第2章 術者への道 11 地下迷宮と直哉の凍結術
「ど、どうすればいいの?」
「逃げるんでしょ!」
この時、智子は複雑な表情を示しながら、直哉をたしなめた。直哉はいつもの調子に戻ったと同時に今までの全てを忘れたらしく、ぼけた反応を返してきた。
「え? どこへ?」
「あれえ、もとの調子に戻ったねえ」
虹洋や梓晴がそう言いながら、直哉を見つめた。それを尻目に、智子が声を掛けた。
「逃げるんでしょ! 早く逃げるのよ!」
智子はそう言うと、直哉に荷物を持たせて追い立てた。すると、直哉は智子を崇拝したような表情をしながら引き立てられていった。
この光景を、ほかの5人は不思議そうに見つめていた。しかし次の瞬間には、逃げ出さなければならないことに気づいて、彼等も直哉たちを追って壁から脱出していった。
………………………………………
人通りが一切消えた飯倉の通り。早春の未明とはいえ、繁華街や地下鉄の駅に近いはずのこの通りで、一切の人影が見えないことは異様だった。それは、おそらくこの時間にだけ出入りできる地下の施設を、一般市民から遠ざけるための仕掛けなのだろうと思われた。そんな施設にこの七人が接近することを許したのは、彼らを誘い込むための罠に違いなかった。そんなことは、論理的に分析し、考察を加えればわかることだった。だが、なかなかその気づきができるほど頭の回る者はいなかった。
地下へと通じる道は、道路に面した古い門の横の勝手口から入るように、案内されていた。七人は、素直に道筋を進んでいった。この段階になっても、誰も、智子さえ、疑問を持つこともなかった。ただ、呪縛司の地図と荷物とを運ぶ直哉だけは、彼らに素直に従おうとはしなかった。
「み、みんな、どうしてそんなところに入って行くの?」
彼の荷物入れが彼の後ろ髪を引くようにして、彼をためらわせていた。いや、彼が荷物入れの奥にしまい込んだ呪縛司の地図が、急に直哉の動きを非常に鈍くしていたのだった。
それでも、彼らは通路から螺旋階段へ、その奥深くへと下って行った。螺旋階段の行き着いたところから、さらに横穴へ。すると、その先はまるで壁を素通りするように地下へと彼らは消えていった。
「ここはどこへ通じているんだろうか?」
「アリサ、あんた、この辺りに見覚えは無いの?」
「私は大陸から直接北海道で工作するように指示されただけだったから、この辺りの施設は知らないわ」
「ここには、何があるんだろうね」
「すんなり入れたということは、我々に限らず、誰かを迷わせ、引き入れる仕組みがあるのかしら」
ここで、智子がようやく罠であることに気づいた。すでに,彼ら7人は奥まで入り込み、進むことも出ることもかなわない状態になっていた。
「客人たちよ、歓迎するよ」
「だれだ」
いつの間にか、直哉達七人は、いつのまにか謁見の間に立たされ、ヘルム甲冑の兵士たちに囲まれていた。先ほどの声は、その奥の玉座から呼びかけられたものだった。七人は、よく見えないせいか、または警戒をしながら、その奥を睨みつけた。それを確認したのか、さらに声が続いた。
「私は、この地下迷宮の女王呪張」
「呪張......」
そうつぶやいて、智子は凍り付いた。直哉はそれに驚いて、もう一度呪張を睨みつけた。
「呪張だと? そうか、ぼくが小さいころに教えられた......呪縛された呪張......」
「少年、その呼び名はとても失礼だぞ」
呪張は、直哉だけを睨みつけた。そして、さらに智子を品定めするように言葉をつづけた。
「そうか、あんたとその後ろに立っている女......あんたたちだけは何かを得ているようだな......そしてほかの同行している者たちも、この少年について行こうとしているのか? それならここで誘惑してやろう」
「なんだと、俺がそいつの従者だというのか?」
総一郎が悠然と顔を見合わせてから、呪張に対して怒鳴り返した。呪張はしかし総一郎を見向きもしなかった。その様子に今度は、虹洋が続けて怒鳴った。
