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同年代の子と、距離が縮まるきっかけは偶然の要素が大きいと思う。例えば席が隣だったり、入る部活が同じだったり、好きなマンガが同じだったり。
実際、あたしと名沙の関係が深まったのもまさにそんな偶然の産物だった。
転校初日の放課後、ESS部の扉を叩くと、歓迎ムードの先輩たちの後ろ側で、一人本を読む名沙の姿があった。
「こんにちは。島田秋葉といいますっ」
「……知ってるわよ」
同じ屋根の下では心を開いてくれなかったのに、学校をきっかけに親しくなれるなんて奇妙な感じがするけれど、それ以来、あたしは名沙と少しずつ言葉を交わすようになった。そして三か月も経つ頃には、お互いすっかり打ち解け、まるで本当の姉妹のような関係になった。
「名沙、醤油取って」
「これぐらい自分で届くでしょ」
「そっちの方が近いじゃん」
「面倒くさがり……」
そんなあたしたちのやり取りを見て、お父さんは嬉しそうだった。
「すっかり打ち解けたな、二人とも」
「部活も同じだし、学校の英語スピーチも二人で代表になったんでしょう?」
「秋葉もか。これも母さんのお陰だな」
「いえ……そんなことないわ。秋葉の実力よ」
「……そんなことないよ」
名沙との関係が出来上がって以来、静香さんへの嫌悪感も少しずつ薄まっていた。さすがにまだお母さんとは呼べないけれど、それでも目を合わせて会話をできるようになったのはあたしとしてはとても大きい。
気が付けば、あたしたち四人はそれなりに「家族」をしていた、と思う。
ただ打ち解けたというのは、言い方を変えれば、遠慮がなくなった、とも言える。
特に静香さんは、勉強に対しては物凄く口うるさく言うようになった。しかも、その言い方というか表現はきつくて、あたしは多少のストレスを感じていた。
「でも秋葉はもっとできるはずよ。単語帳は進んでるの?」
「……時々やってるよ」
「それじゃ駄目よ」
静香さんはぴしゃりと言った。一瞬、家族の箸が止まる。
「本気でやれば、すでに全部覚えているはずよ。最近、少し怠けているんじゃない?」
「でも最近、数学の課題が大量に出てさ」
「言い訳はだめよ」
「……まあまあ母さん」
見かねたお父さんが仲介に入る。
「こっちに来る前に比べれば、秋葉はとてもよく頑張っているよ」
「そんなの、今まで怠け過ぎていただけよ。せっかく英語の才能があるのに。ちゃんと努力すれば、一流の大学だって行けるはずだわ」
普段は物静かで穏やかな静香さんが、こと勉強の話に関しては自信たっぷりで断定的な物言いに変わる、このギャップの原因が何なのかは分からないが、あたしは辟易した。
あたしは名沙にその不満をぶつけたことがある。彼女の話によれば、静香さんのそう言う性格は今に始まったことではないようだった。名沙もまた昔から勉強に関しては厳しく育てられたらしい。
「ただお母さんの言う通りにすると、不思議とうまくいくのよね」
食後、いつものように名沙の部屋を訪れたあたしに名沙が言った。いつも、こうやって彼女と他愛もないおしゃべりをして、その後寝るまでは勉強、というのが日課だった。
「静香さんって学校の先生を目指してたの?」
「ううん、そんな話は聞いたことないわ。先生どころか、仕事自体したことがないもの」
「え、そうなの?」
沙のベッドに寝転がっているあたしは、天井を見た。
「それでよく生活できたわね」
「お父さんの遺産と保険金があったからって言ってたわ」
「でも仕事をしたことがないなんて……働くつもりないのかな」
「仕事で外に出てくれた方が、秋葉にとって好都合がいいものね」
「まあ……ね」
こう毎日毎日口うるさく勉強のことを言うのは、きっと退屈だからだろう。あたしは心のどこかでそう感じていた。
