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(1)喧嘩

朝日の光で目が覚める。

栗色の長い髪をベッドに波漂わせている少女が、ゆっくりと体を起こし、立ち上がった。

光りが差し込む窓から外を見ると、左右対称の広い庭園が目に入る。

何度見ても慣れない光景だ。

部屋の中は天蓋の付いたベッド、豪奢な彫刻がされたドレッサー。

天井はシャンデリア。艶輝いている天然木の机。

なぜ自分がこの豪邸に住むことになったのか。

住み慣れない部屋の中、机上に置かれた父の遺影を手に取る。

「おはよう、お父さん」


学校の制服に着替え終わると、見計らったように執事の葉月はづきがノックをし、入ってくる。

綾音あやね様、おはようございます。朝食の準備を龍斗りゅうと様の部屋にご用意しました」

「おはようございます、葉月さん。すぐに行きますね」

綾音は葉月が出ていった後に、姿見で恰好を整え、部屋をでる。

そして隣の部屋のドアをノックし、声が返ってきたので中に入る。

「おはよう、龍ちゃん」

部屋の奥にあるベッドに腰掛けている男性に声をかけた。

黒髪で目つきの鋭い男性が綾音を見る。

彼の名前は龍斗。

綾音は龍斗の隣に立つ。

「あんまり眠れなかったの?」

そう尋ねると、龍斗は別にと答えるだけだった。

朝は機嫌がよくない。毎日の事だから慣れてきたが、最初はやはりやりづらかった。

ベッド脇の丸テーブルには、綺麗に朝食が並べられている。

ワンプレートにスクランブルエッグとサラダ、ソーセージ。

小皿に入ったソースのかかったヨーグルト。

プレートの横のカップにはコーンスープ。

テーブルの真ん中にはバスケットが置いてあって、焼き立てのパンが並んでいた。

そのどれもは見慣れた食材だが、味は今まで食べていた物とは段違いだ。

美味しそうな朝食に綾音が見とれていると、腰に龍斗の両手が回ってくる。

「まだ眠い」

「遅刻しちゃうよ」

そう言って、綾音は彼の頭を撫でた。

龍斗は小さく息をつき、両手を離す。

そしてテーブルの椅子に腰を下ろした。

綾音もその隣に座る。

この屋敷に来たばかりの時は、広間の長テーブルで執事に見守られながら食事をしていたのだが、それがどうしても綾音が慣れず、だんだん朝の調子に響いてきたので、こうして龍斗の部屋でとるスタイルに変えてもらった。

