序章 2 召喚
その夜、衝撃波は、幾つも響いた。払暁のころまで続いていたかもしれない。衝撃波の後には、必ず爆発音が続いた。
Jアラートの直後に直哉の寝室に駆け込んできた智子は、そのまま直哉の部屋に震えながら直哉の作業を見つめていた。直哉は、自身がカウンターパートに連絡を入れたことに驚いていた。越権行為になりかねない行動だった。その直後、直哉は直属の上司にあたる大臣や事務局に連絡を取り合ってからは、為すべきことをしたんだという満足感もあった。
ふと、横を見ると直哉の寝ていたベッドの上で、智子が布団をかぶって震えていた。
「母さん、いや智子さん、ここはおそらく大丈夫だと思うよ」
「なんで、そんなことが言えるの?」
智子の声は震えていた。直哉は智子の不安を取り除こうとして、自信をもって指摘した。
「智子さん、私の親父が生きていた時、大臣や政務官たちが外とパイプを持っていたり、物事を動かすことができたりしたのを見てきましたよね......僕にとって政務次官となった今は、そんな時だと思います......僕が中国のカウンターパート趙虹洋に連絡をとったら、彼はロシアに掛け合ってくれると言ってくれたんです......彼はロシアにもパイプがあるから......」
直哉がそう言っている横で、ラジオが続報を流してきた。日本の監視衛星がロシアから日本に向かう弾道ミサイルを 探知したということだった。実況中継のようにミサイルの到達時刻や迎撃態勢を、刻々と伝えていた。
「ミサイルが一つ自爆したようです......ふしぎなことに...日本の余市に向かっていたミサイルがロシア当局の制御なのでしょうか、自爆したそうです......他のミサイルも自爆するのでしょうか?」
アナウンサーの指摘に、専門家が答えていた。
「今はわかりませんね......とにかく、総力を挙げて迎撃しなければならないことは確かです」
直哉は、震えている智子の両肩を両手で支えるようにして、落ち着かせた。
(あんなにうるさかった継母は、こんなに華奢だったのか?)
直哉はそう思いながら、智子の震えが止まるように願いながら、手に力を込めた。
「智子さん、今は祈りましょう......我々に今できることは、祈ることだけです」
「ええ、そうね、直哉さん」
智子はそう言いながら、肩を掴んでいる義理の息子の掌に、自らの掌を重ねた。彼の手も、彼女の手も震えていた。
その夜、彼らは身を寄せ合いながら、ラジオの放送が突然終了したのを聞き届け、地震のような衝撃波と爆発音と閃光とに震えつつ、一晩中震えて過ごしたのだった。
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次の日、二人は、谷あいの奥から出て、見晴らしの利く丘に登った。そこからは少し遠くにある街、つまり余市駅やその周辺の跡を見ることができた。跡というより廃墟といったほうがいいかもしれなかった。
「石狩平野周辺にはミサイルが来ない、と思ったのだが......」
「確かに、私たちの住んでいるこの辺りには、落ちなかったのね......でも、今のこの風景を見ると、日本の周囲に落ちた核爆弾は、よほど規模が大きかったのね」
「そうだね......周囲には黒雲がかかっているから見えないんだけど、海ができたのかもしれない」
「いずれの方角も? 他のところ......も......海に覆われてしまったのかしら......周囲が海に囲まれているということは、この周囲が破壊されたということかしら?」
「そうか、そう言うことだね……おそらく......」
「どういうこと? どうなるの?」
「あの黒雲がこちらに来る………死の雨だ………とりあえず、数日は家の中に籠った方がいいね」
この辺りにも、やがて死の灰つまり放射性物質を含んだ雨が降りはじめた。別宅のシェルター内部から黒い雨を見つめながら、二人は、日本全体がそっくり海面下に沈んだのではないかと考え始めた。それは山がちだったこの辺りだけが孤立した島となって、ほかの地域と連絡が取れなくなったことから、推定したことだった。そればかりでなく、中国の友人とも連絡は取れず、他の地域の放送や通信も途絶えていた。この様子を見ても、世界全体さえも全滅したのではないかと考えざるを得なかった。はっきりしていたことは、二人が互いをどのように考えていようとも、助け合って一緒に過ごさなければならないことだった。
