4 TheexaminationfortheirfutureinApril.
上靴のつま先の青い部分にひびがはいっていた。それに気が付いたのは、月末テスト当日である四月三〇日の朝だった。
今日という日に限って、幸先が良くない。占いやジンクスの類を信じたい質なので、こういうのは本当に困る。
「シナギはばっちりなんだろうね」
「え?」
後ろ手で下着のホックを止めている彼女に、あたしは言った。大して年も変わらないはずなのに、彼女の胸はあたしの何倍も成長が早い。同じものを同じ時間帯に食べているのに、この違いは何なのだろう。咀嚼数の問題なんだろうか? 私も少量を何度も口に運ぶ食べ方を取り入れるべき?
「あなたはどうなの? やれるべきことはちゃんとやったの?」
シナギはシャツの腕のボタンを留めるのにやけに時間をかけていた。珍しいな。シナギの着替え中を眺めるのが、あたしは昔から好きだ。颯爽と着替える彼女の姿は、見ていてほれぼれするほどだ。
「もちろん、やりましたよ。いつも通りぐらいには」
「……じゃあ」シナギは言葉を濁しながら言った。「あれ……やった?」
「あれって?」
「いつもの……予想問題」
そう言われて、あたしは手の平を横に仰いだ。
「ああ、あれね。毎月毎月、予想問題なんてよく作るよね。まあ一応ざっと目は通したけれど、どうせ当たらないよ」
それはあたしだけではなく生徒全員が思っている共通事項だった。予想問題なんて結局、過去に出題された問題の類題をまとめたものにすぎない。
「そうだけれど……今回、何か気付かなかった?」
「気付くって?」
「……ううん。何でもない」
「ならいいけど……それにしても毎度毎度、よくやるよね生徒会も」
といっても、正確には予想問題を作ったのは生徒会ではない。実際の生徒会は去年解散している。現在、予想問題を作成しているのは、元生徒会のメンバーたちだ。
「シナギは何に気付いたの?」
「……別に、何でもないわ」
彼女は嘘を付いている。何となくそれは分かったが、だがお互いにとって大事なテスト前にいざこざを起こしたくはない。
だからといって、シナギの様子が気にならないわけでもない。何かを隠している様子と言い、シャツのボタンといい、その不自然さは明らかだ。
テスト用の制服に着替え終えた彼女は、髪を括ると、そのまま外に出るかと思いきや、あたしの椅子に座った。最近、テスト会場へは別々で行っていたから、意外だった。
「待っててくれるの?」
「……いやなら先に行くけど」
「ノーノーノ―、イヤじゃないイヤじゃない。すぐに着替えるから」
まだ下着姿のあたしは、急いでシャツに上半身を飛び込ませ、スカートに足を入れる。
「テストの日は制服なんて……やっぱり変な決まりよね」
自習道具を入れた手提げ鞄を片手に、部屋を出たのが午前八時半。テストは九時からなので、時間的余裕はかなりあった。
「何度経験してもテスト当日は緊張するね」
「……ええ」
「今日の所は、とりあえず二十番台キープできるといいな」
「……そうね」
あたしが話しかけてもシナギは心ここにあらずといった感じだった。テストが終わるまで、気付いていない振りをしようと思ったが、でも、もし緊張しすぎていつもの実力を彼女が発揮できなかったら、かわいそうだ。
そう思ったあたしは何気ないふりをして彼女に言葉をかけた。
「どうかした? なんか様子が変だよ」
「……そんなこと、ないわ」
「本当に?」
あたしが念を押すと、シナギの歩調が止まった。何やら迷っているようだった。
「いつも通りよ……ただ少し気になるだけ」
「気になる?」
シナギは苦いものをかんだような顔であたしを見た。彼女は何かを言おうとしていた。しかし、その時、後ろからやってきた生徒があたしたちの横を通り過ぎた。前方のエレベーターの前では、テスト会場へ向かう人だかりができている。あたしたちと同じく教室に向かう生徒たちだ。