「宿題は大丈夫だったのか?」

コーヒーを一口飲んで龍斗が尋ねる。

綾音はオレンジジュースを喉に通し、頷く。

「なんとか…」

いつもは龍斗に宿題を見てもらうのだが、昨晩彼は不在だったため綾音一人で終わらせた。

綾音は、この春高校1年生になった。

地元の公立進学校に通っている。

学力は悪くはないのだが、先月の出来事でしばらく勉学に手がつかず、今は龍斗に勉強を教えて貰いながら、なんとか周りに追いつこうとしている。

龍斗は都内の有名な私立進学高校の3年生だ。

だから二人は違う制服を身につけている。

「見せてみろ」

そう言われ、綾音は一度部屋に戻り、カバンからノートを抜き出し戻ってきた。

朝食のパンをかじりながら、龍斗がパラパラとそれを捲っていき、視線を巡らせる。

「ここ違う」

指を指した場所を覗き込む。ぱっと言われても何が違うのかわからない。

龍斗は机からペンを取ってきてスラスラとノートに回答を記し、綾音に渡した。

「今日は時間あるから見られる」

「うん。あ、でも私、今日は放課後約束があるの。帰り、少し遅くなるから夕食のあとでも良い?」

そう言うと龍斗の眉がピクリと動いた。

「約束って?」

声色が少し低くなった。

綾音は萎縮して恐る恐る口を開く。

「部活見学……まだどこにも入ってないから、友達の奈々(なな)が一緒に回ってくれるって…」

「入らなきゃいけない訳じゃ無いんだろう」

「うん、まあ……でも皆、なにかしら入ってるよ」

そう言うと龍斗は黙った。

前から、部活の話題になるとあまりいい顔をしない。本音は入って欲しくないのだろうと綾音は察していた。

けれども、せっかくの高校生活だ。

自分も楽しみたいから、彼女は部活に入るのは意欲的だった。

「そ、そろそろ出ないと。時間、ほら」

綾音は時計を示す。8時少し前だ。

いつもは8時10分には出なければならない。

綾音は席を立ち、部屋の端にあるハンガーから、龍斗のジャケットを手に取った。

彼の後ろに立ち、着衣を促す。

龍斗はまだ不満そうにしているが、仕方ないと、その袖に腕を通した。

綾音がネクタイを整えてやり、鞄を渡す。

「……入りたい部活が決まったら、ちゃんと相談するから」

そう言うと、彼は何も言わず綾音を抱き寄せた。


龍斗は綾音が好きだ。


はっきりと言われたわけではないが、彼の行動で伝わってくる。

綾音も似た気持ちは抱いている。

つまりは両思いなのだが、だからと言って上手く行っているかと言えば、この通りだ。

龍斗は束縛が強い。

綾音がそれを汲む形になるのが常である。

それと、今の綾音は彼にだいぶ助けられた生活をしている。

その引け目から彼の言い分を尊重するよう過ごしていた。

この家で肩身を狭くすることなく暮らせているのは、彼の庇護があってこそだからだ。


綾音はこの冬、唯一の家族である父親を失った。

不慮の事故死で、何の前触れもなかった。

身寄りのない綾音は施設に行くしか無かったが、それを父の親友である龍斗の父、惣島賢治そうじま けんじが、養子としてひきとってくれた。

そうして彼女はこの家で暮らすことになる。

龍斗とは幼い頃はよく遊んでいた。

けれども、彼が10歳の時に海外留学をしてからは顔を合わすことはなく、父が亡くなる二カ月ほど前に、久々に顔をあわせたのだ。

久しぶりの再会に、龍斗は素っ気なかったが、綾音の父が亡くなった時に、彼の父親と共に駆けつけてくれ、それから綾音の面倒を見てくれている。

当初は同情だと思っていたが、共に生活をするにつれ、彼の好意が見えてきた。

今ではこうしてふと抱きしめられたりする。


「そろそろ行こう」

照れながら彼の胸元からその顔を見上げる。

龍斗は綾音の頬を撫でその唇に口づけた。

コンコンとドアをノックする音が響く。

「車の準備が整いました」

執事の声がドア向こうから響く。

「わかった」

龍斗の体が綾音から離れる。

綾音は鞄をとってくると言い、自分の部屋に戻った。

朝から心臓に悪い。紅潮した顔を鏡で見て、崩れた髪を整える。

鞄を持ち部屋を出ると、龍斗からノートを渡された

「忘れ物」

綾音はお礼を言って、それを鞄にいれた。

龍斗の後ろを歩き、玄関を出る。

「いってらっしゃいませ」

館の使用人達が頭を下げてくるのを横目に、二人は玄関前に停車しているロールスロイスに乗る。

後部座席に座り、車が発車する。

「学校の手前で降ろしてもらえますか?」

綾音がおずおずというと、龍斗がダメ出しをした。

「うちの学校の前で止まると、すごく目立つから、恥ずかしいよ」

綾音の学校は公立校だ。

その正門前に高級車が止まれば、皆ざわつく。

そのざわめきの中で一人車から降りるのは本当に恥ずかしい。

綾音がそういうが、龍斗は首を縦には降らない。

「誘拐されたらどうする」

そんな心配したことないのだが、龍斗曰く、うちの人間なんだから用心しろと言われる。

「学校だって、あんなとこじゃなくてうちに転入すれば良いのに」

「……友達がいるから、離れたくないの」

この会話は、ほとんど毎朝交わされる。

お互い自分の意見を譲らず、その間に学校へ着く。

今日もそうなり、綾音は下を向いて赤面しながら正門を潜る事となった。

案の定、登校中の生徒がちらちらと見てくる。

「ほら、一年のあの子」

「すごいね、お嬢様なのかな」

「違うよ、なんでもあの年で玉の輿とか…」

話したこともない生徒がひそひそと綾音の事を話している。

俯いたまま教室に向かい、席に着く。

「おはよう綾音!今日も凄いね!」

明るい声で話し掛けてきたのはクラスメイトで幼なじみの奈々だ。

「私も乗ってみたいなー、ね、今度頼んでみてよ!」

すると奈々が男子に頭を小突かれる。

それは同じくクラスメイトで幼なじみのはるだ。

二人と綾音は、近所で小学校からの幼なじみだ。

「綾音が世話になってるんだから失礼な事考えんなよ」

綾音は二人の顔を見て頬を緩める。

「おはよう、奈々、悠」

「ねえねぇ、宿題やった?わかんないところあって、見せてくれない?」

「お前は全部わかんないだろ」

「ひっどーい!」

悠と奈々のやり取りに笑っていると、朝礼の鐘がなった。

皆バタバタと席に着く。