「あんた、女王だか、何だか知らないけど、私たちに失礼じゃないか! この男は、単なる荷物持ちの脳足りんだぞ」
これも呪張に何の反応も起こさなかった。だが、梓晴はアリサの様子を見つつ、呪張に静かに話しかけた。
「貴女、いいや此処では陛下と呼ぶべきかしら…誰に働きかけるべきかを、間違わないようにね」
この言葉に、呪張はまるで教えを受けた者のように、急に総一郎や虹洋に対する態度を変えた。
「それならば、怒鳴った男女よ、あんたたちが導き手なのか......では、それにふさわしく、まずはあんたたちを試すことにしよう」
この時の呪張の視線は、総一郎たちからアリサに移っていた。
女王呪張は、7人の少年少女たちを囲んでいたヘルム甲冑姿の衛兵たちに指示して、7人をさらに下層の空間へと連行させた。
下層は、謁見の間ではなく、何か運動をさせる体育館のようなごく広大な地下空間だった。
「ここは、意のままの間と呼ばれる空間だ」
その言葉に警戒の色を浮かべたのは、智子だけだった。他のメンバーは、周囲の壁や屋根を見ながら衛兵たちに引きずられながら、入ってきた。すると、衛兵たちはこの空間に7人を置き去りにして、どこかへ行ってしまった。
「何が起こるのかな」
総一郎たちは、そう言いながら周囲を見渡した。彼らは、分散して四方を調べ始めた。周囲は壁に仕切られ、天井はとても高い空間だった。
「何もない空間だね」
悠然は、周囲を見渡し、皆が調べた結果を照らし合わせ、冷静な口調で結論のようなことを言った。それを聞いた虹洋が悠然を見つめた。
「何もないの? 出口も無いの? 入り口はあったのに、その入り口も無いの? それを悟ったのに、そんなに冷静なの?」
「いや、冷静じゃないよ......みんな一緒に何をしたらいいのかわからないだけだよ」
悠然は天井と壁を交互に見つめながらそう言った。総一郎は、我慢できずに叫んだ。
「わからない? そんなの、何処かを破壊すれば出口はできるさ」
「でも、破壊することなんて......」
梓晴は、総一郎を見ながらそうつぶやいた。それを聞いた総一郎は梓晴をみながら、それに応えた。
「下手な考え、休むに似たり、という格言があるさ……それだから、いろいろ試すのさ」
「じゃあ、私も手伝うよ」
虹洋が反応した。それを見た梓晴も、小さな声で総一郎に返事をした。
「総一郎、私も手伝うわ」
「アリサ、あんたも手伝いな」
虹洋は、アリサを睨んだ。このときまで、アリサは無気力に座り込んでいた。そして、彼女が腰を上げたのは、それは虹洋の言葉ではなく、梓晴の視線を感じたからだった。そして、彼女は短く返事をした。
「はい」
どうやら、今は、アリサが拒めないのは梓晴であった。
彼らは、地下空間のすべてを調べた。それには数日を要した。そして彼らはとこにも出口はおろか、この空間に入ってきたときの入り口、そしてその痕跡さえも見つけることができなかった。痕跡さえ見つければ、その壁若しくは天井を破壊できるかもしれなかった。
「どこにも、なにもない……どこも破壊できやしない、傷もつけられやしない」
総一郎はそう言うと、疲れ切った体を荷物を集めて置いた近くに横たえた。すると、彼に従っていたメンバーも、同じように無口なままに体を横たえた。ただ、悠然だけは身を起こして何かを考えていた。
「ここにずっと閉じ込めるつもりなのだろうか」
考えをまとめつつあるのか、悠然は周りの仲間たちを見渡し、また荷物を見渡した。
「食べ物も水もなくなりそうだ」
「じゃあ、私たち、どうなるかしら」
疲れ切った虹洋が悠然を見つめた。彼女はぼんやりとだが、彼が何かを分析しているのだろうと考えていた。そんなことを感じていたからだろうか、彼女は何となく言葉を継いだ。
「私たち、どうすればいいの?」
「どうしようもないよ」
総一郎は、横で何気ないやり取りをしている悠然と虹洋を見ながら、そう言った。
「俺たちは、もうどうしようもないんだよ」