「……階段で行かない?」
あたしがそう提案すると、シナギは深く頷いた。
六階から地下のフロアまで、全部で七層あるこの施設を移動する方法は限られている。二機のエレベーター、一・二階の図書館と五階の教室を繋ぐエスカレーター、そして非常用階段がある。
非常用階段を使う人はあたしたち以外にはいなかった。面倒な階段の昇り降りを好んでやる生徒はいない。ただあたしとシナギは、時々非常階段を利用した。エレベーターのぎゅうぎゅう詰めになるストレスを感じたくないからだ。
鉄製の重い扉を引くと、空調の利いていない、生暖かい空気が全身にまとわりつく。段差は一段一段が高く、、つまずかないように足を上げて進まなければいけなかった。上るたびに、カンカンという金属音が大袈裟に響き渡った。
二人きりになっても。シナギはなかなか口を開かなかった。替わりにあたしたちはテスト対策としてお互いに問題を出しあった。内容は英語、数学、国語、理科、社会の全教科。あたしはそのうちのいくつかは正解して、いくつかは誤りだった。そして彼女はあたしからの出題を、一問も迷うことなく正解した。
「……基本内容が抜けてるなあ、あたし」
「大丈夫よ」彼女はあたしを見ずに、ただ階段の先を見上げていた。「私自身もいい復習にもなったわ」
「それならいいけれど」
あたしがそう言うと、彼女は立ち止まった。
「どうしたの?」
あたしは彼女が話しやすいように微笑んでみせる。するとシナギは突然、あたしに向き合うように向きを変え、そしてあたしの両肩に手を置いた。生温い空気の中で、その手だけがヒーターのように熱かった。まるで風邪でも引いているかのように、頬も赤い。
「伝えたいことがあるの」
彼女が顔を上げる。そのまっすぐとした真剣なまなざしには、まだ迷いの色が見えた。
「……まさか告白じゃないよね」
「……オワリ聞いてくれる?」
「うん……」
あたしが頷くと、彼女は視線を下ろした。ショートヘアが揺れ、顔が隠れる。
「……図書館で勉強していた時ね――」彼女の手に力が入る。「――ミタカに声をかけられたの」
「ミタカに?」
「ええ……『あなたもトップを目指しているの』って聞かれた」
それを聞いて、自分もチセに同じ質問をされたことを思い出した。
「それで?」
「私はもちろんイエスと答えた。そしたら彼女は笑って……気分が悪かった。だって彼女の方が私より実力は上なのに、彼女の関心は紙よりも髪の方だから」
「まあ……確かに彼女はなんというか天才肌よね……」
ミタカの話をしているのに、脳裏にはチセの顔が浮かんでいた。
「私はその時、自分でも思ってもないことを言ったわ。気が動転してたんだと思う」
「何て言ったの?」
「最後に勝つのは努力する人間、そうじゃないとおかしいって。あなたは足が速いから、寄り道をしても私より先を行くかもしれないけれど。いつか必ずあなたを追い抜いて見せるって」
「先輩相手に大口をたたいたわけだ」
シナギの気の強さは知っていたが、まさか先輩にまで食って掛かるとは。いや、それもあたしと同じか。妙な偶然だ。
「ええ、だからそう言った後はビンタの一発でも食らうのを覚悟してた。案の定、彼女が鋭い目で私を睨んだ。一瞬、恐怖を感じるぐらい、冷たい視線だった。でも……」
「でも?」
「彼女はその時、ちらっと監視カメラを見てから耳元で囁いてきた。彼女はこう言ったの。“一位を目指すなんて馬鹿げたことはやめなさい”って……その時の私は、先輩が脅しの一種としてでたらめを言ったんだろうって思った……でも」
「でも?」
しかし、その続きを聞くことはできなかった。頭上で金属の階段が震える音がしたからだ。自然、シナギと顔を見合わせることになった。
