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しあわせのつくりかた。

作者: 人形使い

「あなたは砂漠にいます」

「砂漠?」

「そう、砂漠です」

「それで?」

「砂漠の真ん中、辺りには誰もいない」

「誰も? 俺一人?」

「そう、あなたしかいません。続けても?」

「ああ」

「砂漠の中であなたは、一匹の亀を見つけます」

「亀……あの甲羅のある?」

「そう、それです」

「続けてくれ」

「その亀は裏返しになっています。起き上がれない」

「ふむ」

「だがあなたはその亀を助けない……心拍数が上昇していますね」

「……」

「次の質問をします。母親について」

「母親? 俺のか」

「ええ、あなたのです。自分の母親について、思い浮かぶ言葉で説明して下さい」






 人工身体装着者に義務付けられている定期心理検査。一ヶ月のうち最も憂鬱な時間を終えて廊下に出たヘイウッドは、通い慣れた窓口に向かう。受付にはいつもの没個性的な制服の職員。

 カウンターにIDカードを放る。職員は無感情な動作でそれを受け取り、ヘイウッドの市民IDを確認。同じく無感情な声で「データを」。

 ヘイウッドは着古したコートのポケットを探り、支給品の個人用端末をデスクの上に置く。

 端末を読み込む職員。モニターに捕殺対象となっていた2体のアンドロイドのデータ。 処理・2体(ツーキル)

「確認終わりました。捕殺対象No,148687、ネクサス6型及びNo,145968、ネクサス7型の処理を確認。賞金(ポイント)をIDカードに入力します」

 IDカードを受け取る。貨幣経済はもはや研究者のデータベースの中にしか存在しない。金銭はいまや実体を失い、チップを埋め込まれたプラスチックのカードに入力された数値データとなっている。

 これで当面の生活費には困らない。そろそろ 闇市(マーケット)が開く頃だ。

 安価な軍の流出品が残っているうちに必要なものを買い込んでおかなければならない。

 建物の入り口のあたりで、フランクが声をかけてきた。同業者の一人だ。

「ヘイ、検査は終わりかい?」

「ああ、まあな。肩がこって仕方がない。お前は?」

「昨日済ませた。1時間も訳の分からん質問漬けでうんざりだぜ。精神の平衡を保つためとか言ってるが、これじゃあ検査のせいで参っちまう」

 自身の装着している義手や義足といった人工身体や人工臓器を自分の体の一部と感じられず強烈な違和感を覚えるようになるという、言わば幻肢痛とは逆方向の症状を呈する者が増加してから、人工身体装着者の定期心理検査は政府によって義務付けられている。

「そう言うな。これも仕事のうちさ」

「偉いねェ。でもあんた、全身丸々生身なんだろう? 検査を受ける必要はないんじゃないのか?」

「服務規程で決まってるのさ。人工身体保持者じゃなくても、この商売はメンタル面でのストレスが大きい。定期的な検査は必要なんだとさ」

「大変だね……」

 ヘイウッドはフランクの話を半ば聞き流しながら、無炎シガレットを求めて懐を探る。あったが、中味は空。舌打ちを一つ、薄いプラスチックのケースを握りつぶす。

「ほれ」

「ん? ああ、悪いな」

 フランクが自分のジャケットのポケットを探る。シガレットを一本差し出したその右手は、肘のあたりからうっすらと皮膚の色が違う。人工義肢。

 シガレットを握りつぶすこともなく、取り落とすこともない。その右手はフランクの意のままに動く、彼の右手だ。

 その右手が通常人の2倍の筋力と、アモルファス合金製のナイフを備えていることをヘイウッドは知っている。

 シガレットを受け取るヘイウッドの右手は生身。右手だけではない。ヘイウッドの肉体は全て生身だ。人工義肢や埋設機(インプラント)の類は一切なし。

 シガレットの先端を折り、咥える。吸い慣れたシガレットの煙が胸を満たす。市販品は化学合成された代替品だ。ヘイウッドは本物の煙草の味を知らない。

 紫煙を吐き出しつつ、ガラス越しに1日24時間変わらない色の空を見上げる。

 林立するビルの先端に設置された廃ガス排出装置が、旧世紀の建造物の尖塔のよう。そこからとめどなく漏れ出る廃ガスが静電気で引火し、間欠泉のように火を吹き上げる。

 無数の燭台(トーチ)が照らし出すのは、鉛色に濁った神無き空。

 同じように自分の分のシガレットを咥えたフランクが、その空と同じ色の紫煙を吐き出しながら低く笑った。

「同業者の中じゃ有名人だぜ、あんた。なにせこの家業をやってるヤツは、腕なり足なりどこかやられてるもんさ。好き好んで改造義肢や強化臓器をつけてるヤツも珍しかないしな。全身生身のヤツなんざそういない。凄腕の証明だ」

 しばらくフランクと談笑し、外へ出る。

 何となく後ろを振り返り、たっだ今出てきたばかりの建物の毒々しく輝くネオンサインを見上げた。

 『ディスカバリー・ハンターオフィス』。

 現代の狩人達の居城。それがここだった。

 工場制機械工業の導入、鉄道・蒸気機関の発展に代表される急激な技術革新に次ぐ、ナノ・テクノロジーの実用化による第三の産業革命が人類社会にもたらしたのは、医療技術の飛躍的発展……特に、精巧かつ本来の身体と同様に稼動する人工義肢、人工臓器の実現だった。

 従来のあくまで補助的なものから、駆動系の大幅なダウンサイジングによる筋肉・骨格の再現、切除部分の神経系と義肢側の駆動システムとの連結、拒絶反応と誤動作を極限にまで抑えたバイオ素材の開発により、生身のそれとほぼ同様に、あるいはそれ以上に作動する義肢・臓器の誕生は、多くの身体障害者の社会復帰を現実のものとしてきた。

 生身の体と同様に機能する人工義肢・臓器の実現――その技術が、人間一人分の人工身体を造り上げるに至るのに、そう時間はかからなかった。

 そして、現在。

 かつて人類が従事してきた様々な場所に、それらは人類と置き換わるようにして存在している。

 副次的人類――アンドロイド。

 人工身体にニューロチップの脳を載せた彼ら/彼女らは、国家機能を寸断させ大気中に大量のBC兵器を撒き散らした第三次世界大戦中においては戦力として、戦後初期においては危険区域での作業や救助活動、そして現在においては工場や接客業、福祉活動といった場面で人間社会に溶け込み、大戦後の慢性的な労働力の不足を短期間のうちに補填、現代社会になくてはならない存在となった。『ディスカバリー・ハンターオフィス』の受付職員もまた、多くの者がアンドロイドだ。

 もはやアンドロイドの存在を厭う者は、極度の自然主義団体(ナチュラリスト)霊魂崇拝者(スピリチュアリスト)たちくらいのものだ。

 人を救うのは、いるかどうかも分からない神ではなく、今確実に存在する科学技術の方なのだから。

 ブティックの店頭で完璧な笑顔を振り撒いている者、娼館の薄暗い店内へ客を迎え入れる者、通りの人ごみを器用に避けながら散乱したゴミを収集している者――アンドロイド達は人類に次ぐ第2の労働力として人類社会を支えている。

 だが、新しい何かを得れば、望まない何かもまた影のようについてくる。

 アンドロイドの普及とともに、違法改造を受けたものや正規の手続きを経ず不法に投棄されるものが現れ、それらはしばしばニューロチップに異常をきたして暴走し、無目的な逃走と殺人を繰り返した。そういったケースがあらゆる土地にはびこり、世界規模の社会問題となったことは必然と言っていいだろう。

 その時にはすでにかつての家電製品並にアンドロイドは社会生活に浸透していた。アンドロイド抜きではもはや社会生活は成立しない。

 そこで人類はこの問題に対し、従来とは全く異なった方向からのアプローチを編み出した。

 暴走・違法アンドロイド処理の専門職化である。

 捕殺対象に賞金をかけるという旧世紀の賞金稼ぎのやり方がこの現代に蘇ろうとは、誰も予想しなかったに違いない。

 政府から委託を受けたオフィスに登録し、賞金首となったアンドロイドを狩る賞金稼ぎたちは世界中に発生し、いまやアンドロイド狩りは一大産業となっている。

 ヘイウッドもまたその一人だった。

 オフィスを出たヘイウッドを、人間とそうでない者の入り混じった濁流が迎える。

 闇市(マーケット)の開くこの時間帯には、自然の河川などとうの昔に枯れ果てたこの世界で最大の大河が現れる。

 この人だかりを掴み上げてミキサーに放り込んだなら、大量のミンチとそれと同じだけの量の鉄屑ができることだろう。それほどまでにアンドロイドや人工身体・臓器保持者は珍しいものではなくなっている。

 それを掻き分け、ヘイウッドは食料品を買い、行き付けの酒場にたどり着いた。

 いつもの安酒をオーダーし、報酬にありついたささやかな祝杯をあげる。

 旧世紀の酒場を模したというこの酒場「ストルムグレン」のカウンターには、ウイスキーやブランデーのボトルがずらりと並んでいる。どれも空。ただのインテリアだ。

 煙草にしても酒にしても、本物のそれを口にする機会など彼等C級市民にはない。そういったものは都市中心部に住む上流階級(ハイクラス)たちだけのものだ。

 だがヘイウッドは、そして多くのC級市民たちは、そのことに対して不満は持っていない。

 なぜなら、彼等にとっては無炎シガレットや合成酒こそが本物で、それで問題はないからだ。

 三度目の世界大戦、食糧危機、人口問題――。

 人類はそれらを経て、数々の取り返しのつかないものを失ってきた。

 それは例えば汚染されていない正常な土壌。

 それは例えば豊かな緑。

 それは例えば街を照らす太陽の光。

 しかし人類が発展させ続けてきた科学技術は、一度失えば取り返しのつかないものだったはずのそれらの代替物を創り上げるに至った。

 汚染された外界と隔絶されたドーム・プリズン型都市内では、人工培養とクローニングによる食糧生産が行われ、都市内の大気は管理システムにより完全にコントロールされ、市民には医療施設での定期的な陽光浴が実施されている。

 この街に住む彼等にとっては、何百エーカーもの広大なトウモロコシ畑や、風にそよぐ草木や、眩しいほどに輝く太陽は、レトロ・ムーヴィの一場面以上のものではない。

 そういう「昔」を懐かしむことのできる世代も、もう数えるほどしか生き残ってはいないだろう。

 ヘイウッドはそういう、代替品だらけの世界に自分が住んでいることに不満はない。

 しかし、こうして一人でいるときにふと、取り返しのつかないものを失ってなお、代替物で取り繕えてしまうこの世界に対し輪郭の明瞭でない寂鬱感を覚えることがあった。

 人工身体や臓器についてもそうだ。

 かつては失ったらもう二度と元に戻らなかった手や足、換えの利かなかったはずの臓器は、いまや元のそれと比較しても遜色なく動く人工のもので容易く補える。それどころか、自分から手足を人工義肢に換える者すらいる。