「総一郎......あんたは、こんな時、何かをしないと我慢できないんじゃないの?」
梓晴は、総一郎に何かを感じていたのか、最近は彼に様々に話しかけるようになっていた。そんな彼女を見返しながら、総一郎はつづけた。
「あの女王は、この空間が「意のままの間」と言っていたよな」
「『意のままの間』? 意のままにならないわね」
梓晴は総一郎に相槌を打った。それを見た虹洋が皮肉を言った。
「総一郎、あんた、何にも考えずに突っ走って、ダメだったけれど、これからどうするの? 今までどうしていたの?」
「なんだ、虹洋? あんただったらどうしたというのだ?」
「あんた、悠然のように、考えてから動いたらどうなの?」
虹洋は、同族嫌悪なのだろうか、自己批判なんだろうか、下を見つめながらそう指摘した。すると、総一郎は、その指摘を拒むように反論した。
「じゃあ、あんたはどうするんだよ」
こうして全員が黙ってしまった。
こうして何も解決手段を見つけられないまま、何日も過ぎていった。7人は、様々なことを試したが、それも意味はなく疲弊する一方だった。そして、食べ物も、飲み物も一切なくなってしまった。それが明らかになった時、話す言葉もみんなの口から一切なくなってしまった。
そんな時だった。皆の様子を見ながら、直哉だけは関心なさそうに荷物を抱えて座りこむと、珍しく言葉を口にした。
「ここに至っては、ぼくは覚悟をするよ」
「こいつ、何格好をつけているんだ?」
総一郎は普段から直哉を見下していたが、今回はそれに加えて直哉が普段口にしない格好良すぎる言葉を口にしたことが、癇に障った。他のメンバーも同様の思いを持ったのか、変わった奴だという思いを持ったのか、直哉を戸惑いつつ見つめた。
「直哉、あんた、何を今頃そんな覚悟なんてする必要があるのよ」
「そうだね...…急にそんな恰好をつけるなんて......」
「まるで、ここで私たち、終わりを迎えるみたいじゃないの?」
ただ、智子だけは何かに気づいたのか、周りを見渡した。
「この時に至って、これから何かが起きるわ」
その言葉とともに、彼らの頭の中に突然に、聞き覚えのある疑似声音が響いた。
「みな 空腹なのかね? そうか、そうか! 歓迎するぞ! それゆえ、皆に褒美をやろう!」
「だれだ!」
虹洋がスクッと立ち上がり、天井に向けて大声を上げた。それに応えるように、疑似声音はまるで天井から降り注ぐかのように、脳裏に響いた。
「あんたたちの今までの行状を見つめていた者だよ」
「なんだと?」
虹洋と同様に、総一郎が天井を睨みながら立ち上がった。すると、疑似声音はそれを楽しむかのように、言葉をつづけた。
「あんたたちは異術学院から来たのだろう? それならば、この褒美を受け取ることが出来るだろう? さあ、今、目の前には、石がたくさん転がっているぞ! それはみんなへの褒美だ! さあ、われに祈りを捧げてみよ……それによって、それらの目の前の石をパンにしてみよ」
こう言いながら、呪張は姿を現した。
「あんた、女王呪張?」
虹洋が反射的にそう怒鳴った。それに呼応して総一郎や梓晴が怒鳴った。
「お、おれたちは、気高さをそんなパンで売り渡さないぞ」
「私たちは、そう、生き様をそんなパンで売り渡さないわよ」
「俺も、誇りをもって生きる者だ」
悠然の言葉が彼らの言葉を締めくくった。だが、呪張はそれらの言葉を鼻で笑った。
「ほほう、そう言っていつまで耐えられるかね……では、気高さ、生きざま、誇り、とやらをもって、食べ物として生きるがいい」
「待って!」
声を上げたのはアリサだった。
「私は、元はあなた方の側の人間だった」
「そうか、あんた、同胞ロシア人だな......それなら助けてやろう」
女王は、アリサを見つめて納得したような表情をした。
「いいえ、私は助けなどいらないわ」
「ほお、何を言うのだ なにゆえ、名乗り出たのか?」
「それは、もともとがあなた方の側の人間だった私が、今、何のために生きるかを明らかにしたいからです」
