第1章 蒼い記憶 2 襲来
「ゆるして! お願い!」
夜の闇の中で、幼い直哉が見たことの無い母親妙子の泣き顔と押し倒された姿は、直哉を激情に走らせた。
「ママにひどいことをするな!」
「なんだ、このガキ!」
「お、子供にしちゃあ、力が滅茶強いぜ」
「じゃあ、こうやって外へ蹴飛ばせばいいだろ!」
所詮は子供の体格だった。直哉はいとも簡単に外の暗闇へ蹴りだされてしまった。
外は雨が降っていた。そのせいもあって、町のみんなは樺太からの大陸勢力上陸部隊に気づかなかったのだろうか。その雨の中で、家の中から聞こえる母親の悲鳴とも似つかない声。そして男たちの下品な笑い声と嬌声が、ひとつづつ直樹の心に刻まれた。
「絶対、許さない!」
静かになった時、直哉は黒檀の木刀を手にしていた。男たちが去ったのかどうかを確かめながら、裏口から勝手知った家に忍び込むと、玄関には一人見張りが立っていた。
「アンドレイ、よく見はっていろよ」
残りの男たちは、見張りにそう声をかけると、再び母親の上で無我夢中になっていた。母親はもはや身動きすらしていなかった。
直哉は男たちの背後にそっと近づくと、一気にその首筋に連撃を加えた。男たちは呼吸ができなくなったのか、断末魔の顔を直哉に向けながら、仰向けに倒れた。断末魔の仲間の声を聞いたアンドレイという見張りは、玄関から中を覗き込んだ。ちょうど、直哉と目が合ったところだった。直哉が見たその顔は、直哉を外へ蹴りだす前に、直哉を睨みつけていた男たちの一人に違いなかった。
「殺す! 絶対、許さない」
直哉はそう低い声を発すると、アンドレイは悲鳴を上げて逃げ出していった。直哉は彼を追って行こうとしたが、母親を助けなければならないと思い返して戻った。母親は......既にこと切れていた。
「ママ! ママ! ・・・・あーん!」
その後のことを、直哉はほとんど覚えていなかった。実際には、彼が警察に連絡を入れると、自宅には救急車、警察車両、そして自衛隊まで……次々に駆け付けてくれた。すでに、街中に自衛隊の部隊が展開していたらしかった。
自宅に来た人たちは、手際が良かった。テキパキと倒れている男たちや、母親を扱っていた。
「こいつら、大陸勢力の太平洋艦隊が派遣した上陸部隊だ…全員喉をつぶされているな...黒檀の木刀? 坊ちゃんがやったのか? すごいな……ただ、君のお母さんはお気の毒に....」
直哉には「お気の毒に」という言葉の意味が、最初分からなかった。母親の遺体が運び出された後も、直哉は悪夢を見ているように感じていた。
後日、あとになって、母親がいとも簡単に死んでしまったことを悟った時、女性という存在が壊れやすく、自らが触れても汚しても、死に至らしめかねないと考えるようになった。
「女の子もこんなに簡単に死んでしまうのかしら…女って僕が触れてはいけない存在なんだ... 」
その夜から、直哉は、一心に黒檀の木刀を振り上げ振り下ろす鍛錬を始めた。ちょうど、母親が生きていたころに、周囲の畑で彼女とともに、鍬をずっと振り上げ振り下ろしつづけたのと同じ運動だった。腰を低くして、懸命に、懸命に、一心不乱に……。次の日も次の日も。多分、このとき彼は、自らが以前よりもおろかになっていることを感じたに違いなかった。以前よりも、物事を深く考えることができなくなっていた。まるで、悪夢を見ているような感覚だった。それゆえ、直哉は悪夢から目覚めたい一心で、黒檀の木刀を振り上げ振り下ろす鍛錬をつづけた。
父、高橋泰然が駆けつけても、彼は木刀を振り上げ振り下ろす鍛錬をつづけた。泰然は、息子の傍にいてやれなかったことを、この時いやというほど後悔した。自らが、代議士であること、政治の場で中心から離れられない立場であることを悔やんだ。せめて、これからは、少しでも近くに住まわせたいと考えた。
その日のうちに、泰然と直哉のところに蒼井珠子と名乗る女がやってきた。
「高橋様、この度は奥様のご災難についてお悔やみ申し上げます」
「いや、ありがとう、蒼井さん…早速来てくれて、助かるよ」
「子供さんがお一人だけ残されたのですから、当然のことです」
珠子はそう言うと、早速、直哉の自宅の中に入り込み、様々な家事や事務をこなし始めた。その様子から、直哉は自らがどうやらこの家を離れなければならないことを知った。
「僕、ここに住み続けたい」
直哉の言葉に、泰然は驚いた。
「どうやって、食事を作るんだ? 誰がお前の世話をしてくれるんだ? どうやって生きていくつもりだ?」
「でも、僕はここを離れない...北海道の大地から離れたくない...この土地はママと僕のホームグラウンドだから」
「お前の母親は死んだんだ」
「え、死んだの?」
「わかっているはずだ......」
「え、どうして? 救急車で運ばれていったんでしょ? 治るんでしょ? 帰ってくるんでしょ?」
直哉は、この時、父泰然を憎しみの目で睨みつけた。泰然は、その憎しみの視線に戸惑った。
「直哉、私と一緒に東京に行くんだ」
「あんた、僕の家族でもないのに、僕をどうするつもりだ!」
「わたしは、お前の父親だ」
「父親だってことは知っている...でも、僕の家族じゃない! ぼくの家族は僕と一緒にいてくれたママだけだ」