 そのことにヘイウッドは、言いようのない不快感を感じるのだった。

 「ストルムグレン」を出たヘイウッドは、露店で一束の造花を買い、足早に通りを行く。

 こういう気分になったときでも彼女の顔を見れば気分は治るし、もう半月も会っていないからいい機会だ。

 チューブトレインに乗り込み、C-17ブロック一般住宅街駅で降りる。

 顔見知りの住人達に挨拶をし、エレベータに乗り、4階で降り、401号室のドアを開ける。

「エレナ、来たよ」

 そう声をかけると、ベッドの上で身を起こし窓の外をじっと見ていた女性が、滲むように微笑んだ。

 しかし、ヘイウッドの方は向いていない。盲目なのだ。

 汚染された環境がもたらした、先天性の身体衰弱。エレナは特に視神経が衰弱しており、今では視力はほとんどない。

 ヘイウッドがベッドのそばに立ってから、はじめてエレナはそちらの方を向く。

 いつもに比べて体調はいいようだ。

「ヘイウッド、久しぶりね。会いに来てくれて嬉しいわ」

 柔らかく微笑むその表情は、実際の年齢よりも幾分幼く見える。

「ここのところ顔を見せられなかったからね。これはお土産」

 ヘイウッドの差し出した花束に両手を伸ばし、受け取るエレナ。胸に抱き、香りを吸い込む。

「素敵!」

 はじけるようなエレナの笑顔に、ヘイウッドは胸中に残っていた重たいもやが霧散していくのを感じた。

 エレナは、彼女の笑顔は、大抵のものが代替品に取って代わったこの世界で、数少ない、絶対に替えの効かない大切なものだった。

 それがあれば、それがあるからこそ、自分はこの世界で生きていける。ヘイウッドはそう思う。

「でも、いいの? 香りつきのものは高いんでしょう?」

「仕事の報酬が入ったんだ。このくらい奮発してもバチは当たらないさ」

 何気なく口にした「仕事」という単語に、エレナの表情がさっと曇る。ヘイウッドは胸中で、しまったな、と嘆息した。

「ねえヘイウッド……怪我はないの? お願いヘイウッド。私に触れて。あなたの手で、私に触れて」

 ヘイウッドは口を開かないまま、両手でそっとエレナの頬に触れる。その手にエレナの、やや青ざめた小さな手が重ねられた。

「あなたがとても強い人で、あんな危険な仕事をしていても大丈夫だっていうことは頭では分かっているの。でも、やっぱり不安なのよ……。あなたのこの大きくて暖かい手が、今度ここに来る時は冷たくて固い機械の手になっているんじゃないかって、とても、とても不安なの。目の見えない私には、この手の感触があなたの全てなのよ……」

「大丈夫だ、大丈夫だよエレナ。俺はしくじったりしない。頼りになる仲間だっている。大丈夫だよ……」

 片手でエレナの、柔らかなウェーブのかかった髪を撫でる。

「なあ、エレナ……」

 なるべくなんでもない風な口調になるよう意識しながら、ヘイウッドは言葉を続ける。

「俺もこの仕事は長いことやってるし、君も知ってる通り危険なだけの儲けはある。だから……」

「……ごめんなさい、ヘイウッド」

 ヘイウッドの言葉をさえぎって、エレナは言う。

「あなたには本当に感謝してるわ。私がこういう身体でも不自由な思いをせずにすんでいるのはあなたのおかげ。でも……」

「人工身体の利用者なんて今の世の中にはいくらでもいるだろう? そりゃあ、始めの頃にはいくらかの差別意識もあるにはあったが、今じゃあ奇異の目で見られるなんてことはない。確かに人工臓器の移植手術は高額だが……」

「違うの、ヘイウッド。そういうことじゃないのよ……」

 眉根を寄せて、エレナは申し訳なさそうに言う。

「あなたの言うことはもっともだわ。あなたの言うとおり、人工身体や臓器はもう珍しいものじゃなくなってる。でも……」

 言いよどむエレナ。彼女のうつむいた顔を見ていると、ヘイウッドは申し訳ない気持ちになってしまう。

「すまない、エレナ。君を困らせるつもりはなかった。それに、これは君の問題だからな……」

 暗くなってしまった空気を晴らそうと、ヘイウッドは努めて明るい声で話しかける。

「なあ、エレナ。体が良くなったら、上層区に行かないか。少々値が張るが、合成タンパクじゃなく本物の料理を出してくれる店があるらしい」

 エレナもヘイウッドの意図を察して、俯かせていた顔を上げて明るく笑ってみせる。

「まあ、本当に? わたし本物の料理なんて見たこともないわ。ずうっと昔は、人間は狩りをして食物を手に入れてたそうだけど、じゃあ昔はご馳走がそのあたりを走ってたのかしらね?」

 ようやく明るくなった雰囲気の中で、二人はしばらくの間たわいない会話に花を咲かせていた。

 そうして決して長くはない面会時間はあっという間に過ぎた。ヘイウッドにとっては貴重なエレナとの時間だったが、エレナには長時間の会話すらも負担になってしまう。ヘイウッドはいつものように別れ際にエレナにお別れのキスをし、住宅街を出た。

 次にヘイウッドはチューブトレインに乗り、D-18ブロックで降りる。医療関係の施設が集まっている区画だ。

 通いなれたビルに入り、廊下に沿って2番目の部屋、「Dr,カレルレン」のプレートのかかったドアをノックする。

「先生、ヘイウッドです」

 入りなさい、という上品な男性の声が返事を返し、ヘイウッドはドアを開ける。

 ドアの中は小奇麗に整頓された部屋。カレルレン医師は正面の机についていた。

 近隣の住宅街で往診やボランティアでの訪問介護を行っている。エレナのところにもよく世話をしに来てくれるので、ヘイウッドとも顔見知りだ。

「久しぶりだねヘイウッド君。彼女に会って来たのかな?」

「ええ、ここ最近、顔を見せてやれませんでしたから」

「そうか……喜んでいたろう、彼女は。まあ座りたまえ。コーヒーでいいかね?」

 目を細めて微笑みながら、カレルレン医師は机上のコーヒーメーカーを用意する。市販品のインスタントだが、香りは悪くない。

 椅子を勧められたヘイウッドは、テーブルに置かれたコーヒーを一口すすり、話を切り出した。

「エレナの病状は……どうです」

「芳しいとは言えんよ。致命的なレベルにはないが、臓器の機能は全体的に低下している。可能ならばすぐにでも人工臓器の移植を行うことが望ましいのだが……」

「……エレナは、まだ、考えを変えてくれそうにありません」

 カレルレン医師は、ふう、と息をつく。

「ふむ……。確かに人工臓器の移植は、義手や義足に比べて高額だし、手術の成功条件も厳しく、術後の負担も大きい……。だが、彼女が移植を拒んでいる理由はそこではない、と私は思っているのだ」

「じゃあ、なぜ?」

「……これは私の推測だ。私はカウンセラーではないからな」

 そう前置きをして、カレルレン医師は話を切り出した。

「彼女は、人工身体の装着を、さらに言うなら人工身体そのものを良く思っていないのだろう。無論彼女は自然主義者や霊魂崇拝者ではない。なんというか……感覚的なものなのだと思う。上手く言い表せないがね」

 そう言ってカレルレン医師は苦笑を浮かべたが、ヘイウッドには彼の言わんとするところがなんとはなしに理解できるような気がした。

 それは結局、ヘイウッドが先ほど思った、生身の肉体を保ちたいという思いと同じものなのだ。盲目……正常に機能していないとはいえ、それは自分の体の一部だ。自ら望んで生身の肉体を捨て、人工義肢に取り換える者がいる一方で、自分の、たった一つしかない肉体を、故障した家電製品のように簡単に取り換えることに違和感を感じるというのは理解できる。

 だが同時にヘイウッドには、エレナが視力を取り戻して自分の姿を見てくれることを望む強い気持ちもあった。

 それこそ、どんな手段を用いても……。

 黙りこんでしまったヘイウッドに、カレルレン医師は申し訳なさそうに言う。

「すまない、ヘイウッド君。なんだかよく分からないことを言ってしまったな」

「いや……なんとなく、分かる気がします」

 カレルレン医師は、そうかね、とだけ言い、コーヒーを一口すする。

「君の前で言うことでもない気がするが……わたしはこんな風に思うのだよ。確かに現在の科学技術や医療技術の進歩は、かつては不治の病と言われていたような難病や、失ったら二度とは元には戻らなかった手や足の欠損を克服してきた。それでもなお、全ての病魔や事故がこの世界から取り除かれたわけではないし、新たに出てきた問題もある。万能というにはまだ不十分だ。……だがね、私はそれでもいい、いやむしろ、そうでなくてはならないと思うことがあるのだ」

「……」

「医者という立場にあるものがこんなことを言うのは矛盾しているのだろうが、もしあらゆる病が容易く治るようになってしまったのなら、その世界はやはり何か間違っている……そう感じるのだ。だから私は、エレナ君が人工眼球の移植を拒むのなら、それはそれで正しい選択だと思う」

 ポーン、と唐突に軽快な電子音。壁掛け式のビデオフォンからのコール。

「ああ、すまないな。呼び出しが来たようだ」

「いえ、こちらこそ長居をしてしまって……」

 丁寧に挨拶をし、ヘイウッドはカレルレン医師の部屋を出る。荒事を生業としている彼にとって、真面目なカレルレン医師とのやり取りは多少の気疲れは感じるものの、安心する時間でもあった。

 帰途に就いた時には、時刻はすでに午後8時を回っていた。

 自宅へ帰るチューブトレインの中で、ヘイウッドは今日の出来事を反芻していた。

 移植手術を拒否しているエレナ。しかし同時に存在する、エレナに自分の目でこの姿を見て欲しいという願望。

 不治の病というのならまだしも、現在の技術水準から言えばそれは十分に可能なのだ。手を伸ばせば掴み取れる距離にある。

 しかし、同時にヘイウッドには、自分の体がもとのそれと同じように働くとはいえ別のものに置き換わることに対する嫌悪感、違和感も理解できた。

 エレナが口にしたことを思い出しながら、両手に目を向ける。生身の両手。

 この両手がもし機械のそれになってしまったなら、この手はエレナにとってヘイウッドのものではなくなるだろう。否、目の見えない彼女にとっては、この生身の両手を失ったヘイウッドは、ヘイウッドでなくなるのだ。

