に接触している自分の肌を少しでも離そうと身じろぎした。これには、さすがの智子も短く悲鳴を上げて直哉を睨みつけていた。それがまた直哉を身じろぎさせた。

「ご、ごめん」

「直ちゃん、動かないで!」

 女性教師たちは、ようやく外へ出て行った。二人は、外の様子をうかがいながら、やっとのことで二人は外へ出ることができた。このあと、二人は互いに背中を向けて着替えを終えたのだが、彼らの表情はなかなか説明できるものではなかった。

____________________


 合宿は後半となった。直哉は、全ての補習クラスに参加していたが、授業についていけるはずもなく、このごろは授業をサボっていた。 智子もまた、後半になると、出席が必要だった補習授業が皆無となった。二人は、早朝からセミナー室にこもるようになった。智子が直哉に勉強を教えるためだった。

「これから、直哉君なりの勉強の仕方を工夫しましょ!」

「どうやって?」

「テキストの問題の文章は、全てノートに書きだしたのかしら?」

「このほかにもう3冊を使って、全部の問題の文章を書きだしてある」

「どういう意味か、わかったの?」

「いや、分からなかった...」

 直哉は、申し訳ないという顔を智子に向けた。この事態は、ある程度智子と彼女の亡き母親珠子にも責任はあった。小学校4年の時になっても、直哉はほとんど漢字を読めなかった。その彼をそのままに、珠子と智子は高橋家の別邸を離れ、直哉を置いて出て行ったのだった。

 智子は絶望的な気持ちになった。どうすれば、直哉が問題を解けるようになるのか。印象付けて文字を覚えさせるしか、手段はなかった。こうして数日間、朝から晩まで智子は直哉に付き添った。この二、三日は、着替える時間も惜しんだのか、彼らは寝間着のままセミナー室の奥の部屋に籠っていた。


「直ちゃん、補習の教室に、だれもいないよ!」

「え?」

 確かに、合宿の行われていた施設のどこにも、教師たち、生徒たちはいなかった。彼らは、生徒たちが就寝に使っていた部屋に駆け込むと、そこはすっかりもぬけの殻だった。

「僕の荷物、制服が無い」

「私の荷物も、制服も無いわ......着替えまで持っていかれてしまったわ.......身ぐるみ剝がされちゃった」

「身ぐるみ? 智姉、また難しい言葉を使っている! 意味が分からん」

「そう、直ちゃんは難しい言葉だと、さっぱりわからないみたいね」

「だって、漢字が読めないんだもの......カタカナだって読めないよ」

「そうなの.......」

「みんな、帰っちゃったのかな?」

「先生たちも帰っちゃったみたいね」

 彼らはいつの間にか全学合宿施設に、二人だけ置き去りにされていた。


「これで、誰にも邪魔されないってことね」

 智子はそう言うと、直哉の顔を見ながら、何かを考えていた。

「これはいい機会ね…まずは文章を理解できるようになることよ…そうすれば、国語ばかりじゃない、数学も理科も社会も、英語も分かるようになるわ」

 智子は、その日から、直哉に大胆に教えるようになった。

「直ちゃん、いい記憶の仕方があるわ......絶対忘れない記憶の仕方よ……関連付けて記憶すれば、しっかり覚えられるものよ」

「へえ、どんなふうに関連付けるの?」

 この時、智子は直哉を見つめつつ、ためらいながら答えた。

「直ちゃん、ちょうど、私のことが頭から離れないんでしょ? それなら、私の声やいろんな形、姿に関連付けて、覚えていきましょ!」

 こうして若い智子が始めた記憶のさせ方は、中学生の男子にとって、いや大人にとっても過激すぎて、ここでは表現するのもはばかられるものばかりだった。直哉は当然、嫌がった。だが、追い詰められていた直哉は、智子から逃げ出すこともできなかった。ただ、彼は持ち前の持続的集中力のおかげもあって、直哉は急速に知識を増していった。

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