第1章 蒼い記憶 3 鍬と剣
「待て、高橋」
直哉を止めたのは、西葛中学校の体育教諭 細田 信雄だった。この時、直哉は、竹刀を左手に収めて、さっさと立ち去ろうとしていたところだった。
「はい、何でしょうか、先生」
「高橋、お前のその剣道はなんだ! まるで打ち込むだけじゃないか!」
直哉は、中学一年生の授業の一環として、剣道の練習試合をしたあとだった。彼は竹刀を上段に構え、腰を低くした姿勢のまま、雄たけびとともにひたすら何回も竹刀を打ち下ろしながら、相手に向かっていくだけだった。相手から「胴」に打ち込まれようが喉へ突きを受けようがそんなことには構わず、竹刀を打ち下ろしながらひたすら相手に突き進んでいた。隙だらけに見えた直哉に対して、相手は打ち込むことはおろか、竹刀を交えることさえ恐れて逃げ回っていたのだった。
「先生、僕はこれしか知りません…ひたすら打ち込むことだけをやってきました」
直哉は静かに小さい声で答えた。普段から無口で周囲ともかかわりを持たない直哉にしては、長いセリフだった。普段、口答えをしないはずの直哉が反論したことに、細田教諭は戸惑い、また剣道を汚されたと感じて厳しい口調になった。
「高橋、お前、剣道をやったことがあるのか?」
「僕は、剣とはこのように扱うべしと教えられてきました......それだけです」
「お前の剣道は、剣道になっていないぞ」
「先ほども言いました通り、僕は、剣とはこのように扱うべしと教えられてきました…そのほかのやり方を知りません...僕にとってこれが剣道です」
「お前のは剣道ではない」
「剣道ではない、となぜ言えるのですか」
「お前の構えが違う」
「構えは上段の構えです....一つの立派な構え方であると僕は教えられてきました」
「だから、剣道を習え、と言っているのだ」
「これが僕の剣道です……それではいけないのですか」
「だめだな」
「なぜですか?」
教師の細田はそう言うと、直哉を無視した。この時は、直哉は黙って自分の席に戻った。
さて体育の授業が終わり、細田が体育教官室へ戻ろうとした時だった。渡り廊下の進路を直哉がふさいでいた。
「高橋、道を空けてくれないか」
「ええ、私の剣の扱い方を剣道と認めてくださるのであれば、道を空けましょう......しかし、剣道ではないというのであれば、その理由をお聞かせください」
直哉は小さく静かに細田に問いかけた。渡り廊下を校舎へ行こうとしたクラスメイト達は、下校時刻が迫っていることもあって、異様な目つきで睨み合う細田教諭と直哉にに誰も声をかけずに、全員が一目散に駆け戻っていった。その後を細田教諭も通ろうとしたところ、ふたたび直哉が睨みつけながら道を妨げた。細田教諭は、仕方なく答えることにした。
「理由を問うのかね、では答えてやろう……お前はただ上段の構えから振り下ろすだけじゃないか......守ることもしない剣の扱いが剣道か? そんなものは邪道だ」
細田恐怖の[邪道]という言葉に、直哉はピクリと眉を動かした。
「それでは、ここをお通しすることはできません」
「では、押しとおると言ったら?」
「細田先生、それはおやめください」
だが、細谷教諭は竹刀で正眼の構えをとり、押しとおる意思を示した。直哉はそれを認めると、「ごめん」と言いつつ、例のごとく両足をつま先立ちにしたまま腰を低くし、持っていた竹刀を上段に構えた。次の瞬間、大きな声とともに、細田教官の手から竹刀が叩き落され、彼の喉元に直哉の竹刀が突き付けられていた。
「わかったよ、高橋、お前の勝ちだ……くそーくそーくそー……いいや、ここではお前の言うことを聞き入れてやろう、後の掃除もお前がやれよ」
こういうと、細田教官はガックリしながら自分の竹刀を取りあげた。直哉は細田教諭に一礼をすると、細田教諭は立ち上がり、無言のまま校舎へと引き上げていった。直哉はその背中にもう一度礼をすると、はっと気づいた。彼は、体育館の後片付けと掃除を押し付けられたことに、やっと気付いたのだった。
____________________
夏とはいえ、夕闇に沈んだ更衣室にはもう誰もいないはずだった。だが、その隅から女のしくしくとすすり泣く声が響いた。この時、直哉はおのれが幼い時に助けられたことを、反射的に思い出した。
「母さん」