新学期が始まって一カ月がたった。

けれども綾音がこの学校に通い始めたのは先週からだ。

父が亡くなって一カ月ほどは、何も気力が起きず、登校もできなかった。

その間、奈々と悠は毎日メールで連絡をくれ、心配してくれた。

こうして登校できるようになってからも、良く気にかけてくれている。

今日の放課後も、この二人と部活動の見学に行く予定なのだ。

龍斗は良い顔はしないが、せっかくの高校生活だ。

新しい友達も欲しい。

何とか説得して、入部を許してもらいたい。


許して……


そう、考えてしまうのが、ふと悲しくなる。

今の自分の生活が送れているのは龍斗の家のおかげだ。

だから、彼らの不服を買わないように過ごそう。

そうしなければいけない。

でも、そうすることで自分の気持ちはどこに行ってしまうのだろう。

望まれるままに生きた先に、自分は消えてしまうのでは。

そんな、不安も心にあった。


惣島そうじま、ここわかるか」

はっとする。気づけば数学の授業が始まっていた。

教科書も出してなかったので慌てて鞄を開く。

「綾音、ここ」

隣の席の悠が問題の個所を示してくれた。どうやら昨日の宿題の答えを聞かれているようだ。

綾音は急いでノートを開く。

そこには龍斗が書き込んでくれた解答があった。

それを持ち、前に出て、そのまま黒板に書き写す。

「おー、すごい、良く解けたな。でもぼうっとしてちゃだめだぞ」

先生が褒め、綾音は照れながら自席に戻った。

また、龍斗に助けられている。

褒められたのに、もちろん、嬉しくはなかった。

自分は助けられてばかりだ。


放課後になり奈々が綾音の元に来た。

「さ、行こう。どういう部活がやりたい?私はテニスかなぁ」

「うーん、どうしようかな」

出来れば、お金のかからない部活が良かった。

父の遺産は、家業を畳むときに、ほとんど使ってしまった。

残り少ないお金を、この高校生活にあてるならなるべく節約したい。

運動部はお金がかかりそうだ。

「文系……かな。声楽部とか。」

「綾音、唄うまいもんね。軽音部とかもあるよ」

高校の部活は本当に多彩だ。

その全てがまとめられた冊子に目を通す。

どれも楽しそうだ。

「惣島さん」

綾音が振り返ると、そこにはクラスメイトのさとしがいた

「映像部、興味ない?」

「映像部?」

「うん。映画を撮るんだ。惣島さん。凄く画面映えすると思うんだよね」

「わ、私は目立つのはちょっと…」

「そうなの?勿体ないよ。すごく良い被写体なのに」

両手の親指と人差し指で四角を作り、そのフレームが、綾音の体を撫でた。

するとどこから来たのか、悠が哲を小突く。

「何してんだ」

凄まれ哲は苦笑いする。

「き、気が変わったらおいでよ、じゃあね」

そういって、哲は急いで教室を去って行った。

「本見ててもわかんないし、見学行こ!」

奈々にそう言われ、綾音は悠も連れて見学に行くことにした。

「悠はどの部活にするの?」

綾音が尋ねると、悠は両腕を掲げ、ボールを投げる仕草をした。

「俺はバスケ」

「中学の時はサッカーだったのに」

「三年やったら飽きるさ。」

悠はスポーツ万能だ。

勉強もそこそこ出来るので女子の人気も高い。

でも浮いた話はなく、綾音か奈々くらいとしか、女子とは話さない。

「奈々と一緒にテニスは?」

綾音が聞くと、奈々の方が首を振った。

「こいつがいたら練習ぜったい邪魔するし。ダメダメ。」

「そんな暇じゃねーよ。と、ほら声楽部だって」

見学期間中は活動が見やすいようドアや廊下側の窓が開けられている。

覗くとちらほら数人しかいない

「あんまり活動してなさそうだね」

奈々が小声で綾乃に囁く。

綾乃は頷き、次の部活を見に行く。

そうして、新聞部、吹奏楽部、科学部、家庭科部、放送部、その他いろいろ見て回ったが、どれもいまいちだった。

「最後は…天文部だって」

天文部の部室を覗くと、そこには明るい茶髪をした男子生徒が望遠鏡を磨いていた。柔和な顔で穏やかな雰囲気だ。

その生徒は綾音達に気づき微笑む。

「見学?」

「はい」

「じゃあ座って」

「あ、この子だけです」

そう言って奈々は綾音を示した。

綾音は男子生徒に示された椅子に腰掛ける。

「僕は部長の如月きさらぎ。部員は五人。三年男女の二人に、二年が男二人女一人の三人。活動は主に金曜日。夜に近くの高台で天体観測。そのままキャンプ。夏休みは合宿もするよ」

「キャンプってしたことないです」

「そう、楽しいよ。それ目当ての子もいる。」

そう言って如月は笑った。優しそうな人だ。

「人数少ないから結構好き勝手してるよ。ちゃんと星を見る人もいれば、キャンプに精を出す人もいる。部室は毎日開放してる。ほとんどお喋りだよ。」

こじんまりとした温かそうな部活だ。

「綾音、どう?」

奈々が尋ねてきたので綾音は頷いた。

「うん、素敵だと思う」

「ありがとう。ここで決めなくても良いよ。体験入部もしてるから、今週金曜の天体観測。参加してみる?」

そう言われ、綾音は悩んだが、勇気を出して行ってみることにした。

部長と連絡先を交換し、部室を後にする。


「ああ言うので良いのか?綾音、中学は吹奏楽だったろ」

頭の後ろで手を組んで、悠が綾音を見て言う。

「うん、でも全然違うのも良いかなぁって。部長さん。優しそうだったし」

「思い出した!如月先輩って聞いたことある!すごい頭良いんだって。全国模試で上位10位にしょっちゅう入るとか」

「ホントか~?なんかぼけた感じの人だったけどな」

「なに悠、嫉妬?だっさーい」

「はあ?ちげーし。何に嫉妬すんだよ」

二人のやりとりに綾音は笑った。でも心の奥底でひっかかるものがあった。

龍斗は、果たしてこの部活を許してくれるだろうか……。



「駄目だ」

ああやっぱり。

夕食を龍斗の部屋で囲んでいる中、それとなく聞いてみたらこの回答だ。

まだ「天文部に入りたいんだけど」としか言っていないのに。

「どうして?」

「星が見たいなら俺が連れて行ってやる」

いや、そう言うことじゃない。

「部活に入れば、他の学年の人とも関われるし、人間関係を広げたいなって」

「じゃあ社交パーティーに連れて行ってやる」

それって高校生いるの…?