 加えてこの両手が生身のそれでなくなることは、ヘイウッドもまたエレナに生身の身体で触れることが出来なくなることを意味する。

 ヘイウッドがそのことに対して感じる忌避感は、恐らくはエレナが自身に人工眼球を移植されることに対して抱くそれと同じなのだ。

 相反する思考が、全身に絡みつくようだ。

 チューブトレインからのろのろと降り、ヘイウッドは自室へ戻る。

 セキュリティ機能の大いに怪しいカードロックを解除し、明かりもつけずに雑然とした室内に埋もれるように置いてあるベッドに身を投げる。

 考え事をしすぎたせいだろうか、全身が鉛のように重かった。

 夕食がまだだったが、食べる気分ではなかった。買い込んで来た食糧はベッド脇に置きっぱなしにしている。

 浅い眠りと半覚醒との間を行き来しながら、ヘイウッドはぼんやりと自分の手を汚れた天井に伸ばした。

 自分の手。そして、エレナの目。

 どちらも、失ったら取り返しのつかない、大切なもの。

 だが、今はもうこの世界にはない正常な太陽や大地も、かつてはそうではなかったか。

 それが何を意味するのか分からないまま、ヘイウッドは眠りに落ちた。






「……大物、ですか」

 翌日ハンターオフィスに行くなり、ヘイウッドはオフィスの責任者、ボーマンに呼びつけられた。

 彼ほどの腕利きになると、ハンターオフィス側から直接名指しで依頼が来ることがある。その示すところは、「素人お断り、上級者推奨」。

 ボーマンはデスクの操作卓(コンソール)を操作し、壁面の埋め込み式のモニターに情報を表示する。

 種別、ネクサス6-A型。女性型。外見年齢10代後半から20代前半。最終発見記録、A-3ブロック住宅街。

 モニターに現れたアンドロイドの容姿は若い。少女と言って十分通用する外見のその薄皮一枚向こう側には、通常人を数倍する膂力が秘められている。子供や女の姿をしていようが、それはアンドロイドを見分ける手段にしか過ぎない。

 無意識にデータを流し読みつつ、ヘイウッドはボーマンに問う。

「で、何人です」

「4人だ」

 ターゲットが殺害した人数。

 彼らハンターが処理したアンドロイドの数で評価されるように、アンドロイドもまた殺した人間の数で評価される。

 まさか、と一瞬思った自分を、ヘイウッドは制した。

 外見が若かろうと女だろうと、アンドロイドは人間ではない。

 コマンドでその行動を拘束されているとはいえ、その薄皮一枚下は人間のそれをはるかに超える身体能力を秘めた機械の塊なのだ。

「賞金は?」

 ヘイウッドの問いに、ボーマンは無言でデータを表示。ヘイウッドは胸中で、表示された金額と自分の命を秤にかける。

 その秤の針が壊れているのは承知の上で、彼は依頼を承諾した。

 ボーマンは「そうか」とだけ言い、詳細データの入ったチップをヘイウッドに投げてよこす。

 ボーマンの部屋を出たヘイウッドは、銃器管理室へ向かう。先日そろそろ調整を依頼しておいた銃が仕上がる頃だ。

「4つだ4つ! いいからよこせよ!」

「ミスタ・フランク、分かって下さいよ、2つで十分ですって! 4つもグレネード弾持っていくことないでしょう……」

「ヘイ、フランク。あまり新入りを困らせるもんじゃないぜ」

 地下にある銃器管理室への階段の途中で、この間配属されたばかりの新人管理官とフランクがなにやら言い合っているのが聞こえ、ヘイウッドは声をかけた。

「ああ、ミスタ・ヘイウッド。預かってた銃、出来上がってますよ」

「おいこら新入り、俺は無視かよ」

「ですから……ああもう、あなたからも何か言ってあげて下さいよ」

「何もめてるんだ?」

 そう問うヘイウッドに、フランクは憮然として答える。

「融通利かねえんだよコイツ。グレネード弾2つも4つも一緒だろ?」

「あなたこの間もそう言って建物壊しすぎて始末書書いたでしょう」

「はは、フランク。張り切るのはいいが、やりすぎると賞金がパアだぞ」

 基本的にハンターの武装は規制されていないが、ほとんどの者は銃器類を使っている。

 ハンター達は目標を仕留めた証拠をオフィスに持ち帰って、初めて賞金が得られる。初期は仕留めたアンドロイドの体の一部を仕留めた証拠として使っていたが、廃棄アンドロイドの一部を持ち込み不当に賞金を得ようとした者が続出したためこの方法は廃止され、代わって登録したハンター全員に専用の端末を貸与し、仕留めたアンドロイドの機体の各所にあるポートから機体データを読み込み、それをもって目標捕殺の証明とする手法が現在では採用されている。

 従って、データの取得が不可能になるほど目標を損壊させた場合には捕殺証明ができず、賞金も支払われない。

 そのため、ハンター側の武装も必然的に限定される。破壊するだけなら爆薬でも携行ロケット弾でも使えばいいが、粉々になっては意味がない。

 必然的にハンター達は、中口径の銃器類もしくは格闘戦用の大型ナイフなどを主な武器とすることとなった。ハンターの中に特に自ら進んで生身の身体を人工義肢に取り換える者が多いのはこのためだ。

「ふん……まあいい。2つで勘弁しといてやる」

 賞金という言葉に動かされたのか、フランクは少し考えた後、結局グレネード弾を2つ受け取って階上へ戻って行った。

 ふう、とため息をつく新人管理官に苦笑しながら、ヘイウッドは愛用の銃を受け取る。

 旧式の、博物館にでも並んでいそうな輪胴式ハンドガン。

 装弾数、装填時間ともに現行の銃器類にはるかに劣るはずのそれを使いこなし、ヘイウッドは今まで戦い抜いてきた。

 調整の済んだ銃と弾薬を受け取り、ヘイウッドはオフィスを出る。

 大通りを抜け、通いなれた酒場「ストルムグレン」へ。

 目当ては安っぽい合成酒ではない。店内のいちばん奥、汚れた小さなテーブルに歩み寄る。

 座っているのは、ほこりっぽい上着の小男。立てた襟から鈍く銀色に光る外部記憶装置(エクステンション)が覗く。

 ヘイウッドがいつも使っている情報屋だ。

「よう、あんたか」

情報(ゴー・トゥー)が欲しい」

「イキのいいのが揃ってるぜ。今度の獲物はどんなヤツだ?」

 ヘイウッドはテーブルに、自分の端末と合成酒の注がれたグラスを置く。

 情報屋は端末より先にグラスに手を伸ばし、呷る。それから首筋から延びたケーブルを端末に差込み、データをロード。

 ふっと情報屋の両目が唐突に焦点を失う。百万キロ先を見ている目つき。

 ヂ……と首筋の装置がかすかな音を立てる。

 十数秒後、また唐突に両目が元に戻った。

「……ヤバいのが相手だな、今回は。4人だって?」

「ああ。まあ、食うためさ、えり好みしてる余裕はない。……で?」

「最新の情報だと、お相手はB-4ブロックで4人目を殺してる。その前はC-3ブロック。殺しながら無目的に移動してるようだな」

「他のハンターは?」

「3人派遣されてるがまだ仕留めてはいないな。急いだほうが良いぜ」

「ああ、分かってる。代金は……」

「さっきもらったよ。安心しな。余計にもらっちゃいないさ」

「信用してるぜ……」

 言い残し、ヘイウッドは酒場を出る。

 次に向かったのは、ターゲットであるアンドロイドの開発元。

 暴走アンドロイドは違法な改造を施されているケースがほとんどで、開発段階で何か仕込まれているということはありえないが、通例としてハンター達は開発元の工場や施設へと出向くことになっている。

 待合室で待たされること数十分、ようやく姿を現したのは、開発主任のプレートをつけた中肉中背の男だった。

 こういうときには大抵クレーム処理係が適当に話をごまかしに来るものだ。このケースは初めてだった。

 話は結局、待たされた時間の半分も費やさずに終わった。ハンターを相手に暴走アンドロイドの情報を隠したところで、今度はもっと厄介なトラブルが発生するだけだ。

 得られた情報は、アンドロイドの詳細なスペック、そして搬入先。

 搬入先は、個人の邸宅。

 「イェルンタス・クブリク」。

 上層階級(ハイクラス)の富豪の名前だった。






 個人がアンドロイドを購入すること自体はそう珍しくはない。

 メンテナンスは専門の業者が行っており、ある程度裕福な共働きの家庭などの昼間の子守りのためのアンドロイドの購入が増加している。

 しかし、今回のケースは例外と言ってよかった。

 クブリク氏は販売店ではなく開発元に直接発注を行っているのだ。それはつまり、彼が既製品ではないカスタムメイドのものを発注したことを意味している。

 彼ほどの富豪なら、高価なワンオフのカスタムメイド機を求めるだけの財力はあるだろう。だがなぜ? なんのために?

 ヘイウッドはそれを確かめるべく、こんな時でもなければ足を踏み入れる機会のない上層階級(ハイクラス)の居住区であるA区画へ向かった。

 ヘイウッドがクブリク氏の邸宅へ着くには、18回の身分証明とボディチェック、8人の監視員からの見下した視線と罵声に無言で耐える62分間を要した。

 賞金稼ぎが捜査のために各居住ブロックを自由に行き来できる権限を一時的にせよ与えられているとはいえ、それにいい顔をするA級市民の数は遺伝子保護されているオランウータンよりも少ない。

 そしてヘイウッドの方もそういう扱いには慣れている。今さらどうということはない。

 クブリク氏の邸宅は、典型的な上層階級(ハイクラス)の屋敷だった。

 周囲を壁で囲まれたアール・デコ調の環境建築。アンドロイドのガードマンに左右を固められて屋敷に通されるヘイウッドの姿は、監獄へ護送される囚人のそれと大差ない。

 左右に目をやると、制服を内側から押し上げるガードマンの装甲板のような胸筋の向こう、換気機能を強化された調整植物の茂みの奥に控える黒光りする金属の塊が見える。警備用のロボット犬。今は石像のように微動だにしないこの忠実な番犬は、主人の合図一つで侵入者を10秒かけずに生ゴミにできる。

 そんな物騒な庭を抜けた先にある邸宅の一口でヘイウッドを迎えたのは、一人の老執事だった。

 上品な黒いタキシードに身を包んだその姿は、いわゆる「古きよき時代」のもので、そういう衣装自体この時代にはほとんど目にする機会のない種類のものだった。

 この執事もアンドロイドかと思ったが、彼はそうではななかった。ヘイウッドは職業柄、動作の硬さや細かな仕草から相手がアンドロイドかそうでないかは観察すれば分かる。

「ディスカバリー・ハンターオフィスから派遣された、ヘイウッドです」

「お話は伺っております、少々お待ちください」

 応接間に通されたヘイウッドは、腰が深く沈み込むソファにやや居心地の悪さを感じながらクブリク氏を待つ。

 部屋の中はオークションで金持ちが群がるらしい骨董品がずらりと並んでいたが、ヘイウッドにはそういったものの価値はよく分からない。

 やがて先に屋敷の奥へ消えていった老執事が、車椅子を押しながら戻ってきた。

 ヘイウッドには、豪奢を尽くした内装で固められた屋敷の中、この屋敷の主である車椅子に乗った小柄な老人までもがオブジェの一つに見えた。

 クブリク氏はこの時代では珍しい、旧世代を知る年齢の老人だった。

「おお、あなたが……ここへ来客が来るのは久しぶりだ、歓迎します」

「恐れ入ります。早速ですが、お話を……」

「と言っても、私がお話できることがお役に立つかどうか……ああ、この執事にも立ち会ってもらうがよろしいかな? 私も年のせいで物忘れが激しくてね……今では屋敷の管理はほとんど彼に任せておるのですよ」

