19 zora
揺り起こされて、目を覚ました時、ベッドの横にミタカがいた。
「あっ……ミタカ」
「よく眠っていたわね」
「今、何時?」
「ちょうどお昼休み」
「そう……ちょっと待って」
「ん……うん」
あたしは再び目を閉じた。夢は時間が経つほど、自分の手から砂のように零れて、やがて消えていく。可能な限り、記憶に留めようと思ったのだけれど、うまくいかなかった。何か靄のように曖昧で、確固としたものを残せず、そのまま忘れてしまった。
「どうしたの?」
ミタカが不思議そうな目であたしを見ている。その目は慈愛に満ちていて、聖母のように思えた。
あたしは乾いた唇を開け、言葉を紡いだ。
「……ミタカは夢って見る?」
「ん? 見るけど」
「……クラソは夢を見ないんだって」
「聞いたの?」
「ねえ、本当にそんな人っていると思う?」
「さあ……」
彼女は視線を斜めにやった。座っていたイスの横に置いていた靴に踵を入れる。
「人は他人にはなれないから。クラソがそう言うなら、それが相次二兎手の事実なんだよ」
「そうだね……うん」
「でもね、同時に自分じゃ絶対に気付けないこともあると思うんだよね」
「例えば?」
「覚醒時から睡眠に入る境目とか」
「ああ……ん?」
ミタカの言葉を聞いてあたしは思い出した。零れ落ちた夢の記憶が、時間を巻き戻したかのように、再び手の平の上に乗ったのだ。
「誰かに睡眠薬、飲まされそうになって……」
「えっ、睡眠薬がどうしたの?」
「ごめん、夢の話……でも夢じゃないかも」
ミタカの眉が八の字に歪む。そして呆れたような苦笑いを浮かべた。
「寝ぼけてるんなら、おでこにチョップでもしようか?」
「ノーセンキューベリーマッチ」
「じゃあ早く起き上がって着替えな。ほら、あんたの分の着替え、部屋から持ってきてあげたから」
「部屋から?」
「そうだよ」
「……名沙は?」
「え、何て?」
その時、あたしはシナギについて訊ねたつもりだった。しかし、実際に口にしたのは違う名前だった。
「……あれ、あたし今、シナギって言った?」
「いや、なんか知らない名前だったと思うけど」
「おかしいな……何て言ったんだっけ」
無意識だったのもあって、自分が告げたその名前をもう思い出せなかった。もしかしたら記憶を失う以前に親しかった人の名前じゃないだろうか。だとしたら、記憶を呼び戻す糸口になるかもしれない。
ナ……ナ……ナンナ。アンナだったっけ? いやカンナだったかも。カリナ……そうだったような気もするし、全く見当違いのような気もする。そういえば特に意味のない単語だった。ならカンナじゃない、けれどイントネーションは大体こんな感じだった、と思う。
「……うう、分からない」
「私も分からんわ。はい、着替え」
「ありがと。あ、そうそう。シナギと話した?」
着替えを見て、あたしはミタカに聞きたかったことを思い出した。
「ああ。シナギとは部屋に戻るまでの間に、少し話したよ」
「何か言ってました?」
「何かって?」
「何でも」
「そうね……あんたがここにいるって話をしたら『そうですか』って言ってた。あとは……『風邪ですか?』って聞かれたから『風邪かもね』って答えた」
「……そうですか。でも喋ったんですね」
「ああ。他愛もないことだけどね……」
状況を思い出せるまでの間で、あたしはシャツを替え、スカートを履いた。眠る前はクラソの身を案じる以外に何も考えられなかったのに。そう考えると何だか自分が薄情な人間に思えてくる。
「チセ……来ますよね」
「そりゃ来るよ……状況が状況だ」
「状況と言えば、一日経っても変化なしですか」
六階の天井部屋に入ってから丸一日以上経つ。その間で、あちら側から何らかのアクションが起きてもいいと思うのだけれど。
「ああ。ここは平穏そのものだよ。クラソのことはお前と同様、体調不良で通している。今日明日ぐらいは、そのまま通しても問題ないだろう」
「何もないってことは、運が良ければクラソはまだ捕まっていないかも」
「ああ、そうだな。何らかの事情で戻ってこれないというだけの可能性もあるよ」
「……どっちにしても、早く何とかしないと」
「そのためのミーティングだろ」
行こう――あたしは頷き、集合場所に向かった。今日は地下一階、パーティールーム東側の男子トイレ前が集合場所だった。