「同じ学校の人がいいの」

綾音も譲らなかった。

「うちに転入すれば部活してもいい」

そんなことをしたら凄い介入してきそうだ。

綾音は首を横に振った。

「学校を変えたくないのは何度も話してるでしょう。……龍ちゃんは、私が一人で高校生活送って楽しいと思う?」

そう尋ねると龍斗は黙り、そして口を開いた

「……高校なんて行かなくて良いんじゃないか」

「なにそれ……」

綾音は言葉が出ず、席を立ち上がった。

「もういい、私、明日入部届出すから」

そう言って龍斗の部屋をあとにして、隣の自室に戻った。

入った勢いのまま、ベッドに倒れ込み、枕に顔を押しつける。

怒りと悲しみで涙が出た。

高校なんて、なんて、どうしてそんな言葉が出てくるんだろう。

彼は自分の話を何も聞いてくれない。

どうしてあんなに拘束するんだろうか。

本当なら、喜んで欲しい。

学校であった話を聞いて欲しい。

それなのに……

「酷いよ……」


夢を見た。

父が出て来て、惣島のおじさんが出て来て、龍斗がいた。

昔、綾音の家におじさんと龍斗が遊びに来た時のことだ。

父はおじさんと居間で楽しそうに酒を交わし、綾音は龍斗と中庭で遊んでいた。

ボールで遊んでいたら、それが高い木の枝に引っかかってしまった。

龍斗が登って取りに行く。綾音はそれを木の下から見守っていた。

ボールに手が触れ羽根つきながら地面に落ちる。

すると、龍斗がバランスを崩し、木から落ちてしまう。

草藪に落ちた龍斗に駆け寄ると、目をつぶり動かない。

泣きながら綾音は彼の名前を呼ぶ。

そして彼の胸元に泣きつくと、ばっと起き上がり龍斗は大笑いした。

綾音はほっとして、泣きながら笑った。

優しくて面白い龍斗が綾音は大好きだった。

綾音が振り向くと、大きくなった龍斗が綾音の手を引きどこかへ連れていこうとする。

どこに行くのかと尋ねても龍斗は答えない。

綾音はその背中を見つめながら引っ張られるだけだ。

気付くと自分は細い道を歩いていた。

道の外は崖になっていて、龍斗の手を離したら落ちてしまいそうだ。

だから手を離さないようついていく。

ふと、龍斗は綾音を振り返り、その手を離した。

綾音は落ちていく、暗い暗い地の底に。


はっと目を覚ました。綾音は昨晩あのまま眠ってしまい、既に朝になっていた。

時計を見ると6時を指している。

綾音はベッドから立ち上がり、部屋の姿見の前に立つ。

目元が腫れてて酷い顔だ。

綾音は部屋を出た。

廊下を歩き、キッチンを覗く。

そこには朝食の準備に取りかかる葉月の姿があった。

「葉月さん」

声をかけると葉月が気づく。

「綾音さん、おはようございます」

「昨日寝ちゃって、シャワー浴びても良いですか」

「はい、掃除は済ませてありますから、使って下さい。」

綾音は部屋に戻り、着替えを持って浴室へ向かう。

惣島家の浴室には来客用と家人用の二つがあり、綾音は来客用のを使わせて貰っている。

気を使って女性用に分けてくれたのだ。

誰もいない浴室に足を踏み入れる。

暖房を入れてくれたようで、衣服を脱いでも早朝の寒さはなかった。

シャワーを浴び、体を洗う。

朝食時には龍斗と顔を合わせなければいけないと思うと気が重い。

昨日は怒ったあとにフォローもなく眠ってしまった。

きっと、龍斗は怒っているだろう。

シャワー止めて、旅館の大浴場ほどの大きさの湯船に体を浸からせる。

悩んでいても仕方ない。自分は悪いことをしたわけではない。

きちんと気持ちを伝えないと


でも、


こんな風に立派なお風呂に浸かれているのも龍斗の家のおかげだ。

……折れるべきなのだろうか、彼の望むままに。

綾音は首を振った。

そんな生き方をしてたら、ずっと言いなりだ。

譲りたくないことは言わなければ、それで怒らせたとしても…怒らせたら……


答えは出なかった。

綾音は風呂から出て、体と髪を乾かし、部屋に戻る。

するとドアをノックする音がした。

「綾音様。朝食の準備が整いました」

綾音は返事をして俯く。


どう。話そうか。


気持ちが決まらないまま、龍斗の部屋の扉を叩く。

しかし、返事はない。

やっぱりまだ怒っているようだ。

ドアを開けると、彼はベッドに座ったままこちらを見ない。

綾音はその隣に座る。

「おはよう……」

小さい声で呟くが返事は返ってこない。

綾音は悲しくなってきた。

自分はそんなに悪いことをしたのだろうか。

「龍ちゃん、私……」

綾音の言葉が終わる前に龍斗は立ち上がった。

「昨日の宿題、出来たのか」

すっかり忘れていた。

「やってない……」

「……持って来い」

綾音が部屋に戻り、宿題を持ってきて龍斗に渡す。