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直哉の母、つまり父、高橋泰然の妻、妙子は、直哉が7歳の時に彼の目の前で襲われて命を落とした。それ以来、父の泰然は、直哉を東京葛飾の別宅に住まわせ、政治家という仕事に没頭するようになった。直哉は葛飾の同潤会にある別宅で、父が連れて来た蒼井珠子と名乗る家政婦によって、世話を受けるようになった。珠子の連れ子であった智子も、小学二年生だった直哉の傍にいることがあった。しかし、泰然が珠子を妻に迎えようとしたことに、直哉は強烈に反発したとき、智子も珠子とともに直哉の許を去った。
その後も、珠子と智子は同潤会近くで直哉を見守っていた。直哉は、中学一年生となった時に智子と再会し、勉強するようになったものの、心は寂しさを内に閉じ込めたまま成長した。そんな時に直哉は智子と一時的ながらも再び触れ合う時をもった。だが、智子は高校進学とともに葛飾を去っていった。
それから数年を経て、直哉が弥生大学に合格を決めた頃、直哉はみたび智子と再会した。しかも、智子は、父泰然は2度目の再婚相手、18歳の短大入学を果たしたばかりの若妻という家族としてだった。直哉にふたたび与えられた継母は、直哉から見て2歳年上にすぎない若い女性だった。それゆえ、直哉は彼女を『母親である』と意識的に思い込むように、また、論理で「母さん」という呼び方をすることで自分を強いた。
年齢の近い年上の智子......それでも彼は、彼女に向きがちだった彼の意識を、「父母を重んぜよ」という戒めに基づく論理で、強くまた心奥深くに封印することに成功した。またそのような覚悟が直哉には必要だった。なぜなら、父泰然が智子を娶ったのは、彼女を救い出すためでもあったから。
智子は、ある政治家が浅草橋にある置屋の芸者であった珠子に産ませた娘だった。芸者であった母珠子が死んで孤児となった智子は、置屋で虐げられて生きていたところを泰然に救われ、短大を卒業するまでの4年間援助されていたのだった。そして、泰然は行く当てのない智子を自らの手許におく意味で、後妻に迎えたのだった。
その後、泰然が亡くなって、直哉は大学卒業と同時に議員となった後も、直哉は智子を「母さん」と呼び続けた。他方、智子は泰然の逝去とともに義理の息子を「直哉君」と呼んでいたのを、「直哉さん」と呼び方を変えた。直哉はそれに気づいていたが、同じ別宅で過ごしていることを意識して、以前と同様に「母さん」と呼ぶことにこだわった。その後も、同じ屋根の下にいながら、二人の思いはすれ違っていた。
海によって孤立した島となった別宅。二人だけとなった世界で、直哉も智子も、目の前にいる年の近い異性として互いを意識せざるを得なかった。特に直哉は、智子を母親と呼ぶこと、また母親と扱うことについて、彼女から反発されるようになった。その後、彼女から「智子さん」と呼ばされることで、智子を継母ではなく一人の女性として位置づけざるを得なくなった。
これは、彼にとって困惑の種となった。それでも、直哉は、智子を母として重んじつつ、また父泰然の遺志通り、智子を守りつつ生きることを新たな使命であると、自らに強制した。それが、現在の彼を現在の彼たらしめるレゾンデートルだった。
こんな直哉に対して、たびたび智子は訴えるようになった。