移動中、エレベーターの扉の開くと、そこにチセがいた。片方の手には配布物の通学鞄がある。普段、誰も使わないのに。
「チセ?」
「ミタカ、先に話をしておいてくれないか」
「えっ……」
チセはミタカに一言、そう言うとエレベーターに乗り込み、あたしには視線も合わせずに言った。
「僕に付いてきて」
「付いて……ってどこに?」
「来れば分かるよ」
扉が閉じる直前に、ミタカの苦い顔が一瞬見える。恋人のいる前で、別の女性とどこかに行くなんて、しかも行先も知らせずに……女子はこういうの色々と尾を引くから面倒なのに……
でも、チセと二人きりになるのは、あたしにとっても都合がいいのも事実だった。
「……ねえ、クラソは――」
開いた唇を強引に手で閉じられる。唇にチセの手の感触が触れた。
「もうっ、何すんのよ」
「話は着いてからにしよう」
一音節ずつ強調するようにチセが言う。確かに、監視カメラのあるここで話をするわけにはいかない。冷静になろう。
エレベーターは一フロア上っただけだった。その後は非常階段を使って三階に移動した。
チセは速足で、あたしはそのペースについていくのが大変だった。ミタカとは歩調を合わせるくせに、あたしには遠慮なしだ。
「ここだ」
「えっ……ここって」
あたしたちが入ったのは、久しく使用していない《ニワトリの間》だった。そこには《ゾラ》と呼ばれるニワトリ型の機械が一体いる。この《FS》の施設の紹介や生活上のルールなどを教えてくれるが、その内容は元生徒会が配布している冊子に載っているので、生徒の中でここに来るものはいない。
この部屋に監視カメラは設置されていない。けれど、あたしたちがここを集合場所に使わなかったのは、このニワトリがいるからだ。ゾラの目は監視カメラになっていて、しかも生徒の動きに合わせて向きを変える。
『おはようございます。私はゾラです』
部屋に入るなり、ゾラは私たちを認識し、その細く黄色い足を前に出して近付いてきた。その足跡が水面のような波紋のグラフィックを作っていく。
「さて……ニワトリに質問しながら。少し待っていろ。こっちを見ないようにな」
チセはそう言って、中央の丸テーブルに鞄を置き、中身を取り出す。そこからはむき出しのパーツがごろごろと出て来た。
「それ……何?」
あたしの言葉を無視して、チセは黙々とそのパーツを組み立てはじめた。慣れた手つき。そして次に取り出したディスプレイを見て、それが何なのかを知った。
「ゾラ……どうやったらここから出られるの?」
学習机に直接埋め込んであるデジタルパソコン。どうやら分解して、机から取り外したらしい。そんな荒っぽい行為をして、バレなかったのが不思議だ。
『《卒業》条件は月末に行われる一斉月末テストで最上位になることです。最上位になった生徒はテスト結果発表後、二十四時間以内に《上》に上がることができます』
「《上》ってどんなところ?」
『それは最上位者になれば分かります。一日も早くそうなれるようにみなさん、勉強を頑張ってください』
「そう……なら今日の外の天気は?」
ゾラの目からカメラの視線が痛いほど伝わってくる。その間、チセは組み立てを終え、
パソコンから伸びたコードの先端をつかんで、こちらに近付いてくる。
『天気の単元について私がお手伝いできるのは、教科書の音読、一問一答形式の口頭質問、参考書の問題解説です。何がご希望ですか』
「えーと、そうね……」
チセがゆっくりとゾラの背後に近付く。あたしに人差し指を口に立てるサインを送り、そして声をかけた。
「ゾラ、質問がある」
ゾラが後ろを向いた。その瞬間、持っていたコードを、開いたクチバシの中に挿入した。ゾラは驚いたように大きく羽根を広げたが、ものの数秒のうちに大人しくなり、剥製のように動かなくなった。
「ふぅ、成功だ」
安堵の表情を浮かべ、再びソファに腰かけるチセ。その青ざめた顔から、今の行為がかなり危険な橋を渡ったのだと理解した。
「チセ……大丈夫なの?」
「何が?」
「その……こんなことして」
「そんなことより」
彼はカバンからキーボードを取り出した。そんなものどこから調達したのか。クラソがみたら喉から手が出るほど欲しがるに違いない。
「僕に言いたいことがあるんじゃないの?」
「そ、そうよ」
「それはクラソを助けたいって話?」
「知ってたのね」
