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案内された部屋に入った私を最初に出迎えたのは、鹿の頭蓋骨だった。
「少し散らかっていますけれど、どうぞ」
控えめな表現だと思った。少なくとも私が今まで見てきた中で、その部屋はかつてないほど汚かった。というよりも単純に物が多い。高層ビル群のように積み上げられた書類や書籍の数々、頭のみの仏像、崩れた積み木、四角い箱の隙間から見えるかちこちに固まったピザ、用途の分からない器具は実験用だろうか、それらが全て一枚の大きなテーブルの上に雑然と乗っている。少し揺らせばこぼれ落ちそうだ。
先生はそのテーブルの端を横向きに通過し、奥のデスクに腰かけた。デスクは割と整頓されているが、吸殻だらけの灰皿とノートPC、そしてワインの瓶と紙皿、そこには歯型のついたチーズが残されていた。
私がどこに行けばいいか分からず、入口の前で彼女の指示を待つしかなかった。それに気が付いた彼女は本棚に立てかけてある小さな脚立を組み立て、デスクの正面に置いた。
「ごめんなさいね。この部屋に人を呼ぶことって基本的にないのよ」
「いえ……お構いなく」
私は慎重にテーブルの横を通り、脚立の上に座る。デスクのソファチェアに座る先生より、少し視線が高かった。なんだか自分の方が偉そうに感じて少し居心地が悪かった。
「何か飲む? ……といってもここにあるのはアルコールぐらいか。ああそうだわ。水割り用のミネラルウォーターがあった」
冷蔵庫に入っていたミネラルウォーターは冷たかった。紙コップ越しのその冷たさが両手の体温を奪う。喉を潤す程度に口を付けて、紙コップをデスクに置いた。あまり飲み過ぎると、トイレに行きたくなると思った。
もし私がトイレに行くと言ったら、彼女は私を個室の前まで見張ろうとするだろうか。
「少しお待ちになって……ここに来ると、まず一杯やらないと気が済まないの」
「どうぞ」
彼女は私といても自分のペースを崩さなかった。グラスにワインを注ぐと、時間をかけて味わった。引き出しを開けると、そこには煙草の箱がぎっしり入っていた。そこから一本取り出し、これもゆっくりと吸い込んだ。その後吐き出した煙は行き場を探すように周辺に舞った。奥の換気扇は停まっている。
「あなたにいくつか質問をさせていただいてもよろしいかしら?」
落ち着いた口調で彼女が言う。私は動揺するふりをして頷いた。
「まず……そうね。ここにあるものであなたが目を引くものを教えてください」
「目を引くもの……ですか」
どういう意図かは分からないが、私は言う通りに周囲を見渡した。これだけ物が並んでいれば、正直どこに目をやれば分からない。でもそれでも自然と気になったのは左右の本棚だった。
「……『夢の分析と現実の応用』」
一冊の書籍の題を読み上げると、彼女はにやりと笑った。
「なるほど……夢に興味が?」
「少し……」
「へえ、あなたにとっては夢はどんなもの? 忌憚のない意見をちょうだい」
「昔読んだ本に『夢は記憶から作り出されるイメージに過ぎない』って書いてありました」
「それは科学的な話でしょう。そうじゃない。あなたが夢という現象を主観的にどう認識しているかが知りたいの」
私にとっての夢。私は自分の手を見た。正直、夢についてそんなに深く考えたことがなかった。でも何か答えないといけない。どんな話をしても先生はきっとそれを否定しないけれど、何も答えないのはいけない。そんな気がした。
「……無意識にする妄想、でしょうか」
「もっと詳しく説明して」
物語の続きを聞きたがる少女のように私を急かす先生。私は何も考えずに、思ったことをそのまま喋った。
「夢は割と見る方だと思います。知り合いは毎回同じ夢を見るそうなんですが、私は毎回違っていて……たぶん、それは私が日常的に妄想することが多いからなのではないかと」
「つまり覚醒時の空想や想像行為が、睡眠時にも起こっていると、そういうことからしら」
「そうですね……大体合ってます」
「最近見た夢は?」
「最近、ですか……」
私は躊躇した。直近で見た……それはキャンプの前夜に見た、秋葉と二人で電車に乗っている夢だ。それは自分の願望から生み出された類の夢だった。
どうしよう。他の夢の話をする? いや、焦っている今の自分では他の記憶を引き出す余裕はない。
「……気になっている人とどこかに出かける夢です」
「……そう」
私の答えはどうやら彼女の気に入らなかったようだった。明らかにつまらなそうな顔で、机の上に置いた書類に目を落とす。