「ほお、矜持を示しつつ生きる仲間の話を聞いて、あんたも名乗り出たのか」
「私は、私は彼、高橋直哉のために生きているんです」
「誰だ、それは? なんだそれは? 誰だそれは?」
「僕です」
声を上げた直哉を、女王ばかりでなく、仲間たち、特に総一郎は強く睨みつけた。女王は、直哉を睨みつけつつ、言葉を継いだ。
「ほお、あんたは、今まで何もしようとしなかったはずだが……それがいま声をあげたのか?」
「そう、ぼくはパンのみで生きる者ではありません……それに誇りや矜持もありません…...」
直哉はそう答えた。その答え方は女王に対する単純な返事だったのだが、総一郎には皮肉に聞こえた。
「お、おれは、あんたと違うぞ!」
「はい、ぼくは、脳の足りない単なる荷物持ちですから...」
直哉がそう言うと、総一郎は厳しい剣幕で指摘した。
「じゃあ、なぜいま、名乗り出たんだ」
「名乗り出たんではなく、指名されたからで…」
直哉は戸惑いながら答えると、総一郎はさらに怒りを覚えて直哉につかみかかろうとした。
「うるさい、この野郎、黙れ!」
「そこの男、静かにせよ」
女王の言葉に、衛兵たちがすぐに総一郎を押さえつけた。女王は、愚かに見えながらこれほど仲間たちを激高させる直哉に、興味を持った。
「あんた、なんという名だ?」
「僕は、高橋直哉です」
「その高橋直哉は、何によって生きる者なのかね?」
「僕は、啓典の言葉の一つ一つによって生きる者です」
「啓典だと? あんた、異術学院の者ではないのか? あんたは誰だ?」
「僕は、高橋直哉です」
「名前を訪ねているのではない……あんたはただものではない……おそらくは、ほかの6人にまぎれてここまで入り込んだのか? もう一度聞く、あんたは誰だ?」
「僕は、啓典の言葉の一つ一つによって生きる者です」
「まさか、そんな奴が紛れ込んでいたとは......異術学院とはそんなことになっていたのか......何か考えないといけないな......それにしても、あんたたちにはもっと別の道を与えてやろう」
呪張はそう指摘すると、直哉を覗き込むようにして彼の前に立った。すると、7人は別の場所に移された。
「あんたたち、特に高橋直哉、あんたは啓典の言葉の一つ一つで生きると言ったな。それならば、あんたは守られているんだろうなあ。そして、ここまでたどり着いたあんたたち7人もまた、守られているのかもしれんね? それならば7人が互いに殺し合ってみたらどうだろうね....全員で戦い、生き残った奴が守られているものである、と認めてやる......惚れ、わたしと衛兵たちが入ってきた先には、我々の宮殿と楽園があるぞ…最後の勝利者になった一人には、そこへ行くことを許そう」
女王は微笑みながらそう言った。それを聞いて、直哉は反射的に言葉を発した。
「だめだ、みんな戦うな」
「そうかい、それならばすべてを私が殺してやるぞ」
女王呪張は嘲笑した。これを聞いた総一郎は「最初の血祭りに」と言いながら直哉に一撃を加えた。
「俺が生き残るよ…ということで、まずはお前を血祭りにあげてやる」
「うぐっ」
直哉は途端に床に倒れた。総一郎はさらに直哉に打撃を加えようとした時、アリサと智子が二人で直哉をかばった。だが、総一郎は躊躇せずに智子に殴りかかった。
「痛い! やめて!」
智子は痛みに悲鳴を上げ、アリサも総一郎に恐怖を感じて悲鳴を上げた。それと同時に、直哉は顔色を変え、まるで卒倒したように目をつぶった。総一郎は三人を一瞥すると、今度は虹洋を睨みつけた。虹洋もまた、総一郎を睨みつけた。
「総一郎、あんた、皆を率先して裏切るのね」
「裏切る? 虹洋、これは殺し合いだろ? 殺し合いが始まったんだろう? それなら、全てを皆殺しにするんだよ! それで俺が守られていることがわかるさ……さあ、まずはお前が死ね」
総一郎がそう言うと、そこに虹洋をかばうように悠然が飛び込んだ。