龍斗はパラパラとそれを捲る。

「そんなにないな、今出来る」

そう言われ、綾音は朝食を取りながら宿題に取りかかることになった。

時折手を止めて、悩んでいると龍斗が教えてくれる。

食事が終わる頃に、なんとか終わらせられた。

「龍ちゃん、ありがとう」

綾音がそう言うと、龍斗はチラリと綾音を見るだけで何も言わなかった。

何も言わない、と言うより、言いたいけれど言うのを我慢している感じだ。

「帰ったら……また、ちゃんと話そう」

綾音がそういうと、龍斗は綾音の目を見た。

「俺の意見は変わらない」

そう言って、彼は立ち上がり、制服のジャケットを身に纏う。

綾音は何も言えなかった。

自身も部屋に戻り、鞄を取りに行く。


玄関から外に出ると、いつも通りその先で車が待っていた。

龍斗は先に乗り込んでいて、綾音が乗ると車の扉が閉まり、発車する。


沈黙


車の走行音だけが車内に響いている。


「入部届……今日出すのか」

窓の外を眺めながら龍斗が聞いてきた。

「駄目?」

綾音がさらに尋ねる

「……駄目だ」

「……どうして、私だって」

「調べさせる。ちょっと待て」

「調べるって何を?何がそんなに不満なの?」

「昔みたいに変な奴がいたらどうする」

「変な奴?」

何のことだから綾音はわからなかった。

中学の吹奏楽には、おかしな人などいなかった。そもそも中学時代は龍斗と会っていない。小学校も部活動は音楽部で、それも龍斗は知らないはずだ。

何のことだろうか

「とにかく、今日は駄目だ。」

「……それで、調べて、龍ちゃんが駄目と言えば駄目なんでしょう。学校に通ってるのは私だよ。どうして私が決めちゃいけないの」

「心配していってる」

「信用してないだけじゃない。子供じゃないもの。自分で考えられるし、自分で選びたいの」

龍斗は窓から目を離し、綾音へ体を向けた。

「選ぶのなんか誰でも出来る。じゃあその後、何かあった時どうするんだ。」

「その心配の意味がわからないの!」

「お前に何かあったら俺が困る!」

「どう困るの!」

龍斗は言い淀んだ。

「…そうやって、全部龍ちゃんの言うことなんて私は聞けない!私だって自分で考えて行動できるもの!」

「……出来ないから、ここにいるんだろう」

その言葉に綾音は息をのんだ。

「……じゃあ、いなくなれば良いんでしょ……」

そう言って、綾音は信号待ちをしていた車から飛び出した。

「おい!」

龍斗が止めるが聞かず、他の車の間を縫い、歩道へと走っていく。

追いかけようとしたところで、信号が変わり周りの車が動き出した。

龍斗は舌打ちをした。

「あの…、どうしますか?」

運転手が、おずおずと尋ねる。

「……どこかで止めてくれ。探しに行く」


歩道をめちゃくちゃに走り、綾音は逃げるように足をとめなかった。

渡ろうとした道が赤信号になり、そこでやっと足を止める。

泣きながら息切れをしている綾音を、周りの人がちらちら見ている。

「惣島さん」

聞いたことのある声がしたのでそちらを振り向く。

昨日会った、天文部の部長の如月だった。

「大丈夫?」

そう言われ、綾音は返事をするが、涙が止まらない

その様子を見て、如月は顎に手をあて何かを考えている。

そして信号が変わったと同時に彼女の手を取った

「さぼっちゃおうか」

綾音は驚いたが、手を引かれるままついていった。


近くの公園に行き、綾音はベンチで待つように言われた。

戻ってきた如月は手にペットボトルを二本持ち、一つを綾音に渡す。

「奢りだよ」

そういって笑い、綾音の隣に座った。

「ありがとうございます」

綾音はそう言って、受け取ったボトルを膝の上に乗せた。

「飲もうよ、最近出たオレンジ抹茶味」

如月はそれをごくごく飲んだ。

綾音も一口飲んでみるが何とも言えない味だった。

「結構不味い」

如月はそう言って笑った。

綾音もつられて笑う。

「何で買ったんですか?」

「だって飲んだことないし。美味しいかもしれないでしょ。味覚は好みがあるから人によって当たりは違うしね」

面白い人だ。綾音はそう感じた。

「落ち着いた?」

「はい、ごめんなさい。学校、行きましょうか?」

「もういいでしょ。放課後部室に行ければ良いかな、僕は」

綾音はこうして学校をサボったことはほとんどなかった。

「よくサボられるんですか?」

「いや初めて」

綾音はびっくりした。

てっきり常習だと思っていたからだ。

「ごめんなさい、巻き込んじゃって」

「良いよ、そんなに行きたくなかったしね。授業って退屈だしさ。教科書読めば済むことを。わざわざ先生が読むだけなんだもの。」