直哉は泰然を拒んだ。それは、直哉の後ろからこの様子を見ていた珠子にもわかった。珠子は、直哉の母親の割烹着をまとい、そのままそっと直哉を抱いた。母親の匂いのする割烹着に包まれ、直哉はおとなしくなった。その様子を見て、珠子はゆっくり語り掛けた。
「そうね、貴方のお母さんは、いつもあなたの傍にいらっしゃるわ…たとえ東京に行っても、貴方の周りに必ずいてくださるのよ」
この言葉に、直哉はわっと泣き出し、その涙を珠子はいつまでもふき取り続けた。
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東京、葛飾に第二次大戦以前から同潤会堀切住宅という小さな高級住宅地があった。周囲はすでに宅地開発が進んでいたが、この一角だけは、瀟洒な住宅が手入れされた庭木とともに落ち着いた雰囲気を残していた。直哉は、この一角にある高橋家別宅にやってきた。そこには、母親の思い出の品が運び込まれ、それが直哉の魂を慰めていた。
直哉にとっては、見知らぬ土地に来させられたことで、いまだに悪夢を見続けている気分だった。そして、悪夢から目覚めたい一心で、木刀を振り上げ振り下ろす鍛錬をし続けた。それは、父高橋泰然によって紹介された自衛官からの教えでもあった。
「名前が直哉君だったね......君はこれを読んでいたのか?」
自衛官は直哉の手許にあった「霊剣之操」を手に持つと、驚いて声を上げた。直哉は慌てて否定した。
「これは、母方の祖父が僕に読んで聞かせ、理解させたものです......なぜ鍬のように木剣をひたすら振り上げ振り下ろすのかの意味を...」
「そうか、これが理解できるなら、今は勉強ができないと言われているらしいけど、論理が理解できる、いや論理の神髄、根本を容易く理解できる洞察力を有している、ということになる....だから、しばらくは頭が悪いなどと言われ続けるかもしれないが、いつか文字が読めるようになれば、突然物事が分かるようになる......それを待ち続けて、木剣を鍬のように降り続けるんだよ」
自衛官の教えてくれたことはそれだけだった。そして、特に自衛官が一つだけ続けろと指摘したのは、腰を低くしてつま先立ちのまま、長い棒を縦にひたすら振り上げ振り下ろす鍛錬だった。
「えい、えい、えい」
この時に、この時だけ、直哉は自分を取り戻すのだった。しかも、この鍛錬の時、直哉の目の前には、あの夜の憎むべき敵兵たちの顔がはっきり見えていた。
泰然がこの別宅に来ることはほとんどなかった。それは、泰然が永く代議士を務めていたせいでもあった。直哉が幼い時から泰然は民国党の重鎮だった。忙しい日々を過ごしていることだけは、直哉も知っていた。その代り、別宅には、家政婦の蒼井珠子がやってきた。彼女はかいがいしく直哉に世話を焼いた。また、娘である智子を連れてやってくることも多くなった。彼女は、二年生の直哉よりも二学年上の小学四年生だった。
「直哉君ね」
「ああ」
智子の問いかけに、直哉の態度はそっけなかった。
「私、蒼井智子よ」
「知っているよ、珠子さんから聞いているから」
「いつも何して遊んでいるの?」
「見ればわかるだろー」
「つっけんどん!」
「なに?」
智子の口からは、この後も時々直哉には難しい言葉がでた。これらの言葉を直哉が理解できないことを、智子は重々承知で口にした。直哉が小学校でろくに勉強ができないことを、智子は知っていたからだった。直哉にわからないはずの言葉で悪態や願望を口にすることが、彼女にとってのストレス解消法だった。ただし、彼女は同じ言葉を繰り返しているので、次第に直哉に悟られていくのだが、そんなことは彼女の予想もし得ないことだった。
直哉は、珠子と智子にだけは心を許すようになった。珠子は家政婦として様々なことを直哉に教えた。智子は直哉と子供同士でもあり、この時から二人は打ち解けるだろうと思われた。ただ、直哉から打ち解けようとはせず、もっぱら智子がかいがいしく直哉を世話していた。その姿を見た泰然は、直哉が小学4年となった年度の冬に、珠子と結婚して家族として迎えようとした。だが、それは直哉の強烈な反発を招いた。
「僕のママは、北海道にいる……この人はママじゃない」
「お前の家族だぞ!」
「ちがう、僕の家族はママだけだ!」
「この人は、お前のことを心配して、父である私と結婚すると言ってくれたんだぞ! 新しい家族なんだぞ!」
「違う、僕の家族はママだけだ!」
直哉の反発は、強烈でかつ根深かった。直哉の心の暗黒が想像以上に深かったことから、珠子は智子とともに去っていくのだった。
珠子や智子が去ってから、彼の食事は、もっぱら泰然の秘書たちが買い与えたコンビニ弁当だけになった。それから直哉は、再び孤独な生活をするようになっていた。彼は、ふたたび、黒檀の長い棒を縦に振り上げ振り下ろす練習を始めた。それは、見えない誰かが彼を指導してやらせているとしか思えない風景だった。
その振り上げ振り下ろしの日々は、時を超越していくような感覚だった。実際そうだったのかもしれない。直哉だけは、彼自身の固有の時空系列から、まるで別の時空系列の記憶へと記憶を飛び立たせるように、時間が過ぎていった。そして、彼は夢見心地のまま時を過ごし、いつの間にか中学一年生となっていた。直哉にとって、中学一年生にいきなり転生したような感覚だった。