「総一郎、そうか、よくわかった! お前は一人残ろうとするために、他を殺すんだな......その腐った心根、僕が糺す!」
「悠然、そうか、お前、正義の味方面をするんだな......殺し合いの中でそれを言うのか....いつまでそんなことを言い続けられるかな」
総一郎はそう指摘すると、総一郎の後ろから悠然と虹洋めがけて、梓晴が飛び込んできた。
「総一郎、今は私、あなたの味方をするわ」
こうして、4人は戦いを始めてしまった。
「そうだ、そうだ、それでよい! これこそ、人間の本来の姿だ!」
女王呪張はそう言って手を叩き、狂喜した。すると、今まで目をつぶっていた直哉は、まるで人が変わったように顔色を変え、表情を変えた。最初は赤くなり、そして凍り付いた壁の白さよりも白く、そして青白い顔色となった。仁王立ちのように動かなくなった直哉は、凍り付いた地下の氷から生まれた氷鬼のように見えた。
直哉は荷物の中から太い木刀を取り出すと、弾かれたように戦っている4人の中に飛び込んだ。
「やめろ……これ以上殺し合いをし始めた者、攻撃を加えようとするものは、これで封じる」
直哉がその言葉とともに木刀で床を叩くと、4人は動けなくなって、そのまま床に倒れこんだ。
「直哉! あ、あんた、何をした」
「直哉!? あ、あんた、これは、何の、異術なの? 答えがないね…つまり、智子、これがあんたの言っていた『何か』なのか?」
彼らは4人とも、神経がマヒして動けなくなっていた。直哉はそれを確認するように、総一郎の腕をブラブラとさせた。
「意識に要する以外の、全ての神経細胞の領域だけの一切の動き、電子やイオンの一切の動きを封じさせてもらった」
「直哉、ど、どういう意味? あんた何をしたの?」
そんな質問をみんながし始めた時、呪張が口を開いた。
「何の真似だ! 私たちのせっかくの採取の機会を台無しにしたな....お前は死ね」
「やめろ、無駄なことを」
直哉がそう言ったとたん、女王は氷漬けになった。また同時に部屋に殺到して来た兵士たちもまた、脚が動かなくなって、そのまま氷漬けとなった。しかも、途端に周囲の空間の空気までがキーンと冷え込んでしまった。
「さあ、兵士たちが入ってきたところから、脱出しよう」
直哉がそう言うと、脱力していた総一郎たちは立ち上がった。そして、それぞれ、青白い顔色の直哉を覗き見て、メンバーたちはのけぞった。それを見ながら、直哉はつづけた。
「物体を構成している分子の動作を停止させたんだよ…精確に言うと、分子やイオン、電子の動きをね」
「あんた、いつの間にそんなことができるようになったの?」
「ああ、智姉がいると、何故か、こんなことができるのさ…ただし、ぼくはまだ智姉に追い込まれていない。だから、術式はまだ不完全だ。それに、分子運動だけは完全には止められないんだ。基底振動があるからね」
直哉がそう説明していると、智子が後ろから声をかけた。
「直ちゃん、もういいから!」
その途端、直哉ははっと気がついたように智子の顔を見つめた。彼の表情は、崇拝するもののそれだったが、次第に鋭さを失って元の顔色に戻っていた。もちろん、言うことも元の間の抜けた調子に戻っていた。
「ど、どうすればいいの?」
「逃げるんでしょ!」
この時、智子は複雑な表情を示しながら、直哉をたしなめた。直哉はいつもの調子に戻ったと同時に今までの全てを忘れたらしく、ぼけた反応を返してきた。
「え? どこへ?」
「あれえ、もとの調子に戻ったねえ」
虹洋や梓晴がそう言いながら、直哉を見つめた。それを尻目に、智子が声を掛けた。
「逃げるんでしょ! 早く逃げるのよ!」
智子はそう言うと、直哉に荷物を持たせて追い立てた。すると、直哉は智子を崇拝したような表情をしながら引き立てられていった。
この光景を、ほかの5人は不思議そうに見つめていた。しかし次の瞬間には、逃げ出さなければならないことに気づいて、彼等も直哉たちを追って壁から脱出していった。




