山田異変
アルバイトから帰ってきた俺は、正座をしながら部屋でアイロンをかけていた。
飯田橋もアルバイトだった。
俺の帰る道すがらに飯田橋が住んでいるマンションがある。
オーナーからの命令により、ここ最近アルバイトの終了時間を飯田橋と合わせて、なるべく送って行くようにしていた。
……流石に夜道は怖いからな。
比較的開けた道で安全な場所だ。
でも夜だと女性一人では心もとない。
俺の日課が増えた。
学校が終わったら、飯田橋とアルバイトに向かう事。
アルバイトが終わったら、マンションまで送る事。
ーーあいつがアルバイトが無い時は……俺はいつも通りだ。
さっきまで飯田橋は俺と一緒にいた。
俺たちは髪を切る話を口に出せないでいた。
ーー俺は何を血迷ったんだ? 飯田橋に髪を切るお願いをするなんて……
俺は他人に自分の身体を触れさせるのは大嫌いだった。
俺の身体を触って良かったのは……母さんだけだった。
……コンクール会場で初めて飯田橋と手を握った時……俺は嫌ではなかった。
何故だ?
だから、飯田橋だったら俺の髪を切ることができるかも知れないと思って、つい言葉に出てしまった。
焦げ臭い?
「くっ……とんだ失態だ」
アイロンにかけていた俺のシャツが焦げてしまっていた。
ぼーっと考えていたな……
……身体が重い。早く寝るか。
明日も忙しい。寝れば治るだろう……
今日は週末だ。
非常に忙しい日になるだろう。
「あ、山田くんさ〜、ついに君の師匠が帰国したけどさ、あいつどこで働くの?」
オーナーが開店前に聞いてきた。
「……あいつはまだ決まってないみたいだ。もちろん多方面でシェフの話しがきているようだが……もう少し休みたいらいし。……積みゲーが溜まっているとブツブツ言ってたな。積みゲーとはなんだ?」
「あ〜、あの子らしいね。今度飲みに行こっと! 帰国したのに全然連絡くれないんだもん!」
ほっぺたを膨らますオーナー……そろそろいい年だろうに……
俺は年の事を言わないでおいた。
オーナーと話していると後輩パティシエが仕事の確認をしにきた。
「や、山田先輩! クレープの生地とモンブランのクリームは準備できました! 次はアイスベースを作りますか?」
緊張気味の後輩は、製菓専門学校を卒業したばかりの20歳の女の子である。
入社した当初は、製菓学校で学んだプライドがあって、俺と張り合っていたが……
正直、技術も仕事の基礎も全くダメダメだった。
俺とオーナーが一から教え直した。
「ああ、問題ない。ベースを作ったら休憩に行け。俺はサービス用のフルーツを切ってから休憩に行く」
「はい! 了解しました!」
オーナーが呆れた様子で俺たちを見た。
「……凄い忠誠心ね。あの子入社した時は『山田! これ教えろよ!』とか言ってて、横柄な態度だったのにね……」
「ふん、普通に教えただけだ。人生の厳しさを」
「17歳のあんたがそれを言うか! ……まあ、山田君だったら言っていいくらいの経験してるもんね……」
「ふん……」
お店の扉が勢い良く開いた。
「おはよーございまーす! 今日も一日よろしくです!」
飯田橋が颯爽と出勤をしてきた。
6月も半ばになってきたので、そろそろ暑くなってきた。
今日の飯田橋は涼し気なワンピースに日除けの大きな帽子をかぶっている。
細くて長い手足の肌色が眩しい。
「よし、さっさと着替えろ」
「ちょっと新しく買った服を褒めてくれないの! 昨日言ったじゃん!」
「……知らん」
俺は顔をそむけた。
「あ!? 山田照れてるの? ははっ! 可愛い所あるじゃん!」
「照れてなどいない。……ふん、涼しげで悪くない。どうせお前は何を着ても似合う」
「え、あ、ありがと……へへ、やった!」
オーナーが暗い表情で口を挟んだ。
「……あんた達……独身の私にはお腹いっぱいよ……イチャつくなら帰る時にして……」
「「イチャついてない!!」」
天気の影響か、今日は週末にしてはさほど忙しくなかった。
