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白い廊下は柔らかなカーブを描いていた。扉も白く、ドアノブがない。目を向ける対象といえば、先を歩く迫田の背中か、向こう側にある非常時用の赤いボタンぐらいだ。外部からの情報が少ない分、思考自体が仕事である研究者には都合がいいのかもしれない。
彼女の頭を切開すれば、人生の大半を思考に費やしてきたであろう、深い皺が脳に刻まれているはずだ。
そんな妙な妄想にかられながら、同時に気になっていたのは秋葉のことだった。覚えている最新の記憶は、彼女がコテージから私を連れ出したところまで。そこで秋葉に何かを言われた。
そうだ、睡眠薬。
「名沙さん、あなたは学校ではとても優秀らしいわね」
「あっ……いえ」
先生は少しペースを落とし、私の横を歩いた。背筋が伸び、颯爽と歩く姿から若く見えるけれど、親よりは年上だろう。髪は無地のゴムでまとめられ、化粧も薄めだけれど、厚い唇のせいかとても派手な顔つきに見える。
「エクセレント。素晴らしいわ。そのために、どれほどの努力を?」
「そんな……別に普通だと、思います」
「謙遜する必要はないわ。学校以外でも勉強を頑張っているのでしょう。塾には通っていないの?」
「はい……今のところは自分で何とかできているので」
「子どもの頃から勉強は得意だった?」
「……そうですね」
先生の質問は、明らかに好奇心からだと感じた。まるで新しいおもちゃを手に入れた子どものような目。外国人のように大袈裟なボディランゲージ。きっと英語も堪能なのだろう。彼女には一目で優秀な人なのだと思わせるオーラのようなものを感じていた。
それは勉強ができるという意味での優秀さとは別次元のものだ。
「学友を見れば分かる通り、学習者の能力には個人差があります。その原因の大半は遺伝による素質の違い。もちろん、後天的な要素もある。努力しない人間にこの世界の神は微笑まない。あなたの信仰は仏教かしら?」
「いえ……宗教は信じていません」
「神の存在についても?」
「神様……は古代の人々が自分たちのコントロールできない自然や理といったものを擬人化したものじゃないでしょうか」
「なるほど、あなたはリアリスト寄りの思想の持主なのね」
「そうなんですか? ちなみに幽霊も信じません」
「そんなあなたが想像の産物である小説を好んでいる。特にミステリーや怪奇小説、ホラーといった、より現実とは乖離した物語を」
私は顔が引きつった。それを悟られないように、顔を横に向ける。ダメだ、今、私は彼女に信頼されなければいけない。
しかし、私の名前や年齢だけではなく私生活の趣味まで知っているなんて、いったいどんな目的なのだろう。私なんて、どの学校にもいる、ただの平凡な一女子学生だ。
「その矛盾を、あなた自身はどう解釈している?」
彼女が何者で、なぜ私がここにいるのか。一緒にいた秋葉はどこに行ったのか。両親は私がいなくなって心配しているに違いない。
疑問は次々に浮かぶが、それを訊ねるのはもう少し後で、だ。カウンセラーの最初の仕事は、まず相手の話を聞き出すことだと本にも書いてあった。私の今の仕事も心を開かせること、従順で大人しい子羊に見せかけることだ。
そう自分に言い聞かせる。でも私の中にはもう一つ別の感情も芽生えつつあった。
「私は……別世界に憧れを抱いているんだと思います」
「というと?」
「日常って同じ生活の繰り返しです。学校に行って勉強して、家に帰って勉強して、ご飯を食べて、また勉強して、朝を迎える。今の努力は将来のための投資なんですよね? ありがたいことに私は勉強が嫌いじゃないし、やればやるほどできるようになるので、そう言う意味では未来のために着実に前に進んでいます。充実した毎日です。でも……」
「でも……」
私は口を開いたまま、言葉を続けるか迷った。私の個人的意見を、今まで誰にも話したことがなかった、親にも、秋葉にも。
でも、と私は思った。
本気で相手を騙すために必要なのは、嘘の中に多少の真実を織り交ぜる必要がある。
「予測できる……できすぎるこの世界にうんざりするんです。『明日世界が滅びる』そんな日が来ないこの世界に。時々、私は本気でこう思ったりします。誰か学校の校舎に火を放ってくれないか、空から隕石が降ってきて両親が家ごと消滅しないか……もちろん、それがよくない考えだって言うのは分かってます。分かってますが……」
「そう考える自分を止められない」
私は頷いた。
「……だから捌け口なんだと思ってます。空想の物語は予測できませんから。『明日世界が滅びるかもしれない』って思える世界で呼吸をする、わずかな時間でもそう錯覚できるから」
話しながら、いや話をすることで私は自覚した。状況はともかく、私はこの話をずっと誰かにしたかったのだ。自分の本音を誰かに晒したかったんだと。
それにしても自分はなんて罪深い子どもなのだろう。
「……理解したわ」
先生は私の話を味わうように何度も頷いた。そして咀嚼を終えたように目を見開いて言った。
「島田名沙。あなたがこの国で最も優秀な頭脳を持つ十六歳の一人、だということをね。私は幸福よ、あなたのような優秀な生徒に出会えて」
(生徒……か)
差し出された手を握ると、中年女性とは思えない力強さだった。