「じゃあ次の質問をするわ。あなたはとても優秀で、にも拘らず今の自分に奢らず、努力を惜しまない。なぜかしら?」
「……なぜ」
私は先生の質問を反芻するようにつぶやいた。自分がなぜ努力するのか。それをはっきりと言語化したことはこれまでなかった。いや意識的に避けてきた。
「私は勉強するのが苦じゃないですし、できるようになったらうれしいと感じます。なので私は比較的勉強が得意な方なんじゃないかって……だからでしょうか」
「それだけ?」
先生が更に訊ねる。特に深い意味があって聞いたというわけじゃないかもしれない。けれど、私は追い詰められていた。
「……学生は勉強が第一で、今の成績や結果は今後の大学進学や就職を左右します。私は将来の選択肢をより多く持つため、あと自分になりたいものができた時に、その目標をあきらめなくても済むように……です」
「……ありがとう。でも、本当にそれだけかしら」
「他は……」
払いのけても、しつこく追い回してくる先生の質問。だけれど、本当に追い回してくるのはさっきからずっと頭の中に浮かんでいる秋葉の姿だ。
なぜ、こんな時に彼女のことを思い出すのだろう。そんな疑問をぶつけた時、私の中のもう一人の自分が嘲るように笑った。気付かない振りなんて馬鹿馬鹿しい。とっくに分かっているくせに。
「……彼女に値する自分に、なりたいんです」
その時の私は不思議な感覚に陥っていた。自分の口から出た言葉を、吐き出して初めて認識するような、そんな感覚。引き出しの奥に隠したまま忘れていたものを、偶然見つけて思い出すように、私はその存在をはっきりと再認識させられた。
「その子に私が勝てるのは勉強だけで……でもその子も勉強ができて……いつ追い抜かれるか分からなくて……それで私は――」
その時、バチンッと大きな音がした。私は驚いて顔を上げる。その音は先生がクリップボードを机の上に叩き付けた音だった。
しまった。彼女の機嫌を損ねてしまったのだろうか。私はそれを恐れたけれど、でもさっきの衝撃的な音とは裏腹に、先生の表情は柔らかかった。
「ごめんなさいね。思ったより大きな音が出てしまって。でもこうでもしないとあなたが話を中断しそうにないと思ったの」
「ああ……そうだったんですか」
「言いたくない内容なんでしょう?」
「……そんなことは」
先生は私に向けてにこやかな笑みを浮かべた。ワインの残りを飲み干し、そして棚に置いてあった人間の頭蓋骨の模型を手に取った。
「競争心、嫉妬心、劣等感、どれも自らを向上させるために必要なものだと思います。しかしながら、世の中には努力できない人間も残念ながら存在している。そしてこれは悲劇……いえ喜劇というべきことですが、どんなに努力しても実らないかわいそうな果実も生まれる……それは学校教育を受けているあなたがよくご存じかと思います」
「……ええ」
それは否定できない。単純に努力量という点で言えば、私よりも努力している人間はいくらでもいる。日本全体という規模で見れば、数えきれないほどの数だ。努力と結果が正比例ではないというのは、小学生から肌で学んでいる。
しかし、私は素直に頷けずにいた。
それは私が、例え偏差値的に見れば上位に位置しているとしても、気持ちとしては劣等感を抱いているからだろう。
「何か意見がありますか?」
「いえ……」
「不思議だと思いませんか、人間は他の動物よりも知性的だと言われながら、社会を見渡してみれば、ゴリラかチンパンジーレベルの知性しか持たない人間も確実に存在する。そしてそんな表面的進化のみで社会の仲間入りをしている人々が決まって、自らの衝動を抑えられず、犯罪に至ってしまう。殺人、薬物、詐欺、悪徳宗教……」
まるで環境問題の深刻さを説くような話し方の中に、時々、毒のような口の悪い言葉が混ざる。感情的になるだけの理由がきっと先生の中にあるのだろう。
「では我々が今後よりよい社会を築くため、知性的で健全な社会を作り出すためにはどうすればいいか。その問いに対する一つの解答が、この施設です」
「この施設……」
「《インテグラル》と言います。教師風に言えば、高校三年生で習う《積分》の英訳、具体的には瞬間的な変化の割合から全体の変化の割合を求める操作、という意味です。といってもこれは秘密ですよ」
「……ここでは一体何をしているのですか?」