と言っても満席には変わりない。
満席のカウンターの前に俺はデザートを作り続けていた。
クレープを焼きながら、パフェの準備をする。
「はい、これね!」
飯田橋がタイミング良く道具と食材を置いてくれる。
「パンケーキ後2分よ!」
俺はパンケーキの仕上げの準備をする。
飯田橋が柔らかくしておいたアイスクリームを俺の目の前に置く。
次の組の皿を準備してくれる。
「パンケーキでるよ!」
「よし、頼む」
飯田橋が俺の横にパンケーキを置く。
俺はそれを受け取りパンケーキを仕上げる。
仕上がったデザートを飯田橋がお客さんへ持っていく。
「お待たせしました! パンケーキのお客様?」
俺はお客さんが笑顔でデザートを受け取ったのを見ると、次のデザートの準備に入っていった。
やがてサービス時間が終了した。
「はぁぁーー、疲れた……」
飯田橋は身体を大きく伸ばした。
後輩が飯田橋にお茶を持ってきた。
「かなえちゃんお疲れ様でした! ……かなえちゃんも凄いよね。山田先輩の動きについていけるなんて……私無理でしたよ……」
「え!? あ、ありがとうございます。あ、あの私には敬語はいらないんで……」
「駄目よ! ちゃんと仕事ができる人には敬意を払わないと! かなえちゃん本当に凄いんだから! だってあの山田先輩と阿吽の呼吸でできるなんて……しかも可愛いし……二人がカウンターに立つと、超ヤバイ絵面ですよ!」
「……は、はぁ」
生返事をする飯田橋。
俺はその様子を見ているだけだった。
ーー?? おかしい? 身体が重い。頭も重いぞ。
呼吸が荒くなる。苦しい。吐き気がする……
ーー大丈夫だ。もう仕事は終わった。あとは飯田橋を送って帰るだけだ……
俺は気力を振り絞って片付けに入った。
飯田橋がじっと俺の顔を見ていた。
「……山田? ちょっと山田! あんた顔色が悪いわよ……ねえ大丈夫?」
「……問題ない」
俺は答えるだけで精一杯だった。
心配させたくない。
俺は大丈夫だ。
飯田橋がオーナーと何か話している。
俺は目の前が霞んで見えてきた。
ダイジョブだ。勘でわかる。顔が熱い。
飯田橋が俺の耳元で何か言っている。
分かった。すぐに着替えて家まで送る……少しまて……待っていてくれ……
俺は……その場に膝を着いた。
「山田!!」
「山田くん!」
「や、山田先輩!」
頭がぐるぐる回っている。
俺はどうやらカウンターの椅子を並べて横になっているようだ。
「オー……、山……って、いつから休んで……ですか?」
「……まで……休……事無いわよ……」
「え!? ……それ……風邪……」
「初……よ」
……大丈夫だ。俺の心配をするな……俺は強くなきゃいけないんだ……
首を持ち上げられた。
口に薬を入れられる。
コップが口元にある。
一口飲んだ。
ふと、額に冷たい感触があった。
髪を優しく撫でられているのがわかる……
手が温かい……
少し落ち着く……
ほんの少しだけ休もう……
目が覚めたら閉店の時間だった。
薬が効いたのか、さっきよりもマシな体調だ……
「あ、オーナー! 山田起きましたよ!」
「山田君……働かせ過ぎたわ……ごめんなさい……」
オーナーが泣きそうになっていた……
大丈夫だ。お前のお陰で俺はパティシエになれた。
「……問題ない。……流石に今日は帰る……」
「山田……タクシー呼んだよ!」
飯田橋が俺のバックを待っていた。
「……助かる」
俺はバックを受け取ろうとした。
飯田橋はヒョイッとバックを肩にかけた?
何をしてる?
「ほら、タクシー来たわよ! さっさと山田の家行くわよ!」
俺は辛うじて立って歩く事ができた。
ふらふらな俺を飯田橋が支える。
俺はタクシーに放り込まれた。
飯田橋が続いて乗り込んだ?
「あ、通りを真っ直ぐでお願いします! 近くになったら言いますね」
「……飯田橋?」
「ばっか! あんたは寝てるの!」
「運転手さんゆっくり最速でお願いします!」
「あいよ! 任せな!」
タクシーはゆっくりと発車した。