「誰だろう」
「普段、ここを使う人はいないはずなのに」
続いて、足音が上から下へとこちらに向かって降りて来た。生徒たちはこの時間、テスト会場に向かっている。
「非常階段を使う生徒なんて君たちぐらいだよ」
あたしたちより少し高い踊り場から、チセはあたしたちを見下ろした。穏やかな表情をしているのが逆におそろしかった。
「やあ、オワリ。また会ったね」
「……また待ち伏せしていたの?」
「また?」
シナギがあたしを見る。
「昨日よりはもっと簡単だよ。何せ、五階に向かうルートは三種類しかない。三分の一だ」
「……行こう、シナギ」
あたしはシナギの手を掴んだ。
「やけに僕を避けるね」
「当然でしょ」
非常階段を出たあたしたちは、他の生徒のようにフロアのエスカレーターを使って、教室に向かった。
「ねえオワリ、チセと会ったの?」
「昨日ね。会いたくて会ったわけじゃないけど」
「チセのこと、嫌いなんだ」
「好きも嫌いもないよ……昨日初めて話したばかりだし」
「でも、あっちはとても親し気に話しかけてきたわ」
「やめてよ……」
あたしは逃げ出すようにして、教室に飛び込んだ。
テスト開始まで間もなくだった。すでに八割以上の席が生徒で埋まっている。あたしたちは空いている席の両隣りに腰かけた。
席に着いたあたしは息を整えようと深呼吸をした。チセはまだ教室にはいないようだ。
「シナギさん、ちょっとここ、教えてくれない?」
隣に座るシナギの元へ、いつものように生徒たちが教科書を片手にやってくる。生徒に囲まれた彼女は困ったようにあたしを見た。
あたしはあたしでテストに向けて意識を切り替えたかった。
そして教材を開いてペンを握ったあたしを見て、シナギもそれを察したように、生徒の質問に答えはじめた。
チセが現れたのは、テスト開始十分前だった。彼は数名と親し気に喋りながら教室にやってきた。その中には、あのミタカの姿もあった。チセはあたしたちを探す様子もなく、空いた席、正確には上位者軍団用に空けられた席に座った。
やがて、教室の正面にあるディスプレイが切り替わった。
『開始一分前、所持物を全てカバンの中に片付けてください』
画面に移っているニワトリのアニメーション《ゾラ》がそう言った。トサカがあるからオスのキャラクターのはずなのだが、声は女性だ。
『それでは、説明に入ります。
本テストは一八七回目月末テストとなります。
教科は英語、数学、国語、理科応用、一般社会。内容は現行の高校卒業程度とします。
配点は各1〇〇点満点の合計五百点。最上位者は“上”へと移動、最下位者は“下”へと移動になります。
あらゆる不正行為は、他の今日も含め〇点となり、必然的に最下位扱いとなります』
《ゾラ》は生徒以外であたしに話しかけてくる唯一の存在だった。しかし、彼女はテストの情報以外は何も与えてくれない。
しかし、とあたしは監視カメラを見る。あそこからあたしたちを覗いている誰か――生徒と繋がりを持たず、沈黙を保ったまま、ただ一方的に見ているだけの誰か……その人たちはどんな目的でこんな施設に、あたしたちを閉じ込めているのだろう。
『それでは始めます。机から電子ペンを取り出し、机に表示された用紙に指名を記入してください。ペンが反応しない場合は、右上に表示されている同期ボタンに再度、ペン先で触れてください……』
シナギの方をちらりと見た。彼女の状態が少し不安だったが、いざ本番となるとさすが落ち着いた表情でペンを走らせている。
それを見たあたしは安心した。
『……八十名、全員の確認が取れました。最初の科目は英語です。前半は筆記試験です。開始四十分後にヒアリングテストがあります。それではみなさん、《卒業》を目指してがんばってください……』