「すぐに教えて差し上げます。その前に質問の続きです。国家事業として教育という分野がありますね。中学三年生までは義務教育として学校に通うことを義務付けられている。現在の教育の形をありていに言えば、全ての種に水を遣る行為と言えます。ただ水を遣ることの結果として求めるべき、《芽が出るかどうか》という点までは教育は責任を取りません」
「……でも点数が悪いと叱られたりはしますけれど」
「教師はなぜ点数が悪い生徒を叱ると?」
「それは……なぜでしょう」
「彼らの両親の目を気にしているのですよ。愚かなことに」
「……そうですか」
「教育制度の仕組み自体、優等生、もっと言えば知的エリートを育てるシステムです。そのレールに沿って走らない人間はペナルティを受ける。まっすぐ育たない枝を切り捨てるのは義務教育を終えるまではしない。可能性を信じているといえば聞こえはよいですがね」
迫田は腕を組んだ。
「しかし、社会は同時にこうも言いますね。一人一人の個性や長所に合った教育を、と。しかし現状は、ひとまずエリートが育つ水を遣り、うまく芽が出なかった生徒たちに『世界に一つだけの花』の話をする。個性という単語がもてはやされるのは、競争でトップになれないマジョリティによって社会が成り立っているためではないでしょうか」
「……それで、ここは何をしている施設なんですか?」
聞かないでおこうと思っていたのに、思わず私は質問してしまった。気持ちよく話をさせておいた方が自分としては都合がいいのに、つい先生の長い論議を聞いていると、話を次に進めたくなってしまった。
でも先生は私のそんな気持ちも知らず、特に機嫌を損ねることもなく、穏やかな雰囲気を崩さなかった。
「そうですね……つい話が脱線してしまいました。あなたのような今、正に教育を受けている子どもを見ると、つい同情心のようなものが芽生えてしまうのですね……質問に答えましょう」
彼女はワイングラスを手に持った。しかしグラスはすでに空だった。彼女は意外にも下品な舌打ちをして、そして冷蔵庫から新しいワインを用意した。
「この施設は『子どもの才能を予測する』ために作られた施設です。現段階ではまだ秘密裏に研究は進められています。でも半世紀後には、正式な教育研究機関として正式に発表される予定になっています」
「五十年……ずいぶん先の話ですね」
「成果が分かるのに時間がかかるのですよ……何しろ相手が人間ですからね」
「どんな実験をしているんですか?」
「フフッ、知りたい?」
その時の先生の表情を見て、私は下手な返答はできないと感じた。何か彼女の用意していた罠に誘導されているような、そんな危機感を抱いたのだ。
「構いません。私はこの研究が近い将来必ず社会に役立つと信じています。その証拠に、私達には大勢のスポンサーがいます。みなさん、この研究の価値を信じ、支援をしていただいているのですから」
「スポンサー……」
「もちろん、教えるかわりに、たった一つ、約束していただかないとね。五十年間、正確にはこの研究を社会に公表するまで、あなたにはここで見聞きした一切の情報を秘匿してもらう……」
「……黙っておかないといけない理由がある、ということですか」
「断っても構いませんよ。私としては残念ですけれど……どちらしにても同様ににここでの情報は」
「分かっています……誰にも話しません」
「ありがとう。答えは私が一服し終えるまで待ちましょう」
先生が煙草に火を付ける。彼女に付き合うフリをするか、断るか。途中で逃げ出すチャンスを作るなら、前者の方がいいかもしれない。
とはいうものの、実際の所、あたしはこの施設に興味を持ち始めていた。正確には、知ることの恐怖を好奇心が勝ったというべきなのかもしれない。
理由は分からないが、ただこれだけは断言できた。私はこの煙草の匂いを一生忘れないだろう。そして、例え私が将来煙草を吸うようになったとしても、この煙草だけは決して吸うことはない。
彼女の煙草の四分の一が灰になった時、デスクの電話が鳴った。先生は大事な時間を邪魔されたように眉をしかめながら、受話器を耳に当てた。
会話は英語だった。よりによって私は英語が比較的苦手だったのもあり、会話の内容は聞き取れない。しかし、彼女の感情の動きは分かった。最初に相手から聞いた話に驚いた。その後、詳しく説明を受けた後、私を一瞥した。さっき私に見せたような、何かを企む人間のする邪悪な笑みで。
電話を切った時、彼女は興奮を隠さず、まるで世界征服を成し遂げた魔王のように、両手を広げて私に言った。
「あなたはラッキーよ。ぜひ私に付いてきなさい。とても面白いものが見れるわ」