教科書を読んでわからないところを先生が教えてくれているのだが、如月にはそれは不要なようだ。流石、全国模試10位入り。

「惣島さんは、学校好き?」

「え…、はい。友達と会えるから」

「そうだね。そのくらいかな学校の価値は。そうだ、部活どうするの?」

「……入りたいんですけど…」

綾音は昨晩のことを話した。

龍斗の事は言わず、家族に反対されてると言って。

「随分過保護だなぁ。うちなんて正反対だよ。親なんてほとんど家にいない」

「働いてるんですか?」

「うん、小さい頃からずっと。お婆ちゃんに育てられたようなもんだよ。でもお婆ちゃんが小学生の時に亡くなって、それからは学校行くときも帰っても家の中真っ暗」

「それは……寂しいですね」

「今度遊びに来る?」

綾音はいきなりの誘いにドキリとし返事が出来なかった。

「部員の子は何回か来たことあるんだよ。皆で夜までスプラしたり、楽しいよ。親より友達の方が好きだな。親はお金はくれるけど、それだけだから。惣島さんは?」

そう聞かれ、綾音は言い淀んだ。

そしてゆっくり口を開く。

「私…小さい頃、母が亡くなっていて、父も…一ヶ月前に亡くなったんです」

「あれ…?じゃあさっきの家族って?」

「父の知り合いの善意で、養子にしてもらって……」

「そうか、あれ、惣島さん、4月は休んでた?」

ドキリとした。綾音は父が亡くなってから塞ぎ込み、学校を休んでいた。

通い始めたのは先週からだ。

「はい……なかなか立ち直れなくて」

「そう、なんで立ち直れたの?」

「それは……寄り添ってくれる人がいたから」

それは奈々や悠、そして惣島家のことだ。

ふと、龍斗の事が気になった。

父が亡くなったときの彼の優しさを、思い出す。

そして、先程の自分の感情的な行動を悔いた。

「それは、幸せな事だね」

「そうですね、そう、私、一人だったら立ち直れなかった」

「自分の傍に誰かがいてくれるって、本当に恵まれたことだと思う。僕はそれがないから特にそう思うんだろうけど」

「でも、先輩だって、部員の皆さんと仲が良いんですよね」

「そう、やっと自分の場所が見つかった気がするよ」

如月はそう言って立ち上がった。

「惣島さん、下の名前は?」

「綾音です」

「綾音…綾ちゃん?」

「友達は、綾音って呼びます」

「綾ちゃんじゃ嫌?」

「いえ…」

「じゃあ綾ちゃんで。綾ちゃん、天文部おいでよ。放課後少しやるくらいなら良いでしょ?」

「でも、届出出さないのに、そんなこと…」

「皆、事情を話せば気にしないと思うけどな」

そう言われると、それでいいのかと思えてしまう。

でも

「家族に、隠し事をしたくないんです」

綾音がそう答えると、如月は驚いた顔をし、そして微笑んだ。

「綾ちゃんは幸せな子だね」

そう言って如月は綾音に近づきその耳元に囁いた

「これから僕の家行って遊ぼうよ」

「えっ……」

「外でうろうろしてたらお巡りさんに補導されそうだし、ね?」

「……」

綾音は考えた。確かにこうしていればその可能性はなくはない。

補導されれば学校に通報され、家にも連絡が行くだろう。

先輩の家に行けば、その心配はない。

しかし……

「私、スプラってやったことないです」

綾音の言葉に、如月は驚き、そして今度は大声で笑った

綾音は何が可笑しかったのかわからなかったので、首を傾げた。

スプラをやったことがないのは、そんなにおかしな事なのだろうか。

一通り笑い終えた如月は笑いすぎて零れた涙を、指で拭う。

「君、本当、面白いね。」

そう言ってから彼は綾音を抱きしめた。

突然のことに綾音は赤面し動けない。

「凄く綺麗だ。ねえ、好きな人いる?」

「え…………はい」

「そう、まあいいや。」

そう言って如月は綾音から離れた。

「じゃあ今度部室でね。僕は帰るよ。あー、面白い。バイバーイ」

如月はそう言って綾音に手を振り公園を出て行った。

残された綾音は如月の行動に首を傾げ、しばらく動けなかった。


そうしていたら、ポツリポツリと雨が降ってきた。

綾音は急いで木の下に隠れる。

雨はすぐに土砂降りになってしまった。

木の下にいても雫がぽたぽた落ちてきた。

屋根のある遊具もないので途方に暮れる。

如月は大丈夫だろうか。

どうしたものかと考え、ふと思いついた。

綾音は土砂降りの中に、意を決して走り出し、公園を出た。


15分ほど走って着いたのは人気のない大きな一軒家だ。

綾音は鞄の中を漁り、ポーチを取り出し、さらにその中から鍵を取り出す。

玄関の鍵穴にそれを差し込み回す。

カチャリと解錠の音が鳴り、扉を開ける。

中に入るとそこは真っ暗だった。

綾音は近くにある灯りのスイッチを押した。

途端に玄関、そして廊下の明かりがつく。