それは、直哉が小学二年生となったばかりの時だった。直哉が、一人でなんとか風呂をたてて入ろうとした時のこと、彼は浴室の隅で、一年前に殺された母をしのび、母の残した衣類を抱きしめて一人でしくしくと泣いていた時の思い出だった。
「母さん、僕が弱かったから、守れなかった」
あの時、そっと彼に近づく者がいた。敵意ではなく、憐れみと慈愛のこもったオーラが彼を包み込んだ。それは、直哉の二歳上の四年生の少女、蒼井智子だった。彼女はぎこちないやり方ながら、直哉の涙が落ち着くまでそっと直哉を抱きしめていたのだった。
涙も枯れた直哉が振り返ると、そこには一生懸命に慰めようとした智子のほほえみがあった。
「直ちゃん、もう落ち着いたのかしら、私が洗ってあげるから、じっとしててね」
それは、忘れもしない智子の声だった。
そして、思い出から覚めた時、直哉に聞こえたのは、聞き覚えのある智子の声だった。
「許して! お願い!」
聞こえてきた女子生徒の声は、悲嘆だった。それが直哉を突き動かした。それとともに、直哉の脳裏に、過去の悪夢が浮かんだ。
「ゆるして! お願い!」
脳裏に響いた母の悲嘆の声は、まるで再びあの場に直哉を引き戻すかのように、現実味を帯びていた。その記憶を耐えて耐えて絞り出した直哉の声は、しわがれていた。
「お母さん......」
悪夢だった。今でも、彼はかつて住んでいた北端の町で襲われたときの光景を、忘れなかった。街近くの海岸から町のあちこちに敵露軍の上陸強襲部隊が押し入った。直哉たちの家にも数人のモンゴロイド兵が、目の前で母親を押し倒して乱暴し、殺したのだった。
今、彼の目の前で助けを求めた女子生徒の声は、あの時の母親の悲鳴と重なった。
「許して、お願い!」
しくしくと泣く女子生徒の声は、あの時の母親と同じフレーズ、同じ悲嘆だった。母親を助けようとしたあの時、彼は幼すぎて、奴ら敵兵たちに簡単に叩きだされてしまった。今は、その経験もあって、奇襲攻撃が最大の武器であることを痛い程認識していた。
慎重に更衣室のなかを観察すると、その声の持ち主は、やはり「蒼井智子」という娘だった。今は、たしか中学三年のはずだった。
彼女は、すでに下着さえはがされていた。彼女を押さえつけている三人の男たちは、中学生ではなかった。制服を身に着けていないことから、高校生か大人であるに違いなかった。いや、かつての敵兵にさえ似ていた。しかも、その光景を見守っているのは、この中学校の女番長と言われる立ケ谷寿賀子だった。
直哉は竹刀を使おうとしたが、それでは足りなさそうだった。かれは、竹刀の隣にあった木刀を手にし、黒い制服のまま暗がりに沿って静かに近づいた。まず、立っている二人の男を同時に木刀で突くと、体を翻して頭に一撃。続けざまに、智子に覆いかぶさっている男に後ろから打撃を加えた。だが、直哉は力加減をしたためか、打撃は少し弱かった。直哉としては、これ以上向かってきてほしくはなかったが、男たちは苦悶の声を挙げながらも起き上がってきた。直哉は、仕方なく男たちの脛を打撃し、もう一度脳天に打撃を加えた。こうして、三人の男はうめき声をあげて横たわった。
これらの事態を見守っていた女番長も、棒を構えて襲ってきた。上段の構えから力を抜いて加減しながら突くと、ぐっという声とともに彼女も直哉の足元に転がった。
直哉は、震えている智子を無言のまま起こした。智子が手足や背中にけがをしていることもあって、その扱いは非常に丁寧にする必要があった。それに気づいた智子は、思わず直哉の顔を見あげた。夕暮れの明りにほのかに照らされたその目は、逆鱗に触れられた龍のごとく、周囲を鋭く見渡していた。いまだにうめいている三人の男にもう一度目を止めると、彼らの息の根を止めるかのように蹴り上げた。倒れている女をもう一度一瞥した。
「直哉よ」
直哉に呼びかけたのは、息の根を止めたはずの男たちだった。直哉は名前を呼ばれたことで、非常に驚いた。
「え? ぼくの名前を知っているのか」
「直哉よ、お前はこの大地の上でよく知られている人間だ」
「え? 僕が? 学校では無視されているのに?」
「直哉よ、お前はこの女の味方をするのか」
「僕の幼なじみだ…お前たちこそ......」
「お前は、呪いを受けることになる......ついには魔法使いになるぞ」
「呪い? 魔法使い?」