「お父様は、私の母が捨てられたから、私の母も、私も、名目の妻として迎えてくれただけよ。子供にはもうあなたがいたから、私を子供とすることは避けたのよ......そして今、私は妻でもなくなったのよ、あなたの母でもないわ。今ここにいるのは、あなたの目の前にいる女の智子よ……貴方、このまま私を抱かないつもり? 実は私は貴方の守護のために存在していたのよ……私は今まであなたを様々な危機から救うために、秘密裏に行動してきたけど、今回ばかりは守りきれない…『産めよ、増えよ、地に満てよ』という啓典の主の命令を御存じのはずでしょ......このままだと貴方は天の父にとって忌むべき敵、魔法使いになってしまう…私の言う言葉は警告よ……貴方はもうこれ以上女を拒むと、そのたびに魔法使いになって行くのよ.…それも魔法使いの級をあげて行ってしまうのよ。ところが貴方はいままで女を一切近づけてこなかった…だから、私は女して生まれて貴方に近づき、貴方を振り向かせようとしていたのに…それも失敗しそう…貴方はそのうち本当の魔王にになってしまうわ」
「この頃の娘は僕を気絶させる…だから、僕は今、貴女を前にして気絶寸前なのだろうね…だから、気絶しないように、剣を鍬のように上下に剣を振るう鍛錬をする.…こうすることで、全てにひたすら耐えてきたし、これからも耐え続けるんだ」
「ねえ、私の話を理解した? 私の言葉はそれなりに実現してしまうのよ」
智子はたしかに啓典の民の一人として、直哉の近くに置かれた存在であった。ゆえに、何かの使命を秘めているのかは不明だったが、単なる女であることを直哉に意識させることで、彼が孤独でないことを知らしめ、彼が最愛の女を対象とした愛に生きることに目覚めさせようとしていた。それは、地上に生を与えられた智子の使命であった。その使命を実現すれば、直哉は最愛の女と愛を実現するはずだった。それが、残りの民である直哉の進むべき道だった。
そんなことにはお構いなく、別宅では、核戦争が引き起こした寒冷化が始まっていた。海面は次第に下がっていき、沈んだはずの周囲の廃墟が顔をのぞかせるようになった。
寒さは増し、十分な暖房も断熱性のない別宅で、二人はどうしても体を寄せ合う生活を送るようになった。特に、彼らは互いに不本意ながら、また互いに意識しながらも、文字通り体を寄せ合って食事をし、眠った。幸いなことに、直哉は元々非常な奥手であったし、智子も泰然の妻であったとはいっても一切夜の経験のない女だった。彼ら二人は一切互いの身体に手を出すことに非常なためらいを持ちつつ、智子が昔歌った讃美歌を歌いつつ、直哉を背中から守り抱くようにして、夜の眠りにつくのだった。それも、啓典の父が導いた深く永い眠りだった。
「今この時
わたしたちの神よ
偉大にして力強く畏るべき神よ
忠実に契約を守られる神よ
国々が争い始めた時代から今日に至るまで
わたしたちが被った苦難のすべてを
王も高官も祭司も預言者も私たちの先祖も
あなたの民の皆が被ったその苦難のすべてを
取るに足らないことと見做さないでください
このすべては起こるべくして起こったのです
あなたは正しく行動されました
あなたは忠実に行動されました
しかし、私たちはあなたに背いてしまいました
王も高官も、祭司もわたしたちの先祖も
あなたの律法に従わず
度重なる命令にも戒めにも耳を貸しませんでした
あなたがお与えになった国と豊かな恵みの中にありながら
あなたがお与えになった広く肥沃な土地にありながら
彼らはあなたに仕えようとはせず
不正と悪行を改めようとはしませんでした
ご覧ください、今日わたしたちは奴隷にされています
先祖に与えられたこの土地
その実りと恵みを楽しむように与えられたこの土地にあって
ご覧ください わたしたちは奴隷にされています
この土地の豊かな産物も
あなたが私たちの罪のためにお立てになった
諸王の王のものとなり
わたしたち自身も、家畜も、
この支配者たちの意のままに
あしらわれているのです。
わたしたちは大いなる苦境の中にあるのです」
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「こ、ここは?」
直哉は、自分が今、夢の中にいることを認識していた。しかし、自らが不思議な環境に招かれたことに驚いていた。啓典の主は、直哉の様子を見て声を掛けられた。その声は、まるで大きな空間で響く智子の声だった。
「直哉よ、直哉よ」
「はい」
直哉が答えると、智子の声が響いた。
「この空間は、私の園......聖なる天の園である」