「ええ、問題ありません。では……」

 クブリク氏の受け答えにヘイウッドはやや安堵を覚えた。老齢の割には応答はしっかりしているし、往々にしている相手がハンターだと言うだけで毛嫌いするような手合いではないようだ。

 ヘイウッドは聞き込みを始めた。

 いきなり本題には入らない。屋敷に配置されているアンドロイドの種類、搬入の日付、数量を確認していく。

 結果、この屋敷では合計13体のアンドロイド、5体のロボット犬を使っていることが分かった。発注元はいずれも同じ工場。

 執事があらかじめ用意していた写真つきの書類は公的なもので、十分に信頼性のあるものだった。改ざんされた様子はない。

 だが、その中にはオフィスで見た女性型アンドロイドのデータはなかった。

 違法に廃棄したか、もしくは盗難にあったか。アンドロイドを使っている者の中には、煩雑な手続きを嫌い、盗難や破損があった場合に正式な手続きをしない者もいる。特に大きな財力を持っている場合は容易に新しいアンドロイドを購入することができる。よほどの思い入れがない限りは使用に耐えないほど破損したものをわざわざ修理したり、盗難手続きを提出したりはしないのだ。結果的にそれが暴走アンドロイドの増加の一因ともなっている。

 無論、真正面から聞いたところで意味はない。

 どういう方向から攻めようか、とヘイウッドは思案する。

 と、応接間のドアを控えめにノックする音。

「おじいさま、お客様がいらしてるの?」

 はしゃいだ声とともに入ってきたのは、ハイティーンくらいの少女だった。

 その少女の顔を見た瞬間、ヘイウッドの右手は反射的に跳ね上がり、懐の銃把を握っていた。

 そのまま少女に銃口を向け発砲しそうになるのを押さえ込めたのが不思議なくらいだった。

 あの顔だ。

 間違いない。オフィスで見たデータにあった、捕殺対象のアンドロイドの顔。

「おお、アンナ。勝手に入ってきてはいけないよ。お客様と大切な話をしているんだから」

「だって、退屈だったんだもの」

 何も知らない人間が見れば、この二人は一見仲の良い娘と祖父以外の何ものにも見えないだろう。

 しかしハンターであるヘイウッドは違う。

 アンドロイドを製作する際の遵守事項の一つに、実在の人間の顔を使ってはならないというものがある。

 また製作されたアンドロイドの顔は全て政府管轄の施設に登録され、有事の際には閲覧可能とされている。

 よってヘイウッドがオフィスで見たアンドロイドの顔と同じ顔をした人間は決しているはずがないのだ。

 では、今自分の目の前でクブリク氏と楽しそうに話しているこれは、一体?

「すみませんね、ミスタ・ヘイウッド。聞き分けのない娘で……どうかなさいましたか?」

「ああ、いや……」

 内心の動揺をむりやり隠しながら、ヘイウッドはがちがちに固まった右手を懐から引きずり出す。

 動悸の治まらないまま、ヘイウッドはクブリク氏がアンナと呼んだ娘を見た。

 おかしい。

 アンドロイド法に照らして考えれば、この娘がアンドロイドであることは間違いない。だがこの娘には、アンドロイドの動作から感じられる特有の硬さやぎこちなさがない。クブリク氏の手をとって話し掛けるその姿からは、そういったものがまったく感じられない。ハンターとして長年の経験を積んできたヘイウッドにさえ本物の人間にしか見えないのだ。

 今回の案件はおかしい。もう一度考え直す必要がある。

 ヘイウッドは適当に会話を切り上げ、クブリク氏の屋敷を後にした。

 嫌な感覚。足早に自宅へ向かうその足に、疑念が幾重にも絡みつく。

 自宅へ帰ってベッドに横になっても、なかなか眠気は訪れない。

 電気を落とした暗闇の中、ヘイウッドは天井を睨みながら、まんじりともせずに夜を明かした。

 翌日、睡眠不足の頭をハンターオフィスからのコールが横殴りに殴りつけてきた。

 目向け覚ましにくわえた無炎シガレットを噛み千切りそうになりながら、ビデオフォンを取る。

「……なんです」

 不機嫌さを隠そうともしないどころか2割増で返事を返すと、ボーマンの憎たらしいくらいにいつも通りの声が返ってきた。

「ヘイウッド、例の一件だが……」

「ああ、クブリク氏のところには行って来ました。でも……」

「そのことだがな、ヘイウッド」

 ボーマンが人が話しているのにも構わずに用件を一方的にしゃべる時は、決まって聞きたくもない悪い知らせだ。

 ヘイウッドの頭の中で、今いちばん聞きたくないニュースを羅列したスロットマシーンが回り始める大当たり(ジャックポット)で出てくるのは、コインではなく災難の山。

「殺された」

「……は?」

 ぽろりとくわえていたシガレットが床に落ちた。

「クブリク氏が殺された」

 ガン、と叩きつけるようにビデオフォンをoff。

「……なんてこった」

 大当たり(ジャックポット)






 クブリク氏の自宅へ行こうとアパートを出たところでお迎えが来た。民警だ

 被害者が殺される翌日に彼に会っていた人物に対しては当然の対応だ、とヘイウッドは諦め、パトロールスピナーに乗り込んだ。

 行き先は民警の取調室、そこで2時間は痛くもない腹を探られなければならない。そう思うと車窓から見える濁った空の何倍も暗澹とした気分になってくる。

 嫌がらせ半分に「煙草、いいか?」と運転席の警官に聞くと、肩越しにシガレットを差し出してくれたのがまあまあ救いだった。

 シガレットを吸い終える頃には、スピナーは民警ビルの屋上に着いていた。

 そのままヘイウッドは、昨日クブリク氏の屋敷を訪れた時のように両脇を警官に固められて取り調べ室へ。

 と思いきや、ヘイウッドが連れて行かれたのはモニター付きの会議室で、そこで待っていたのは一人の顔見知りの刑事だった。

 捜査に協力させられるのと高圧的な取調べを受けるのとでは、前者の方がマシとは言える。

 それに一旦自分が関わった事件が知らないところで動いていくのを傍から見ているというのも気分が悪い。

「あんたが担当でよかったよ、ケルビン刑事」

「まあ他の警官に当たるよりはな。で、早速だが……」

 手元の操作卓(コンソール)を操作し、ケルビン刑事はモニターに事件の詳細なデータ、そしてクブリク氏の屋敷の映像を呼び出す。

 警官や検死官が群がっていて見えにくかったが、立ち入り禁止のテープが縦横に張られている他には屋敷自体には異常はない。

 映像が切り替わり、真っ赤に染まった保護シートに包まれた物体が運び出されている。

「クブリク氏だ」

 ケルビンが淡々と言う。

 画面を見入るヘイウッド。

 シートに包まれたそれは、明らかに人の形をしていない。ミンチだ。ヘイウッドには見慣れた殺され方だった。

「アンドロイドか。殺ったのは」

「ああ」

 ケルビンが画面を切り替える。検死データ。

「弾痕や爆発物の類は全てなし。典型的な暴走アンドロイドの被害者と同様の殺され方だ。ものすごい力で全身が引き千切られている」

「クブリク氏の屋敷にはボディガードとセキュリティシステム、それにロボット犬まで配備されていたが……侵入者はそれらに気付かれなかったのか? あるいはクブリク氏を襲ったのは屋敷に配備されていたアンドロイドだとか?」

「それはないな。違法改造されたものならともかく、通常のメンテナンスを行っているものが暴走するとは考えにくい」

「なら、暴走アンドロイドの侵入と考えるのが妥当じゃないか?」

「そこが妙なところだ。屋敷のセキュリティの一切は侵入者を感知していない。ガードマンやロボット犬も同じだ。事件は早くも迷宮入りの様相だよ……」

 苦笑混じりに漏らすケルビン。

 ヘイウッドは返事を返さない。黙考している。

「まして殺害されたのが上層階級(ハイクラス)有数の富豪とあっては、解決が遅れれば遅れるだけ騒ぎは大きくなる。上層部も焦っているのさ。民警の大きな失策は、一部の富豪が有している私設軍がその立場にとって変わるのに十分な隙になる」

「被害者よりも組織の維持のため、か」

「そんなものさ……」

 ケルビンの話を聞きながら、ヘイウッドは必死に顔色が変わるのを抑えていた。

 話を半ば聞いた時点で、ヘイウッドの脳裏にはクブリク氏の屋敷で見た、彼の娘を名乗ったあのアンドロイドのことで占められていた。

 クブリク氏を殺害したのは恐らくあのアンドロイドだ。

 だがそれを客観的に証明するにはいくつかの矛盾がある。

 アンドロイドが人間を殺害することはある。だが、故意に、あるいは誰かに命令されて人間を殺害することは決してできない。

 全てのアンドロイドのニューロチップに必ず組み込まれている最も基本的なマインドセット、「アシモフ原則(ギアス)」。

 即ち、


 1、アンドロイドは人間に危害を加えてはならない。

 2、アンドロイドは第一条に反しない限り人間の命令に従わなくてはならない。

 3、アンドロイドは第一条及び第二条に反しない限り自身を守らねばならない。


 正常に動作しているアンドロイドの行動は全て、この3つの極めてシンプルな原則に支配されている。

 よって人間を殺害したアンドロイドは例外なく正常に動作していないもの、ということになる。

 しかし、ヘイウッドが目にしたあのアンドロイドは、見境なく暴れもしなければいきなり襲い掛かってもこなかった。正常に動作していたのだ。

 ……否。

 あのアンドロイドの、不自然なまでの自然さ。

 そして、そのアンドロイドをクブリク氏が孫と呼んでいたこと。

 正常ではない。

 あのアンドロイドが、ではなく、この状況、この事件そのものがまともではない。自身を取り巻く状況が、歪んだ歯車のように耳障りな音を立てて軋んでいるのを、ヘイウッドは感じた。