「そうだ...お前がこの女の味方をするのなら、俺たちは、人類が焼き尽くされ滅びる時を早めてやる。俺たちが早く来れば、俺たちの手先となって戦争を始める人間たちは、焼き尽くされて滅びるだろう。そして俺たちの世界が来る。すべてお前がこの女を助けたせいだ、いや天に従い、天を助けたせいだ」
「彼女が何だというのだ」
「お前は、啓典の主に言われたはずだ、この女を与えたのはお前をたすけるためだと......ところがお前は彼女を拒んでいるな......それならば、いずれ、お前は俺たちと同じような魔法を扱う呪われた者になるはずだ」
「だから、彼女が何だというのだ」
「ほう、分からないのか、愚かなものよ、そいつは・・・・
この言葉の途端、直哉の剣から電撃が走り、目の前の男たちは全員蒸発してしまった。残ったのは、女番長だけだった。直哉は麻ひもで女番長を縛り上げ、ひもが決してほどけないように彼女を塀の突起に吊り下げた。
智子は泥で汚れ、背中ばかりか足も手も傷だらけだった。その手当てをするために、 直哉は智子に自分の上着を着せ、彼女を抱えて更衣室のシャワールームに入り込んだ。
「下着、汚れちゃったね……壁の方を向いてくれる? そう....水で泥と傷を洗うから...」
智子はまだすすり泣いていた。下着を脱いだ彼女の背中にだけ、そっと手を触れながら、直哉は目をつぶって彼女の体の泥、また傷の部分を洗い流した。
「痛い」
傷に冷たい水が染みたのだろう。智子は何回か呻いた。直哉はそのたびにシャワーの当て方を変えた。智子は次第に落ち着きを取り戻し、目をつぶったままの直哉の顔を、見つめた。先ほど彼女に掛けられていた黒い制服は、蛇腹の黒い制服だった。彼女を助けた男は、夏にも拘わらず冬服を着込んでいた。その詰襟に見えたバッジから、彼が智子と同じ中学に通う一年生であることが分かった。しかも、その顔は、いつも受動的でほとんど誰とも関わろうとはしない大人しい無口な少年のそれだった。そして、彼の顔つきにも懐かしさを感じた。彼は、彼女が数年前に別れた、家族同然の直哉にとても似ていた。
「あ、ありがとう」
智子はそう言いながら、少年の目を見つめようとした。彼が智子の記憶している直哉であることを確かめたかったのだ。それに気づいたのか、少年は智子を見ないように、向こうをむいた。
「制服も下着も汚れたままだけど、スカートは大丈夫そうだ。だから、ここからは僕の上着を着こんで帰るといい。もう、僕は、ここで失礼するから......」
「あの、貴方......」
智子はそう言いつつ、思い出しそうな名前をやっと口に出した。
「貴方は、直ちゃん...」
「智姉……いや、僕は貴女を知らない」
直哉は反射的に声を出していた。それでも、彼は向こうをむいたまま、否定的に答えた。
「え、でも今、『智姉』と言ったよね」
「いや」
「唐変木」
「昔と同じだ、難しい言葉を使っている! どういう意味?」
「知らない!」
智子は(いまさら何言ってんの、この人……)と思いながら、昔と同じように直哉を背中から抱えた。突然のことに、直哉は背中からの彼女の圧力に気おされた。
「や、やめてくれ……」
直哉は苦しそうに、声を出した。直哉にとって、彼の背中に感じた彼女の双丘は、文字通り苦悶を与える拷問具だった。他方、智子は昔を思い出しながら、ワイシャツ姿の直哉をより強く抱えた。
「直ちゃんは、相変わらず、おかしいよ」
「許して! お願い!」
彼はそう言って、顔を真っ赤にして立ち上がろうとした。しかし、中学三年生の女子生徒は、中学一年の彼にとって、簡単に逃がしてもらえる相手ではなかった。
「ここは明るい場所だから、僕は目を空けられないんだ....だから許して…」
「そう、明るい場所だから、私は見られると恥ずかしいの……」
そうしているうちに、直哉は照明スイッチに手をかけることができた。真っ暗となったところで、直哉は彼を抑えている智子の指をひとつづつ、ゆっくり外した。
「だめ、離さない」
智子はそう言うと、彼の首に両手を巻き付けてそのまま押し倒してしまった。
「本当に許してくれよ......僕は、虫ケラなんだ………智姉が汚れる……お願いだから」
直哉は半べそになって、懇願した。智子は驚いて力を抜くと、直哉はそのまま逃げだしていった。
「やっぱり、彼は直ちゃんだったんだ……変に意識するのは変わっていない……」
智子は確信していた。