直哉は驚いた。智子の声は、疑似声音なのだろうか、重々しい言葉を伝えた。
「私は、貴方が連なった代々の啓典の民たちの主である......啓典の民たちの主、啓典の主である」
直哉は驚いて自らを振り返った。だが、彼自身はこの世界で単なる小さな虫けらにすぎないことを認識し、顔を隠し、縮こまってしまった。
「直哉よ、貴方は懸命に生きただろうか? 確かに政治家としての貴方は平和をもたらそうと努力した......それがもたらした結果は虚しいものだった....しかしあなたのその姿勢は、無駄な虚しいものではなかった。それゆえ、貴方はもう一度幼年期からの自らの時をやり直すのだ……いたずらに浪費するのではなく、一つのことに集中してみなさい。特に『剣を打ち直して鍬とする』という御言葉を思い出しなさい。こうして、私は貴方を私の証人して人々の間に、特に啓典の民として私が選んだ人々の間に遣わす」
「私は何者でしょう......僕がなぜ人々の前に、啓典の民の前に、そんな大それた証人とし立たなければならないのですか」
「私は必ずあなたと共にいる。このことこそ私があなたを遣わすしるしだ」
「でも、啓典の民の方たちに、誰から遣わされたのか、とあなたのお名前を問われてしまいます」
「私は、『在って在る者』だ...それを示すのだ......そして、貴方はもう一度幼年期からの自らの時を、いたずらに浪費するのではなく、一つのことに集中してみなさい。特に『剣を打ち直して鍬とする』という御言葉を思い出しなさい。こうして、私は貴方を私の証人して遣わす」
この言葉で、直哉は身を縮めてしまった。
「でも、みんな私を信じず、私の言うことを聞かないでしょう」
「貴方がいつも手にする物は何か」
「え、あ、それはこの鍬として利用した木です」
「それはいまから貴方はシェイベッドとなづけなさい。いま、それを、上段から振り下ろしなさい」
智子の声の指示の通りにすると、木刀は一度に幾万もの力を示した。
直哉がその光景に呆気に取られていると、智子の声はおもむろに指摘した。
「貴方は、三十歳になってまで、しかも目の前に私の遣わした女を連れ合い候補として認めても、その女に追い詰められた際に一切その女体に手を触れようとしなかった......本来ならば、結婚して、連れ合いである智子を知るべきだった。それなのに……それゆえ貴方は、内なる衝動を抑え込んできた反動のゆえに、これからもう一度与えられる人生において、幼い時から聖なる神術つまり聖なる魔法を使いこなす魔法使いとなるのだ。あなたは、これらの力を、その木刀とともに様々に力を発揮するであろう」
それでもなお、直哉は言った。
「ああ、私は そんなたいそうな人間ではありません...魔法使いにさえされてしまうのですか......貴方の声を聞いた今も、そうです.....そんな、証人として働くことなど、僕には無理です」
「そのように個々の人間を創り上げるのは、私である...私の恵みは貴方に今までもこれからも十分なはずだ......それに、誰が、その知恵を与え、口を与え、手に力を与えるのか......私ではないか!」
それでもなお、直哉は縮こまって言った。
「あの…どうか、誰かほかの人を見つけてお遣わし下さい」
これを聞いた智子の声は、怒りを帯びたものとなった。それがまた直哉を縮こまらせた。
「わかった、そこまで言うなら、もう一度連れ合いを与えよう……手を出そうとしても出せない連れ合いを…あなたにとっては血のつながらない義理の姉、そして今は義理の母だ...これによってあなたは幼い時から様々に経験と勇気を与えられ、様々に活躍できる機会を得るだろう……ただし貴方は彼女を前にして……男女の間の過ち、罪を犯すことにならぬよう、耐え続けなければならない…その後、貴方は彼女を最後には受け入れるように強いられる時が来る……手は出せずそのまま辛い苦しい別離を経験するだろう」
ここで、直哉は目覚めた…ただ、彼は自らが小さくなり、いつもとは違う違和感を感じた。そして、横には智子はいなかった。
彼は、落ち着け、落ち着けと自分に言い聞かせながら、自分をじっくりと振り返ることにした。