 民警のビルから戻ったヘイウッドは、安物の合成酒のボトルを手にベッドへ倒れ込んだ。

 いつもはわずかばかりの安眠を与えてくれるアルコールも、今夜に限ってその役目を果たそうとしない。

 無炎シガレットの煙が染み込んでまだら模様になった薄暗い天井を睨みつけながらヘイウッドは考える。

 分からない。何もかもが不可解だ。

「エレナ……」

 恋人の名を無意識に呟く。会いたい。

 だが、彼女に心配はかけたくない。彼女はヘイウッドの心の機微に敏感だ。会えば必ず抱え込んでいる不安を見抜かれてしまうだろう。

 会いたいが、今は会わない方がいい。

 カレルレン医師に連絡を頼んでおこう、そう思いつつヘイウッドは無意識に首から下げたロケットをまさぐり、蓋を開ける。中には、エレナの写真。

 やさしく微笑んだ顔。しかしその瞳は、何も写してはいない。

 決して重なることのない視線に胸を掻き毟られる感覚を覚え、ヘイウッドは握り締めるようにロケットを閉じる。

 ようやく浅い眠りが彼を包んでいった。






 翌日からヘイウッドは、クブリク氏殺害犯の捜索に駆り出された。

 この案件の重要参考人ということももちろんあったが、ヘイウッド本人が捜査への協力を強く希望したのだ。

 民警側もこれを承諾した。

 先日ケルビンが言っていた通り、民警側は可能な限り早くこの事件を解決する必要があり、それにヘイウッドのような豊富な経験をもつハンターの協力は有用だった。

 またヘイウッドにとってもこの事件の解決で得られる報酬は、当分の間エレナに楽をさせてやれる額だった。

 ヘイウッドは進展があり次第ケルビンを通じて民警の捜査本部へ報告することを約束し、独自に調査を行うことになった。

 犯人はあのアンドロイドであることをヘイウッドはほとんど確信していたが、それを証明する手がかりもなければアンドロイドの居場所も分からない。

 街を当てもなくさまよう。

 「犯人は必ず現場に戻ってくる」という前世紀からある教訓もアンドロイドには当てはまらない。

 暴走アンドロイドは大抵の場合、動力が切れるまでランダムに移動と殺害を繰り返す。

 そのため被害のあった場所を追っていくのがヘイウッド達ハンターの基本的な追跡法だ。

 しかし今回の事件では6回目の被害はまだ出ていない。

 誰も見つからないような場所ですでに動力が切れているか、さもなければ誰にかくまわれでもしているか。

 ヘイウッドは苦笑する。

 それこそありえない。暴走したアンドロイドを違法改造が発覚することを恐れて内密に処理するケースはあるが、それをかくまうなど考えられない。

 第一今回の事件では、それを行う可能性のある人物がすでに殺害されている。

 クブリク氏以外にあのアンドロイドに関わりを持つ人間などいるはずが……。

 ぴたり、とヘイウッドの足が止まった。

 いる。なぜ今まで忘れていたのか。

 いるのだ。もう一人あの場にいた人間が。

 彼をクブリク氏のところまで案内した、あの老執事。

 それに思い当たった時には、ヘイウッドは携帯端末に登録されたケルビンの番号をプッシュしていた。

「執事は?」

「……なんだって?」

「執事だ。クブリク氏の屋敷にいたはずだ」

「おいヘイウッド、何を言って……」

「いたんだ! あの屋敷には、クブリク氏以外にもうひとり人間が!」

「……なんだって?」

 ようやく落ち着きを取り戻したヘイウッドは、ケルビンにクブリク氏の屋敷を訪れた時のことを説明した。

 ケルビンはヘイウッドの説明が終わるまで、口を挟まずじっと耳を傾けていた。

 話を聞き終わった後、受話器の向こうでケルビンが無炎シガレットを取り出し、深く吸う気配。

 ヘイウッドも同じようにシガレットを取り出し、煙を吐き出した。部屋の隅にわだかまる紫煙を、ヘイウッドは見つめる。

「……我々が現場に到着したときには、お前の言う人物はいなかった。通報したのは守衛の男だった」

「だが……!」

「落ち着けよ。邸宅のデータベースを当たってみよう。何らかの記録が見つかるかもしれん。それと、お前は今は下手に動かん方がいい。それとな……」

 ケルビンはやや声をひそめて、

「我々はお前の協力を受け入れているという形をとってはいるが、実質的にはこれは監視なんだ。なにせお前はクブリク氏に最後に接触した人間なんだからな」

 沈黙。

「……分かった。しばらくはおとなしくしていよう」

「信用するぞ」

「ああ」

 ビデオフォンを切る。

 薄暗い部屋のベッドに腰かけ、シガレットを一本吸い切るまでじっとしていた。

 最後の灰をトレーに落とし、ヘイウッドは愛用のジャケットを掴む。

 ポケットに収まったハンドガンの感触を確かめ、弾丸を装てんする。

「すまんな、ケルビン。さっきのはなしだ」

 独り言だけを部屋に残し、ヘイウッドは部屋を出た。






 ヘイウッドは「ストルムグレン」に向かう。

 いつもと同じテーブルでいつもと同じに安い合成酒を呷っていた情報屋は、ヘイウッドの顔を見るなり向こうから声をかけてきた。

「ようヘイウッド。やっかいなヤマに巻き込まれたらしいな」

「耳が早いじゃないか。じゃあ俺が何を探してるか当ててみな」

「あの屋敷にいたはずの、被害者クブリク氏以外の生存者……当たったろ?」

 ヘイウッドは賞賛の代わりにウェイターを呼び、ボトルを一本持ってこさせた。

「ほお、ずいぶん気前がいいじゃないか。こりゃあ口も軽くなるってもんだぜ」

「で、どうなんだ」

 ボトルをそのままひと口呷って、情報屋は続ける。

「今のところあの一件に関しては民警が取り仕切ってる。民警も必死だぜ、今回の一件をしくじれば、ここら一帯で立場をなくす羽目になるからな」

「で、必死になってる成果は出てるのか」

「いくつかはな。まず屋敷の方だが、アンドロイド用のメンテナンス施設が見つかったらしい。これ自体は珍しいことじゃあない。自分が使ってるアンドロイドにこだわりを持っている人間は専属のメンテナンス技師を雇って自分の邸宅の施設で働かせる例がいくつもあるからな。だが問題は、その施設が特殊だったことだ」

「特殊? どんなふうにだ」

「用途不明のマシンがあったらしい。何でも脳波検査機に近いものだとかいう話だ。それともう一つ」

 そう言って情報屋は、改造に改造を重ねて原型を留めていない個人端末を操作し、一つの画像をヘイウッドに示した。

 ――背中があわ立つのがはっきりと分かった。

 あの顔だ。

 画面に映し出されているのは、一枚の古ぼけた写真。

 写真という物品自体、この世界ではもうめったに見ることがないものだ。

 その写真の中にいるのは、椅子に座って穏やかな笑顔を浮かべている人物……かなり若いが、面影がある。クブリク氏だ。

 そしてその隣、若き日のクブリク氏がいとおしげに肩に手を置いているのは、誰あろう、ヘイウッドがあの日屋敷で見たあの少女の姿をしたアンドロイドだった。

「……おい、旦那? 顔色悪いぜ?」

「む……ああ、すまない」

 自分のコップを一口呷るが、喉の渇きは潤わない。かまわずヘイウッドは質問を続ける。

「こいつは、どこで?」

「民警のやつらに便乗してあの屋敷のデータベースをハックしてた時に見つかった。あの屋敷、いまどきの金持ちには珍しく法的に問題のあるデータは全くなかったんだが、データベースの最深部にこれだけがあったんだ。じいさんの宝物ってところだろうな。見つかったのはこのなんでもない画像データだけだ」

 なんでもない、だと? バカな!

 データの中のクブリク氏は、ヘイウッドが屋敷で見た車椅子に乗っていた彼よりもかなり若い。初老とはいえ10年以上は昔の姿だろう。しかし少女――クブリク氏はアンナと呼んでいた――は、ヘイウッドがあの屋敷で見たのと全く同じ姿だった。

 ヘイウッドは内心の動揺を合成酒とともに胃の中に流し込み、画像を凝視する。どれだけ目を凝らしても、クブリク氏の隣の少女はあのアンドロイドにしか見えない。

「……男の方は若いが、クブリク氏だろう。しかしこの隣の娘は誰だ?」

「調べてみんことには分からん。……で、どうする?」

 ヘイウッドは無言で懐からカードを取り出し、情報屋へ放る。

 情報屋はへへ、と笑みを浮かべて自分の端末へと(ポイント)を入力する。

「5日以内には連絡するよ」

「頼りにしてるぜ」

 店を出たヘイウッドの頭の中は、情報屋が見せた写真のことでいっぱいになっていた。

 若い姿のクブリク氏と、ヘイウッドが見たときと全く同じ姿をした、彼の娘?……の姿をしたアンドロイド。

 これはどういうことだ?






 結局、ヘイウッドが情報屋から得られたのは新たな謎だけだった。

 だが以前として、目的はあのアンドロイドの所在だ。あのアンドロイドの足取りさえつかめれば、この事件は解決の方向へ向かうだろう。

 いや、しかし……とヘイウッドは自分の考えを同時に否定する。

 この事件は、いつものアンドロイドの捕殺とは違う。違う匂いがする。

 酒場を出たヘイウッドの足は、自然とエレナの入院している病院へと向かっていた。

 命の危険が伴うのはいつものことだ。しかし今回の事件から漂うそれだけではすまない何かを、ヘイウッドは嗅ぎ取っていた。

 万が一のことが自分の身に……という可能性は常に捨てきれない。

 それに備えるため、またそれを避けるために、ヘイウッドはエレナの病室を訪れる。

 ヘイウッドがドアをあけると、エレナはそれを敏感に感じ取り、見えない目をヘイウッドの方に向ける。

「ヘイウッドよね? いらっしゃい!」

 明るく声をかけたエレナだったが、ヘイウッドの内心を見透かしたかのように声のトーンを下げる。

「お仕事……何かあったの?」

「はは、君には隠し事はできやしないな……。少しばかり難しい仕事になりそうなんだ」

 苦笑しつつ冗談めかして言っても、エレナの表情は曇ったまま。

「ヘイウッド……わたし、時々すごく不安になるの。私には見えないだけで、あなたはもう体中傷だらけでぼろぼろなんじゃないかって。私が知らないだけで、あなたは……」

「エレナ……」

「あなたがやさしく触れてくれるこの手も、もしかしたらもうとっくの昔につくりものになってしまってるんじゃないかって……不安なのよ……」

「ならエレナ、どうして人工臓器の移植を拒むんだ? もう君の目は……」

 二度と見えないんだぞ、と言いかけて、ヘイウッドは慌てて口をつぐんだ。エレナの表情が目に見えて固くなる。

 気まずい沈黙。

 先に口を開いたのはエレナだった。

「……そう、確かに私の目はもう見えない。だけど、もう見えないからって壊れた電化製品を取り替えるみたいにあっさり自分の身体を取り替えるなんて……。なんていうか、間違ってるわ……」