ここは綾音の実家だ。

もう住んではいないのだが、惣島のおじさんが、いつでも来られるようにと電気水道ガスは契約したままにしてくれていた。

父が亡くなってから一ヶ月ほどはこの家で綾音は過ごしていた。

つまり10日ほど前には住んでいたので、中は然程汚れていない。

綾音はずぶ濡れのまま浴室に行き、風呂場にある物干しに服を掛けた。ついでにそのまま温かいシャワーを浴びる。

使いなれた家の風呂は落ち着く。

浴槽を軽くすすいで、お湯を溜め浸かる。

温かい湯に、冷えた体が溶けるようだ。

見上げると見慣れた天井があった。

懐かしい。

体が温まり、風呂を出る。

浴室乾燥機をつけて、制服乾かす、その間に体を拭き、裸のまま自室へと向かった。

見慣れた部屋が懐かしく感じる。

クローゼットを開け、その中の箪笥から下着と服を取り出した。

泊まりに来た時のために数枚置きっぱなしにしておいて良かった。

着替えて、そのままベッドの上に横になる。

見慣れた天井、壁。

ベッドの上にあるぬいぐるみを胸元に引っ張り抱きしめた。

懐かしい空間が今は愛しく、そして怖い。

もう誰もいない家。

どのドアを開けても、耳を澄ましても、誰も何もいない。

外の雨音だけが部屋に響く。

綾音は体を起こし、部屋を出た。

その足は父の部屋へ向かう。

父の部屋には大きなダブルベッドが部屋の中央奥に置いてあるだけだ。

幼い頃はここで親子三人で眠っていた。

母が亡くなってからは二人で眠った。

小学生になると綾音の部屋が用意され、父はもう一緒に寝てはくれなくなった。

それがとても寂しかったのを今でも覚えている。

父が亡くなってからの一ヶ月は、このベッドで綾音は眠っていた。

父の匂いが染みついたベッドは良い匂いではないが、落ち着いた。

ここで何度も父、そして母の夢を見た。

そして、目を覚ます度に泣いた。


綾音は父のベッドに腰掛け、横になった。

まだほんのりと匂いが残っている。

布団の中に入り、冷えかけた体を温めようとするが、ベッドの中もひんやりとしていた。


父が亡くなってからの一ヶ月は、夢のように意識がはっきりしていなかった。

それが今、ぽつりぽつりと甦ってくる。

綾音は父が亡くなってからは一ヶ月、この家を出なかった。

心配した奈々や悠が会いに来てくれ、外に出た方が良いと言われたが出なかった。

外に出たら、父がいなくなる気がした。

この家にある父の匂いを、面影を、消したくなかった。


その一ヶ月、綾音は食事を父と自分の二人分、毎回用意していた。

用意せずにはいられなかった

認めたくない。

認めたくない。

父は帰ってくる。

絶対帰ってくる。


でも

父は帰ってこなかった。

それでも作り続けた。

その食事は、そうだ、父の代わりに龍斗のが食べてくれていた。

あの時、綾音は毎晩この家で龍斗と一緒に過ごしていた。

壊れていた綾音を、ずっとそばに居て寄り添ってくれていた。

父のベッドで眠り、毎朝泣いて起きる綾音が泣き止むまで、待ってくれていた。

龍斗はその一ヶ月、毎日この家から学校に向かい、夜になると帰ってきた。

そうだ、確か眠るときも一緒にいてくれた。

閉じていた記憶が少しずつ思い出されてくる。

綾音は、だんだんと眠くなり、その思い出と共に夢に落ちていく。


その日も綾音は夕飯を用意していた。

父と自分の二人分。

テーブルに並べて、一人椅子に座る。

訪れる静寂。

玄関のドアを開ける音がした。

「お父さん!」

玄関へ駆け出す。

けれどそこにいたのは龍斗だ。

彼は嫌な顔をせず、綾音にただいまと言って家にあがる。

リビングの食卓を見て、食事の用意されてない席に座る。

綾音も椅子に座り、とりとめない雑談をして過ごす。

「親父さん、帰ってこないな」

「……うん」

「今日は帰ってこないんじゃないか」

「……そうだね。龍ちゃん、代わりに食べる?」

ほとんど毎晩そのやり取りをした。

そうして一ヶ月経って、龍斗に言った


「お父さん、死んじゃったんだ」


そんなことは龍斗はわかっていたはずだ。

葬式関係のことは全部惣島のおじさんがやってくれていた。

けれど龍斗はこう答えた。


「じゃあ、俺の家くるか」


綾音はそれから龍斗の家に住むことになる。

既に養子としての手続きも申請されていた。


綾音はあれからずっと龍斗に助けられてきた。

感謝の念は絶えない

でもそれに頼り続けてる自分が情けなくなる。

情けなくなるだけで何も出来ない自分が腹立たしい。

部活のことだって、綾音を心配しているのだ。

そんなことわかっている。

でもわかってほしかった。

私は大丈夫だ。

私はもう大丈夫だから。

それを、確かめさせて欲しい。