「一緒に行動していた君なら、助けられなかった罪悪感から抜け出したいだろうなと思ってね」
「……ひどいこと言うね」
沈黙。キーボードをたたく音が円形の空間に響く。
「あんたは仲間がいなくなって何とも思わないの?」
「クラソは帰ってくるさ」
「あたしだってそう信じたいよ……でも、もう二日経つのよ」
「逆だよ」
チセはエンターキーを弾いた手を高く上げた。
「まだ二日しか経っていないから帰って来ないんだ」
「……何か訳がありそうね」
「今更だね。ここは間違いなく訳ありの場所だよ」
その時、ゾラが再び動きはじめた。
『おはようございます。私はゾラです』
そう言って誰もいない方向に歩きだす。でも今のゾラには視線が感じられない。カメラの機能が働いていないようだ。
「ゾラのカメラ機能と録音機能をオフにした。これで僕たちの話はお互いの脳にしか届かないよ」
「……あんた、いったい何者なの?」
「僕? 僕はただの一生徒だよ」彼は胸を反らすストレッチをしながら言った。「大人を騙すのが少し上手なだけの、ね」
「知っていることを話して」
「知っていること、か。抽象的過ぎて答えづらいけれど、ただこれだけは言える。君はきっと僕の話を聞いたら後悔する。知らなければ良かった。知らないままでいれば、どんなに幸せだったかって」
「……それってこのFSについてってこと?」
「正式名称は《インテグラル》って言うんだ」
「インテグラル……」
「インテグラル……『完全体であるために必要不可欠な』、そういう意味だよ」
「それがこの施設の名前ってこと?」
「僕たちはインテグラルのメンバーによって、何らかの方法で記憶の一部を奪われ、ここに入れられた哀れな犠牲者。いや実験用マウスとも言える」
「実験用マウス……そうね」
あたしはこの施設の遥か上空から、自分達を見下ろしている大人たちの姿を想像した。科学者が迷路に入れたマウスを観察するように、あたしたちも監視され、記録され、そして不要になれば処理される。
「それが正しいとしたら、いったいどんな実験のためにあたしたちは連れ去られたの?」
「さあね」
さすがに彼らの目的まではチセも知らないのか。それともこれもごまかしているにすぎないのか。
「そのタスクは、ここから脱出した後でも遅くはない。僕たちにはすでに明確な目的をもっていて、それが最優先事項のはずだろう?」
あたしたちの目的。この施設からの脱出方法を見つけ出すこと。そのためにクラソは危険な行動を取って、そして行方が分からなくなった。
「ねえ。もしかしてあんた、クラソがどこにいるか知っているんじゃないの?」
「どうしてそう思ったのかな?」
「……別にただの勘だけど。でも、あんた、知り過ぎてるもの。同じ環境で生きているとは思えないほど」
「……ははっ、面白いね、相変わらず」
呑気に笑うチセ。でもあたしの頭は冷静だった。クラソを助けたい、彼が何と言おうと、それがあたしの最優先事項だ。それはぶれない。だからこそ、あたしは感情的にはならない。
「それで答えは? アンサーザクエスチョン」
その時、チセの笑顔が消えた。目を細め、刺すような視線であたしの目を覗き込む。そのまま、一歩一歩、確かめるように、あたしに接近した。
覚悟を試されている、そう思った。
でも、ここで食い下がるわけにはいかない。
「逃げないで答えて」
あたしはきっぱりとした口調でそう言った。
「……そうだね」チセはそう言って、目を閉じた。「あくまでも推測の域に過ぎないけれど、僕の予想がもし正しければ――」
彼はあたしの耳元でその言葉をささやいた。
(――足元のニワトリが知っているんじゃないかな)
「……え?」
「聞いてごらんよ。《餌付け》をした今ならきっと喜んで答えてくれると思うよ」
「……ゾラに」
これは冗談だろうかとも考えたが、しかしあたしはチセの言う通りに試してみることにした。
「ゾラ……質問があるの」
『どうぞ質問してください』
「……ここの生徒のクラソが、今どこにいるか教えてくれない?」
『クラソの現在地ですか』
ゾラの赤いトサカがぴんと立った。まるで本物のニワトリのようだ。ゾラはそのまましばらく動かず、じっとしていた。
あたしもチセも無言で、ゾラの返答を待っていた。
そして、ゾラは羽根を小さく羽ばたかせると、クチバシを上下に開いてこう言った。
『確認しました。その生徒は現在、施設内の十七カ所にいます』