 ヘイウッドは口を挟まずに、エレナの言葉をじっと聞いている。

「それにもし、そうやって自分の身体を取り替えていって、手も足も、耳も口も、全部別のものになってしまったら……私はどこにいるの? それはもう私じゃないわ、私はもうどこにもいない。そこにいるのはただの……私に似た形をした人形よ……」

 後の方はもう涙声になってしまったエレナの言葉は、ヘイウッドの胸に深く突き刺さった。エレナが小さな声で呟いた「ごめんなさい」の一言は、もうヘイウッドの耳には届いていなかった。

 ヘイウッドは幾度となく訪れたこの病室から、今すぐにでも出て行きたい衝動に駆られた。

「エレナ! 今度旅行にでも行こう!」

 ヘイウッドは自分の胸中に生じた不快なもやを吐き出すように、場違いなほど明るい口調で話しかける。

「今回の仕事が終わったら、チューブトレインで上層区画まで行こう。なんでもそこには、合成タンパクじゃない本物の料理を出す店があるらしい」

 エレナもまたヘイウッドを気遣ってか、多少無理をしながらも返事を返す。

「そ、そうね。楽しみにしてるわ。お仕事、気をつけて」

 それだけの会話を交わし、へイウッドはエレナの病室を出た。

 1階でエレベータを降りてから、いつも欠かさずしていたお別れのキスをしていなかったことに気付く。

「くそっ」

 苛立ちを覚え、無意識に懐を探り無炎シガレットを探す。パッケージを取り出すと、中身は空。

 ヘイウッドはもう一度「くそっ」と吐き捨て、空の箱を握りつぶした。






 ヘイウッドは連日、暴走アンドロイドの捜索に奔走しており、エレナの病室を訪れる回数と時間は日に日に減っていった。無論、調査や聞き込みで時間をとられるということもあるのだが、ヘイウッドはなんとなく、エレナに会うのを避けていた。理由は分からない。

 ヘイウッドはその理由を考えることからも逃げるように仕事に没頭した。

 日々更新されていくアンドロイドの情報。殺害報告は5人目から先はまだカウントされていないが、依然として足取りはつかめない。このまま迷宮のように入り組んでいて正規のマップ情報もない廃棄区画内にでも潜り込まれれば、追跡は極めて困難になる。

 そんな中、ヘイウッドの個人端末に匿名でのメッセージが入った。

 匿名での情報提供は別段珍しくはなく、むしろ民警のような大規模な操作網を持たないヘイウッドらハンター達にとっては、頭から信用するには行かないにせよ、重要な情報源だった。

 あとはその情報の真偽を確かめるだけだ。

 メッセージの発信元は公衆端末。しかもデータは複数の公衆端末から分割されて送られており、さらにメッセージは暗号化されている。これは、発信者が素人ではなく、専門知識とハンターに対する接触の仕方を心得ていることを意味している。情報の信憑性はまずまずと言ったところだ。

 メッセージにはデータが添付されていた。それぞれのデータを統合して現れたデータは、事件が起こったC層の全体図と、そして一つの座標。

 ヘイウッドは無炎シガレットを2本ふかした後端末を閉じ、自宅を出た。

 何かに追い立てられるように、ヘイウッドはチューブトレインに乗り、雑踏を抜け、データにあった座標へ向かう。

 歩みを進めるごとに人の数は少なくなり、毒々しいネオンライトの明かりは消えていく。そして――。

「よりによって、ここか」

 廃棄区画。

 ずらりと並んでいたであろう家屋は、そのほとんどがもろい建材から順に崩れており、赤黒く錆付いた鋼材の骨組みをさらしている。

 上を見上げれば、車両を失ったモノレールのレールが、どんよりと凝った空気が停滞する真っ暗な空間を二つに割っている。

 街の死骸――。

 ヘイウッドにはそれらが、何か巨大な生物の、あちこちを食い荒らされた死骸に見えた。得体の知れない不気味さを覚え、ヘイウッドは無意識に懐の銃に手を伸ばす。

 と、唐突に携帯端末が甲高い着信音を鳴らした。

 危うく銃を取り落としそうになりながら、ヘイウッドは端末をON。相手はいつも使っていた情報屋だった。

「今は取り込み中だ」

「じゃあ後で酒場で落ち合うか?」

 ヘイウッドは少し考え、「……今でいい」と返す。

「あの写真の娘の方、素性が分かったぜ」

 ぴく、とヘイウッドは片眉を吊り上げる。

 視線は取り出したハンディライトが闇の中に作り出す一メートルほどの白い円に、耳はややノイズの混じった情報屋の声にそれぞれ集中する。

「あの老人の娘だ。名はアンナ」

 ハンディライトを握る手がぎしりと鳴った。相槌も打たず、情報屋の話に耳を傾ける。

「あの娘、どうやら今から10年前に死んでいるらしい。死因は今も流行している先天性の身体衰弱だ」

 その言葉にヘイウッドは少なからず動揺した。エレナと同じだ。そして、自分とも。

 エレナと同じ原因で孫娘を失ったクブリク氏に、ヘイウッドは強烈なシンパシーを覚えた。

 もし仮に……仮に自分がエレナを失ったとしたら、どうするだろうか?

「おいヘイウッド、聞いてるのか?」

「あ、ああ。続けてくれ」

「だが妙なんだ。あの老人は娘の死を公的機関に届け出ていない。それと同時にあの老人は、屋敷の警備を異様に厳重にし、自身も隠遁生活を送るようになったようだ」

 ヘイウッドはそこまで聞いて、やっと自分の呼吸がひどく乱れていることに気がついた。

 クブリク氏とその娘の写った写真。屋敷で見たあのアンドロイド。10年前に死んだという事実。老いていない娘と老いたクブリク氏。

 それら断片的な情報が、ヘイウッドの脳裏にある一つのありえない回答となって結像しようとしたとき、暗闇の中から何かが地面の瓦礫を踏みしめる音がかすかに聞こえた。

 ぎょっとするヘイウッド。反射的に音の聞こえた方にハンディライトを向ける。

 乱れ始めた呼吸を何とか押さえ込みながら、ライトを素早く左右に振る。

 一瞬、ハンディライトの作る白い光の円を、一瞬影が掠めた。

 端末を懐にしまって銃を構え、周囲の気配に全身を緊張させる。

 ほとんど光源がないため、視界は極めて悪い。反面、足元は細かい砂や建材の破片で満たされており、少しでも動けば音が立つ。

 じゃり、じゃり……と瓦礫を踏みしめる音が聞こえる。右前方。

 銃口を向ける。トリガーにかけた指が震えるのが分かった。

「あら? あなたあのときのお客さま?」

 場違いに明るい声。

 ライトの光に照らし出されたものを目にしたヘイウッドの全身が硬直した。

 ここにそれがいるのは、ヘイウッドの元に送られてきたメッセージを信じるなら当然のことであり、そもそもヘイウッドはそれがここにいることを期待してここへ来たのだ。

 しかし、それの姿はハンターとして決して浅くはない経験を持つヘイウッドをもたじろがせるものだった。

 右腕は抵抗を受けたのか、もしくは破損したのか、肘から先が千切れている。ニューロチップが破損している暴走アンドロイドは反射的な防御行動すら不可能だ。

 アンドロイドの構造の中でもっとも繊細なパーツである人工皮膚は、長期間メンテナンスを受けていないためか、黒く劣化・腐食し、ところどころが剥がれ落ちている。

 だがそれらはヘイウッドにとっては、彼が狩り続けてきた暴走アンドロイドのいつもの姿だ。驚くには値しない。

 ヘイウッドが全身を硬直させた、その理由。

「おじいさまに何かご用事?」

 笑っているのだ。

 人間そっくりな、無邪気な少女そのままの表情で。

 クブリク氏がアンナと呼んでいたアンドロイドは、その顔だけが何かに守られているかのように破損しておらず、あの時ヘイウッドが屋敷で見たときの、そしてクブリク氏のデータベース最深部にあったという写真の中のそれと全く同じ顔で微笑んでいる。

――マインドセットが残っているのか……!?

 通常、暴走アンドロイドはニューロチップが破損した時点でプログラムされていた行動ルーチンを失う。華々しい笑顔も介護マニュアルも全てを忘れ、無差別で脈絡のない攻撃行動を繰り返すのだ。

 ではこのアンドロイドは、極小の例外としてニューロチップ内のプログラムが破損していない?

 だがヘイウッドは直後、自分の考えを疑う。

 ニューロチップが破損していて、その中のプログラムが破損していないなどありえない。そもそも、ニューロチップが破損しているからこそ暴走しているのだ。否、それ以前に――

 このアンドロイドのプログラムとは……なんだ?

 アンドロイドはその使用目的に応じて様々なプログラムを施されている。逆に言うなら、プログラムを持たないアンドロイドは出荷前のものだけだ。

 このアンドロイドにも、当然何らかのプログラムが施されているはずだ。

 では、どんなプログラムが――

 そのヘイウッドの思考を、アンドロイドがもう一歩踏み出してきた足音がさえぎった。

 破損がひどいせいか動作は緩慢だが、一度喰らえば終わりだ。

 もうアンドロイドはヘイウッドのすぐ近くまで迫っている。

 思考を打ち切り、体勢を立て直す。

 アンドロイドは緩慢な動作で左腕を振り上げる。

「今、お茶を用意しますわ。おじいさまも呼んでこなくちゃ」

 全く結びつかない行動と表情に、ヘイウッドは得体の知れない不気味さを覚えた。

 しかし、勘ぐるなら事が終わった後で十分だ。

 比較的もろい関節部を破壊して、動きを封じるのが暴走アンドロイドを相手にする際の常套手段だ。

 そして、ここまで接近しているなら、ヘイウッドの技量からすれば頭部を狙い撃って一気に機能停止させることも十分できる。

 そう考えるまでもなく、ヘイウッドはすでにアンドロイドの眉間を照準していた。

 しかし、撃てない。

 ヘイウッドが今まで相手にしてきた暴走アンドロイドは、一体の例外もなく、まともな言葉をしゃべるものも、人間らしい表情を保っているものもいなかった。だからこそ、人間と同じ姿をしていてもためらうことなく発砲することができたのだ。

