真夜中のおかえり
「ただいまー」
誰もいない空間に声をかけ、適当に靴を脱いで狭い玄関を上がる。彼女と別れて半年。真っ暗な部屋の電気を点ければ、乱雑なキッチン、足の踏み場もないリビングダイニングが、朝と変わらず迎えてくれる。
至って平凡な男の一人暮らし。片付けにはめっぽう苦手なうえに、日々仕事に終われていると、余計に身の回りのことに目が向かなくなる。一度ハウスクリーニングを依頼したが、月が経つうちに、すっかり元通りになってしまった。
「はあ……、疲れた」
村瀬はソファーに散らかった衣類を脇にどかし、ネクタイを解くと倒れ込むように座った。テレビ上の掛け時計を見ると、時刻は既に深夜一時を回っている。残業で帰宅するのが遅いのは珍しくないが、この日はイベントの企画書を来週までに仕上げなくてはいけないため、いつも以上に帰りが遅くなったのだ。
村瀬はとりあえずリモコンを弄り、深夜番組を面白味もなく眺める。目蓋が重く、耳には笑い声が潮騒のように聞こえるだけだ。疲弊した躰には、なんだか五月蠅い気さえする。
テレビを消した村瀬は、スマホをビジネスバッグから取り出し、ラジオアプリを開いた。ラジオならば、瞳を閉じていても心地好く耳へ届くだろう。いつもなら寝る前に聴くのだが、今夜はシャワーを浴びるのも億劫で、仮眠のつもりでラジオをかけた。
幸い、明日は休日である。このまま本格的に寝てしまうのも悪くないな、と思いながら、ラジオパーソナリティの低音ボイスに耳を傾けた。
低音といっても、女性のしっとりと落ち着いた声だ。恋のお悩み相談というコーナーで、タイトルの通り、リスナーからの恋愛相談に答えるものだった。
「えーと、次の迷える子羊さんはですね……。『こんばんは。早速ですが、私には好きな人がいます。同じマンションに住むMさんという方なんですが、隣り合わせにいるにも関わらず、未だろくに話したことがありません』なるほど、なるほど」
同じマンションねえ……。村瀬は意識を半分遠退かせつつ、頭の中で呟く。大学時代に住んでいた集合住宅では、村瀬好みのスレンダー美女と頻繁にエレベーターで乗り合わせていたため、話したことはなくても好意を寄せたことはあった。恐らくこのリスナーも、そんな具合だろう。
「『その人はいつも帰りが遅く、夜半になると、ただいま、という声が私の耳に聞こえてきます。たぶん、一人暮らしなのでしょうが、癖なんでしょう。私はそのとき密かに、おかえりなさい、と返します。我ながら、情けないなあと思います』奥手リスナーの、焦れったい感じが伝わってきますね」
ただいま。村瀬は急に目が冴えてきた。自分も常日頃、ついつい言っているではないか。彼女と二年余りも同棲していたときの癖が抜けないのだ。もちろん、独りの部屋に帰る寂しさを紛らわす気持ちがなくもない。村瀬は何だか己について話題にされている気になり、ソファーから躰を起こした。
「あ、頂いたメールにまだ続きがありますね。『実は一度、会話をしたことがあるんです。仕事のご依頼でお邪魔して、お部屋をピカピカに仕上げた後で、彼は私にありがとうございます、と仰ってくれたんです。私はその瞬間恋に落ちました。そうしたら、彼と同じマンション、隣の空き部屋に、運良く引っ越せたんです。これって、運命だと思いませんか?』」
ラジオパーソナリティーが、一瞬声を詰まらせたのがわかった。すぐに明るい口調で、「あなたの恋、応援します!」と沈黙を破る。エンディングミュージックが流れると同時に、村瀬の額には多量の汗が噴き出ていた。本来寛げるはずの居場所が、とてつもなく気味が悪い。
おかえりなさい。気配に気付かない村瀬の耳許で、ふとか細い女性の声が囁いた。