「でもお母さんに言われた通りに勉強して、成績上がったじゃない」
「それはそうだけどさ……でもあの人がいなくても名沙が教えてくれるしさ。別に」
「私だってお母さんの指導で勉強してきたのよ。最初に数学を伸ばしなさいってアドバイスをくれたのもお母さんだし、勉強方法も事細かく言われて、その通りにやったわ」
「それで見事学年トップになったんだからすごいよね」
静香さんの指導は確かに適確だった。それこそ細かい部分まで徹底して口を出してくる。静香さんはあたしの得意科目や苦手科目を瞬時に見抜いて、あたしの成績が一番上がりやすい方法を教えてくれる。ただ、その理由を訊ねても『これがあなたにとって一番いい方法なの』と言うだけで、こちらが納得できるだけの根拠を教えてくれることはなかった。
ただそれでも効果はてきめんだった。ここに越してきてからたった三か月で、平均ラインをうろうろしていたあたしの成績が、あっという間に上位へと駆け上がった。
「あなたも前回の定期テスト八位だったじゃない。数学が足を引っ張らなければ、もっと上位だったでしょ」
「まあね」
「勉強に関しては、お母さんのことを聞いていれば間違いないわ」
「……そうだね」
あたしは小さくうなずいた。でもこの違和感は何だろう。一介の主婦が、専門的知識もなしに、ここまで子どもの学力を伸ばせるものだろうか。静香さん自身は勉強が苦手だと言っていたし、大学にも行っていない。そんな人が高校生のあたしたちの勉強をサポートするなんて不可能なことに思える。
何より不思議なのは、静香さんが自分の指導に迷いも不安もないところだ。もしかして知り合いに優秀な教師がいて、その人に相談でもしているのだろうか。
その時、ベッドの横で、名沙があたしの顔を覗き込んでいるのに気が付いた。あたしが見ると、名沙はすぐに視線を外し、持っていた文庫本に目を向けた。
「……どうしたの?」
「何でもないわ」
「何読んでるの?」
「アガサクリスティーって知ってる?」
「分かんないよ」
彼女の手から文庫本を奪い取る。題は『そして誰もいなくなった』。
「どんな話?」
「ある別荘に集まった十人が、一人ずつ消えていくミステリーよ」
「殺されるってこと?」
「そう……部屋のテーブルに十体の人形があって、一人死ぬ度に人形も一体消えるのよ」
「怖いね。つまり、自分とその人形の運命が重なってるんだ」
ぱらぱらとぺージをめくる。もちろんそれだけでは、名沙が話すような恐ろしさは伝わってこない。それを感じるためには、文字の世界に深く潜り込む必要があるだろう。でも、あたしはそんなのはごめんだ。
「どうしてこういう怖い本ばかり読むの?」
あたしは文庫本を返しながら訊ねると、名沙は間を開けずに言った。
「だって日常って退屈過ぎるでしょ。毎日同じ繰り返しだし」
「へえ」あたしはにやにやした顔で名沙を見た。「刺激が欲しいんだ」
「刺激っていうか……知的好奇心かな。秋葉はない? 未知のものを知りたい、体験したいっていう感情」
「うーんものによるかな」
名沙の手があたしに伸びる。そして、その手がゆっくりとあたしの髪を撫でた。小さいころ、寝る前にお母さんがあたしの髪を撫でてくれたのを思い出す。こんなの久しぶりだな。あたしは心地いい感情に包まれながら、されるに任せた。
「私はね、想像するの。駅にある関係者以外立入禁止と書かれた鉄製の扉。その向こう側に何があるんだろうとか、向こう側の山頂で点滅しているあの光は何だろう、とか。これって変だと思う?」
「……変だとは思わない」
「きっとそれに似ているんだと思うわ。私が本を読む理由」
「そっか……」
一定のリズムであたしの頭をなぞる手が、眠りを誘う。
ただその前に、静香さんの声があたしの睡魔を吹き飛ばした。
「秋葉ー? 今晩は単語覚えなさいよー」