 しかし今、ヘイウッドの目の前にいるアンドロイドは、あまりにも人間の部分が残り過ぎている。

 じゃり、とアンドロイドがもう一歩踏み出す。

 もう数歩踏み込んで残った左腕を振り下ろせば、ヘイウッドの身体を叩き潰してしまえる距離。

 ヘイウッドはその距離にまで近づかれながら眉間を撃てず、目を背けるように銃口を下げ、アンドロイドの右膝を撃った。

 自重を支えられなくなった右膝の間接が後ろに折れて、アンドロイドはその場にくずおれる。

 アンドロイドは苦痛のうめきも悲鳴も漏らさない。さっきとまるで変わらない表情で、ヘイウッドを見上げている。

 その視線に絡め取られたように、ヘイウッドはその場に縫い付けられたように動けない。

「おじいさま、お客さまがいらしたわ」

「黙れ!」

 その声に身の毛もよだつおぞましさを覚え、ヘイウッドは発砲した。アンドロイドの背中に穴が開く。

 それでもアンドロイドはしゃべるのを止めない。壊れたテープレコダーのように、脈絡のない言葉を繰り返す。


――おじいさま、おそとにあそびにいきましょう

――おからだのぐあいはどう? おじいさま

――きょうはとてもいいてんきよ、おじいさま

――おじいさま おじいさま おじいさま


 無垢な声に銃声が重なり、がらんどうの死んだ空間に反響する。

 銃声が止んだ後に、ごうごうと響く風の音。

「はあっ、はあっ、はあっ……」

 風の音に聞こえるのは、ヘイウッドの荒い息だった。

 弾丸を撃ちつくした拳銃を握り締め、ヘイウッドは一人、暗闇の中で立ち尽くしている。

 アンドロイドは動かない。機能を完全に停止している。

 ヘイウッドはがちがちに固まった両手の指を、時間をかけて拳銃のグリップから引き剥がした。重い鉄の塊が、ごとりと音を立てて地面に落ちた。

 視線が倒れ伏したアンドロイドから離れない。ついさっきまでアンドロイドが発していた人間そのものの声が耳から離れない。

 一瞬、アンドロイドの着衣に染み出した黒いオイルが真っ赤な鮮血に見えて、ヘイウッドは息を呑んだ。

 ぎこちない動作で懐から携帯端末を取り出し、ケーブルを延ばす。アンドロイドのデータ転送用ポートを探り当て、ケーブルを繋ぎ、機体データを照合、捕殺対象であることを確認する。

 その作業をヘイウッドは、機械のように無感情にこなしていった。全ての作業を終え、携帯端末を懐にしまう。

 ――それでハンターとしての仕事は終わり。あとは賞金を受け取るだけ。

 そのはずなのに、ヘイウッドはそこから動けずにいた。何が終わったとも思えなかった。

 このアンドロイドは一体なんだったのか? クブリク氏のデータベースで見つかった写真の意味は?

 何もかもが分からない。しかし、もうここにいる意味もない。

 そういえば、ここにあのアンドロイドがいるという匿名の情報をくれた人物に、報酬を用意しなくてはいけないな……そんなことをぼんやりと考えながら、鉛を呑んだように重い身体を引きずるようにして、ヘイウッドはアンドロイドの屍に背を向ける。

「ご苦労様でした、ミスタ・ヘイウッド」

「!?」

 突然の声にヘイウッドはハンディライトをでたらめに振り回す。光の円が地面を這い、壁を駆け回り……そして、真っ黒な人影を捉えた。

 人影は逃げる様子もなく、ヘイウッドに近づいてくる。

 一歩、二歩と近づくにつれて人影ははっきりと見えてくる。

「な……!」

「お久しぶりです、ミスタ・ヘイウッド」

 ライトに照らし出されたその姿。今の時代ではほとんど目にすることのない、黒いタキシード。

 間違いない。

 クブリク氏の屋敷にいた、あの老執事だった。

 老執事はここにいることがさも当然であるといった風情で、そこに立っている。

 ヘイウッドはどうしていいか分からない。

「何か私に、お聞きになりたいことがあるのでは?」

 先に口火を切ったのは老執事の方だった。あのときに見た上品な笑みを浮かべたまま、ヘイウッドをまっすぐ見ている。

「……ここの情報をよこしたのは、あんただな」

「その通りです」

「なぜ、そうする必要があった」

「あなたの手でこのアンドロイドを始末していただく必要がありました」

「このアンドロイドは、あのとき屋敷にいた、あれと同じものか」

「その通りです」

 ヘイウッドの質問に、老執事は淡々と答える。

 隠すそぶりも見せないその態度は嘘をついていることを疑うには十分なものだったが、ヘイウッドはかまわず、堰を切ったように質問を投げかける。

「クブリク氏を殺したのも……」

「はい、このアンドロイドです」

 ヘイウッドは、ぐっと片手で自分の頭を掴む。わけが分からない………。

「あんたは……何者だ」

 老執事は少し間を置いてから答える。

「私はある企業のエージェントです。クブリク氏とはある取引をさせて頂いておりました」

「取引、だと……」

「はい」

 ヘイウッドは、ちらりとアンドロイドの方に視線をやる。

「このよくできたアンドロイドが、その取引とやらの品物というわけか」

「正確にはそのアンドロイドのニューロチップと、そして――」

 老執事の目つきが変わったのを、ヘイウッドは感じた。

「さて、何からお話したものやら……」

 銃口を至近距離で向けられているにも関わらず、老執事は屋敷でのときと同じように上品な態度を保ったままだ。まるで、ヘイウッドが決して引き金を引かない、引けない……そう確信しているかのように。

 老執事がこの事件の、恐らくはもっとも深い部分に関わっているのは間違いない。その上でヘイウッドの前に姿を現し、かつ事件の裏側を話している……老執事の意図は分からないが、自分から姿を現したということは、恐らくここから逃げることはない、その必要がないからだろう。

 それはつまり、この紳士然とした老執事がいつでもヘイウッドを始末できるということをも意味している。

 危険だ。今すぐにでも老執事を捕縛し……いや、状況から考えてこの老執事が単独でここにいるとは思えない。今この瞬間にも、暗がりの中からヘイウッドの眉間を照準している銃口があるかもしれないのだ。

 しかし、ヘイウッドの心は見えない銃口への恐怖よりも、この事件の真相の方に傾きつつあった。

 銃口は老執事から逸らさないまま、ヘイウッドは先を促した。

「話を聞こうじゃないか」

「それでは……」

 老執事は慇懃に礼をし、話し始めた。

「まず、そこのアンドロイドに関してですが……そのアンドロイドのニューロチップには、ある特殊な処置を行っておりました。その処置は我々の企業の中でも試作段階にあるものでして、このアンドロイドはその最初の実験機でした」

「その特殊な処置とやらのせいでこのアンドロイドは暴走、クブリク氏は殺された……。そして俺は都合よく利用された、と言うわけか」

「その通りです」

 老執事は悪びれた風もなく肯定した。

「我々はあのアンドロイドに製作段階で特殊な処置を施しました。これらの処置を行ったことは外部には一切にもらされてはいません。クブリク氏の親族に対してもね。もともとクブリク氏は親族とは親交が薄かったようですから、情報の遮断は簡単でした」

「特殊な処置、とは?」

「クブリク氏の娘、アンナ・クブリクに関しては?」

「10年前にウイルス性疾患で死んだという、このアンドロイドと同じ顔をした娘……クブリク氏はアンドロイド製造法に違反した、実在した人間の顔を使用したアンドロイドを極秘裏に製作、自分の娘として扱ってきたわけか?」

 そう口にしてヘイウッドは、自分の言った言葉にある矛盾があることに気付く。

 実在した人間とまったく同じ姿をしたアンドロイドを造ることは、禁じられてはいるが物理的には十分可能だ。本人そっくりの容姿を再現するというだけならいくらでもできる。

 しかし、「自分の娘として扱う」――これはどうだろうか。

 確かに、例えばロボットペットを失った娘の代替品として可愛がるということはあるだろう。しかし、本人そっくりのアンドロイドに対してそうするとは考えにくい。姿かたちだけが娘に瓜二つで、しかしそれはアンドロイドに過ぎない。かつて生きていた頃のように振舞ったりはしない。アンドロイドはインストールされるプログラムによって警備員にもファッションモデルにも娼婦にもなる。だが、「自分の娘と同じ振る舞いをさせるプログラム」など存在するはずがないではないか。

 ――ヘイウッドは雷光のように理解する。背筋に冷たい汗が伝うのが分かった。

「まさか」

「その通りです」

 老執事の淡々とした声に、かすかに熱が混じる。

「我々がクブリク氏と接触したのは最近ではありません。およそ10年前……そう、まだアンナ嬢が生きていたときのことです。クブリク氏にはアンナ嬢を救う手立てはなかった。無論我々にも。そして我々はある提案をしたのです」

 老執事は屈み込み、アンドロイドの頭部に手を伸ばした。慣れた手つきで後頭部のメンテナンススイッチを探り当て、頭部を展開させる。

「我々はある実験を行っていました。しかしそのための費用と、そして適当な被検体が不足していた。クブリク氏はそのどちらの条件も満たしている理想的なクライアントでした」

 展開された頭部に、老執事の両手が差し込まれる。

 取り出されたのは、握りこぶしを二つ合わせたくらいの大きさの物体。

 太いチューブが絡み合ったような形状のそれは、人体のある器官を容易に想起させるものだった。

「人工脳……!」

「その通りです」

 老執事が初めて明確な笑みを浮かべた。

「我々はクブリク氏に、アンナ嬢の記憶、人格をコピーし、それをアンナ嬢の容姿をそのまま写し取ったアンドロイドに搭載することを提案したのです」

「そんなことが、可能だと……?」

「現在普及しているニューロチップは、アンドロイドに特定の行動ルーチンを与えるためのもの……それの前身に当たる人工脳は、人間の脳の構造と機能を可能な限りエミュレートするのがその目的でした。人工脳の方が我々の目的には適していたのです。ですが残念ながら、劣化させることなく人格を完全にコピーすることは不可能でした。結局コピーに成功したのは記憶の一部と起居動作のみ……しかし実験第一号として十分なデータは取れました。問題はまだ残っていますがね」

「それがこのアンドロイドの暴走というわけか」

「ええ。このプロジェクトのために特別に調整した人工脳とはいえ、当時の段階のものでは、人間の人格や記憶の一部すらも大きな負担になっていました。特注の人工脳にはスペアはありませんでしたし、そもそも人工脳にインストールしてあるプログラムのもととなったアンナ・クブリク嬢はすでに亡くなっている。我々にできたのは人工脳を除く機体のメンテナンスと、人工脳の劣化によって暴走を始めたアンドロイドの所在の隠蔽だけ……それもクブリク氏が殺害された時点で終わりましたがね」

「事件そのものを隠蔽しなかったのは、用済みになったアンドロイドを体よくハンターに始末させるため……か。そしてクブリク氏は、自分の娘の姿と声をしたアンドロイドに殺された……」

「その通りです」

「なんて哀れな……」

 ヘイウッドは嘆息した。

 確かに、娘を助ける術がないと悟ったときのクブリク老人の悲しみと絶望は想像するに余りある。そこへ、アンドロイドとはいえ自分の娘と全く同じ容姿と言動を持った存在を手に入れられると持ち掛けられれば、一も二もなく承諾するだろう。