私はもう、大丈夫だと。

それを知りたい。


遠くで玄関を開ける音がした。

綾音の意識はまだ夢半ばだ。

足音は家の中を巡り、この部屋に近づいてくる。

ドアの開く音がした。

誰かが枕元に座る。

冷たく、濡れている手


「龍ちゃん……」


綾音はうっすら目を開け、その姿を確認する。

龍斗はびしょ濡れだった。

ああ、きっと綾音を探していたのだ。

また心配させてしまった。

綾音は体を起こし、龍斗に抱きついた

冷え切った体が冷たい。


綾音の姿を見て安心した龍斗は、立ち上がり、風呂を借りたいと言った。

綾音は風呂場までついていき、彼が脱いだ濡れた制服を預かる。

それをバスタオルで包み水気を吸い取った。

タオルがすぐにびしょ濡れになる。

相当雨の中にいたのだろう。

重くなるタオルに、龍斗への申し訳ない気持ちが募った。


浴槽に浸かり、龍斗は体を温めていた。

体はすっかり冷え切っていたので、温かい湯に体が溶けるようだ。

綾音が無事に見つかり、本当に良かった。

車を飛び出してから、すぐにこの家に来たが誰かがいる気配はなかった。

踵を返し、綾音の学校に向かうが登校していない。

もう一度車を降りたところに戻り、辺りの飲食店を見て回るがいない。

そうしていたら雨が降り始め、駄目元で、もう一度綾音の実家に向かったら、そこでやっと、無事を確認できた。

本当に今日は疲れた。

風呂のドアを叩く音がした。

「着替え。置いておくね」

綾音がそう言い、龍斗は返事をして風呂を出た。

綾音は龍斗に背を向け着替えを渡す。

それは亡き綾音の父のものだ。

「いいのか?」

「裸でいたら、お父さんも嫌だよ」

そう言われ、だな、と龍斗はそれを受け取った。

綾音は先にキッチンへ行き、お茶の用意をし出す。

自分の分と龍斗の分、二つをテーブルに並べる。

それを見た龍斗が、寒いからあっちが良いとリビングのソファーを指差すので、そちらのローテーブルにお茶を置き直す。

そして、ソファーに座る龍斗に、ブランケットを何枚か持ってきて、かけてやる。

綾音が龍斗の隣に座ると、彼は自身の膝の上を指差してきた。

綾音が彼の両太股の間に座ると、龍斗はその背に抱きつく

「ずっとここにいたのか?」

そう言われ、綾音は首を振る。

「公園にいて、その後ここに来たの」

龍斗はそうかと言うだけだった。

「よく、ここがわかったね」

綾音が言うと龍斗は相槌を打つだけだった。

「なんとなくな」

綾音は振り向き龍斗を見た。

「ごめんなさい、心配かけて」

そう言うと、龍斗は綾音の頬を撫で、そしてつねった。

そして彼女を抱きしめる。

「もういい」

そう呟いた。

綾音が弱っているときの龍斗は優しい。

本当に、優しい、

優しすぎて、申し訳なくなる。

綾音はそのまま龍斗の胸に顔を埋めた。

「部活……」

龍斗が呟く。

「男いる?」

「部長さんと…あと二人」

「……そうか」

龍斗は黙った。いや考えている。

「門限は守れ」

綾音は龍斗の顔を見た。

「いいの?」

「こんな風にまた拗ねられたら体がもたない」

そう言って龍斗はくしゃみをしたので、綾音は笑ってしまった。

「じゃあ、暖めてあげる」

そう言って綾音は龍斗を抱きしめた。

彼女の暖かさに龍斗は目を閉じる。

あたたかくて

気持ちが良い

「綾音」

「何?」

「横になりたい」

そう言い、龍斗はソファに横になる。

綾音はそれに寄り添った。

お互いの温もりで、心が温まっていく。

「少し寝る」

「うん」

そう言って二人は目を閉じた。


目を覚ますと時間は夕方だった。

雨はもう上がっているようだ。

着信音にスマフォを見ると、奈々や悠からLINEが来ている

黙って休んだ綾音を心配する内容だ。

綾音は風邪を引いたと返した。

「なに?」

龍斗が覗き込んでくる

「友達。奈々と悠」

「ああ」

ふと龍斗のスマフォも鳴った。

電話だったようで龍斗はそれに出た。

そしていくらか話し、電話を切る。

「葉月だ。迎えに来る」

「そう、怒られるかな」

「そういう奴じゃない、心配して死にそうなくらいだろう。」

10分後、綾音の家の前に車が止まり、インターフォンが鳴る。

家を片付けてから、玄関を出る。

綾音は鍵を閉め、それを大事にしまった。

「また来るね。お父さん」

そう扉に触れ囁いた。

「綾音」

龍斗が差し出す手を取り、綾音は車に乗り込む。

惣島の家に着くまで、綾音はその手を離さなかった。

温かい、その手を。

ずっと、離さなかった。

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