 しかし、それはあまりに虚し過ぎる。

「クブリク氏は、目の前にいるのが自分の娘の姿をしているだけの、ただの機械人形と知りながら数年間暮らしていて……その挙句に殺された……というのが、この事件の真相というわけか……なんてことだ……」

「いえ、それは違います」

「なに……?」

「お忘れですか? 私は先ほどクブリク氏にも特殊な処置を施したと申し上げたではありませんか」

 怪訝な顔をするヘイウッド。話が見えない。

 かまわず話し続ける老執事の言葉が、やや熱を帯び始める。

「何を、言ってる……?」

「我々はアンナ嬢の記憶をニューロチップにコピーすると同時に、クブリク氏にも処置を行いました。すなわち、記憶の選択的消去です。我々はアンドロイドへのニューロチップへの記憶コピーと並行して、クブリク氏の記憶を……自分の娘を亡くし、その娘の記憶を移植したアンドロイドを造ったという記憶を消去したのです。その後は我々が身分を偽り医療処置として定期的に記憶処理を施すことで、彼は10年前の、自分の娘が生きていた時間に留まり続けていた」

「バカな……」

 ヘイウッドの受けた衝撃は、記憶を選択的に消去するという技術の実在に対するものではなかった。

 自身とよく似た境遇で大切な相手を失ったクブリク氏の選択に対する、哀れみとも嫌悪ともつかない感情がヘイウッドの胸中に渦巻いていた。

 ヘイウッドは搾り出すように言う。

「クブリク氏は……そうやって数年にわたって成長もしない死んだはずの娘と、ずっと暮らしていたというのか、改ざんされた記憶の中で! そんなことが……」

「許されるはずがない、と? そんなものは真実ではない、ただの代替物だ、と?」

 老執事がヘイウッドの言葉を遮った。今までとは違う、弄うような口調。

「ええ、その通りです。アンナ・クブリクは10年前に死んでいて、彼が実の娘として可愛がっていた娘の正体はアンドロイドで、彼はそれを我々に造らせた記憶を消去されている――どこにも真実などありません、何もかもが偽りの代替物です……ですがね、ミスタ・ヘイウッド」

 それまでその場から一歩も動かなかった老執事が、ざり、と足元の瓦礫を踏みしめて、初めて一歩、ヘイウッドに近づいた。

「それがなんだというのです? 我々を取り巻くこの世界をごらんなさい。合成された食料、管理された大気、そして人工の肉体……代替物という言葉を使うのならば、この世界全てがかつての正常な土壌と豊かな緑をもった世界の代替物なのですよ。そしてその代替物としての世界はもはやそこに住んでいる人間にとって現実であり真実だ。クブリク氏にとって、自分の娘が生きていていつまでも幸福に暮らせているという記憶が真実であり現実だった。我々は世界や、現実や、真実すら人工的に作り出している。それだけの技術を手にしている……そう、全ては互換可能なのですよ、ミスタ・ヘイウッド」

 ヘイウッドは首筋のあたりが氷に触れたように冷たくなるのを感じた。自分が両足で地面に立っていることが疑わしい。

 老執事の言っていることを否定しなければ、という強迫観念がヘイウッドの喉元を締め上げる。何事かを言おうとしたヘイウッドの口から漏れるのは、言葉にならないうめき声だけ。

 老執事はなおも続ける。

「人類の歴史は克服の歴史です。飢餓を、病を、災害を克服し文明を発展させてきた。かつての死病はすでに脅威ではなく、汚染された大気と大地に代わるドーム・プリズン型都市群を建造した。それが今、またひとつ新たな一歩を踏み出そうとしているに過ぎません。傷ついた身体に代わる人工の人体を造れるようになり、そして次に、失った対象を補填する方法を得た、それだけのことです」

「だが、記憶の改ざんは人間の倫理に踏み込む行為だ! 許されるはずはない!」

「ならばこの世界の全てを否定して、弓矢と石斧の狩猟時代にでも戻りますか? それが可能だと?」

 老執事の表情が変わり始めていた。紳士然とした表情の奥に、得体に知れない何かを感じ、ヘイウッドは銃把を握り締める。

「確かに倫理や常識というのは新しい技術を世界になじませる際に生じる最大の障害です。ですがね、世界にとっては倫理や常識は大牙防護壁ではあっても、個人にとっては必ずしもそうではない。具体的な奇跡が手の届くところにぶら下がっていれば、そんなものはたやすく吹き飛ぶものです。現にクブリク氏はそうだった。ところで……」

 老執事の口調が、なんでもない世間話をするときのものに変わった。対して、表情の奥ににおう得体の知れない何かは薄らぐことはない。

「エレナ嬢はお元気ですか?」

「貴様……!!」

 ヘイウッドは引き金にかけた指を鉄のようにこわばらせて、発砲しそうになるのをすんでの所でこらえた。

 全く予想していなかったエレナの名前が老執事の口から出たことに、ヘイウッドは冷静な思考力を失いつつあった。

 なぜ? なぜこの老執事がエレナの名を知っている? そして、この場でその名前を出して一体どうしようというのか?

「以前よりは改善されたとはいえ、やはり先天的に臓器の機能が衰弱していく症例は完全に根絶されてはいない……だからこそ人工臓器に対する需要は高まっている。しかしその反面、エレナ嬢のように臓器の大部分を人工のものに取り替えることに拒否感を覚える方はまだいる……悲しいことですな。確実に助ける方法があるというのに、当の本人がそれを拒んでいるというのは」

「何が、言いたい!?」

「我々には、できるのですよ。ミスタ・ヘイウッド」

 噛んで含めるように、一語一語をヘイウッドの耳朶の奥に染み込ませる口調だった。

 その言葉の意味を理解した瞬間、ヘイウッドは握りつぶさんばかりに銃把にかけた両手に力を込める。ぎりぎりと銃把が軋む。

 ヘイウッドを追い詰めるように、老執事がまた一歩、歩み出た。刃の切っ先を突きつけられたように、ヘイウッドは老執事に銃口を向けたままあとずさった。

「我々がわざわざあなたをここへ呼び、こうしてこの事件の一部始終を明かしたのは、あなたを次のクライアントとするためです。クブリク氏の殺害は我々にとっても予定外の出来事でした。我々はクライアントを失いましたが、しかし幸いにしてクブリク氏と同様の条件を備えた人物が見つかりました。その人物がクブリク氏を殺害したアンドロイドの案件に携わっていたことは僥倖でした」

 ざり、と老執事が歩みを進めた。ヘイウッドはあとずさる。

「もう一度、申し上げましょう。我々には可能です。あなたの恋人であるエレナ嬢に人工臓器の移植を施した上で、エレナ嬢とあなたの記憶を……エレナ嬢が人工臓器を移植されたという記憶を、選択的に消去することが、ね」

 食いしばった歯の隙間から、しゅう、と息が漏れた。まともに聞く必要はない。聞いてはいけない。

 だがヘイウッドには、なぜ自分がそうしなければいけないかは分からなかった。

 倫理? 常識? ついさっきまで反論の材料だったそれらが、今はどうしようもなく脆く、頼りない。

 「それは脅迫か? 断ればこの場で俺を始末すると?」……そう口にしたはずの言葉はしかし、ヘイウッドの口からは出てはこない。喉の辺りでぜいぜいという喘ぎになっただけだった。

「これは商談ですよ、ミスタ・ヘイウッド。あなたがこの提案を受け入れないのならばそれでもかまいません。あなたとはここで別れて、それでおしまい。我々は別のクライアントを探すだけです。我々の活動は今の段階では表ざたになってはいない。あなたがここで私と接触したこと、話したことを誰かに明かしたとしても、我々の正体を掴むことは不可能です」

 そして老執事は、もう一歩、踏み出した。靴底が瓦礫を噛む音が不自然に大きく聞こえた。

「選ぶのはあなただ。あなたの目の前には、今、知恵の果実があるのです。手を伸ばすだけで届くところにね。さて……」

 老執事は、微笑んだ。

「私にお手伝いできることは、ありますか?」






 C級市民の住む都市外縁部に造られた屋内庭園。

 換気用植物と浄化処理された土壌で造られ、C級市民の利用する施設にしては上質の陽光投射板の設置されたそこには、休暇を満喫する人々や家族連れが歓声を上げていた。

 ベンチに座った一組のカップルも、周りに人々と同じように、幸せそうな笑顔を浮かべていた。

「とても綺麗なところね、ヘイウッド。こんなところがあったなんて」

「俺たちC級市民には一番の贅沢さ、エレナ。それに……」

 ヘイウッドは少しだけ表情を曇らせる。

「昔よりは減ったとはいえ、遺伝的な衰弱が原因って話だが、まだ臓器の機能が先天的に弱い人はいるからな。俺たちのように、こうして色んな場所に出かけることもできないような人々だってまだいる。……正直なところ、こうしていることに多少の罪悪感を感じたりもするよ」

 やさしいのね、とエレナは呟く。

「あなたのいうこと、よく分かるわ。それに、今は技術が発達していて人工の臓器の移植もできるようになったけど……やっぱり私は抵抗を感じるわ。こんなことを言ってはいけないんでしょうけど……わたしはまともな身体でいられて良かったと思うわ」

 空気が重くなってしまった。ヘイウッドは、ふっと息をつく。

「……止めよう、こういう話は。俺たちは俺たちの幸福を満喫する……それでいいじゃないか」

「そう、ね。うん、それがいいわ。ところでヘイウッド、前に言ってたレストランの話、どうなったのかしら?」

 エレナがいたずらっぽく微笑んで見せると、ヘイウッドは言葉を濁す。

「ああ……いや、悪いんだがエレナ、もう少し待ってくれないか。実はこの間の仕事でちょっと失敗してな……」

「あら、不誠実なひとね、私に嘘をつくなんて」

 そんな幸福な会話が、木漏れ日の中に溶けていく。

 そこから少し離れた場所に、そこだけ切り取ったように黒い人影。初老の男。

 懐から携帯端末を取り出す。

「……私だ。サンプル2号の経過は順調。記憶の混濁、フラッシュバック、ともに認められず。今後も観察を続けつつ、次回のサンプルを捜索する」

 簡潔にそれだけを告げて、男は端末をしまい、出口へ向かった。

 一度肩越しに後ろを振り返り、一言だけ呟いて、その場から消えた。

「どうか、お幸せに」



2作目の投稿になります、人形使いです。

この作品は2008年3月19日に亡くなったアーサー・C・クラーク氏の追悼の意味を込めて、登場人物の名前の大部分は彼の著作から引用しました。

SF愛好家の方はにやりとして下さると幸いです。

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[良い点] オチがいいです [気になる点] 分割して欲しかったかな [一言] 面白かったです
[良い点] 物語へ没頭させつつ、冗長にならないくらいの、作品全体の文章量 [一言] 切ないな、と思ったのが私の感想です。 気持ちはよく分かりますし、あの老執事の提案を拒まなかったヘイウッドの選択を愚か…
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