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玄関はさながら美術館のようだった。
光沢のある黒い道を進むと、左右に人間の石像が待ち構えていた。白衣の像もあれば、背広にネクタイといった現代的な服装の像もある。その厳かな顔つきから名のある学者のものなのだと思う。ただ、教科書に載っている人物ではなかった。
「日本人もいるね」
「本当だ」
それは西洋のドレスを着た中年女性で、目には老眼鏡をかけ、髪は上でくくっていた。目付きは鋭く、気が強い性格がその表情に現れている。そして、その手の平には人間の脳が乗っている。
「脳科学者かしら」
「脳外科の女医さんかもよ」
なるほど、そう言う見方もある。
秋葉は私の少し後ろを付いてくるように歩いていた。周囲を警戒している。一方の私は冷静だった。他人の視線を気にしないで生きてきたからだろうか。バレたら怒られればいい。それぐらいにしか頭にない。
「あれが入口か。また大きいわね」
石像に迎えられた後に、五メートルはあろうかという入口の大扉に辿り着いた。模様もない真っ白な扉で、小さなボックスのようなものが横にある。
「ここまでだね。も、もう戻ろうか」
「そんなに怖い?」
秋葉の声が震えていた。
「……うん、っていうか。ここ、結構セキュリティがすごいよ。今立っているここ、カメラが何台も見てる」
「そう」
私はそう言ってボックスを見る。門と同じ『S』のロゴと、パスワード記入用の番号。
「パスワードか……」
私は試しに《9》の数字を入力してみた。ピッという機械音とともに、数字が表示される。
「名沙、だめだよ。見られてるんだから」
「まあいいじゃない」
私はその後、適当に数字を入力した。そして数字とは別のボタンを押すと、音もなく数字がクリアされ、《エラー》の表示が現れる。
「ほら、名沙、行くよ」
「ごめん。もうちょっと待って」
私はポーチから文庫本を取り出した。栞替わりに挟んでいた付箋、それは先日、コテージの引き出しの本から出てきたものだ。そこに書かれてある数字も三〇桁だった。
「名沙……それ、昨日の」
「まあものは試しよ」
私はその数字を慎重に入力した。秋葉が私の手を引っ張っるので、抵抗しながらの入力になった。
「ねえ、やめようよ。名沙」
「これでダメなら戻るから」
そして3〇桁目。
右下のボタンを押すと、すぐに《collect》の文字が表示された。
《正しい》という意味。
「……開いた、わ」
「嘘……どうして」
これには正直私も戸惑った。当然、外れるものだと思っていたので、こうなった時のことを考えてなかったのだ。
「どうしようかしら。開いたけれど」
扉の前に立つと、ドアがゆっくりと上にスライドした。その中は四方白い壁でできた通路、すぐに横に曲がっているので、その先は分からない。
「……名沙、ダメッ!」
「あっ」
その時、秋葉が強く私の腕を引いた。急だったので、バランスを崩した私はその場に尻もちを付いて倒れる。
「あっ、ごめん……大丈夫?」
今度は私を立ち上がらせるために、手を差し出した。少し涙目の顔。私は秋葉を泣かせてしまったのか。
「……戻りましょ」
我に還った私はそう言い、それから半ば逃げ出すように門の外まで走った。私の手を握る秋葉は私のペースに合わせてくれた。その横顔を見ながら、私はこのまま二人でどこかへ逃げ出せるならなんて思ったりもした。
それは時間で言えば一時間も満たない、短い冒険だった。帰ってくると、私たちの両親は手―ブルで平和そうにモーニングを取っていた。
「どこまで行ったの?」
お母さんは用意した紅茶を盆に乗せ、私に渡した。
「ありがとう。ちょっと迷っちゃって」
「お、お母さんたちはどうだった?」
秋葉が話題を変えようと訊ねたが、言い方に不自然さがあった。まだ怯えているのだろうか、視線が覚束ない。
これじゃ二人に怪しまれてしまうと思ったが、二人は特に気にする様子もなかった。
「温泉に行ってきたよ。いやあ誰もいないから広々としていてかなりくつろげたよ」
「お母さんは足湯だけにしておいたけど。凄くのんびりできたわ」
「そう……良かったね」
「秋葉たちも来ればよかったのに」
「う、うん……行くよ。ね、名沙」
「えっ? あ……そうね」
ソファに座り、お母さんに貰った紅茶に口を付ける。
「あれ。この紅茶……淹れ方変えた?」
「……少し濃い目に出してみたの。おいしくない?」
「ううん……大丈夫だけど」
飲めないほどではないけれど、かなり濃かった。お母さんは普段、料理も上手なのだけれど、時々気まぐれのように無理に工夫を加えたりすることがある。今日が偶然、そういう気分の日だったのだろう。
私は目を閉じ、ゆっくりとその液体を呑み込む。喉の奥を通り、胃に辿り着くのを想像する。
目を開けた時、私は夏一さんと目が合った。というより、夏一さんが私を見ているのに気付いたというべきかもしれない。
それだけだったら、敢えて気にすることでもなかったのだけれど、その後も夏一さんは私を見ていた。
私たちがしたことに気付いている? いや、そんなはずはない。仮に発覚するとすれば、それは柴田さんが監視カメラに私たちの姿を見つけてからだ。そんな時間はなかったはず。
「……何ですか?」
「ん、何でもないよ」
「そうですか……秋葉、落ち着いた?」
「あっ……うん」
秋葉はカップをテーブルのお盆に置き、そのままキッチンへ向かった。
「あっ、秋葉。私が片付けるから」
お母さんがそう言って立ち上がるが、秋葉は蛇口をひねりそそくさとカップを洗う。
「もう……秋葉は帰って来たばかりなんだから、ゆっくりすればいいのに」
「カップ一つぐらいすぐ洗えるから。気にしないでください」
秋葉が敬語を使ったことが、胸に刺さる。最近、すっかりいい関係になったかと思ったけれど、まだ完全には信頼できていないのか。
でも、それはある意味どうしようもないのかもしれない。秋葉は前のお母さんのことが大好きだったから。
「秋葉の分も洗おうか」
「ああ……じゃあお願い」
立ち上がり、カップをキッチンまで持っていく。その時の秋葉と一瞬目があった。その時の目を見て、私は驚いた。その瞳には強い怒りの色が宿っていた。表面上には見せないようにしているけれど、私には分かる。
その怒りは私に対してだろうか。無自覚のうちに、私は彼女を不機嫌にさせる何かをしたのかもしれない。
「あの……秋葉」
「お父さん、この後はどこかに行く予定?」
言葉を紡ごうとした私を遮って、秋葉はテーブルの夏一さんに目を向けた。さっきの怒りに満ちた表情が嘘だったかのように消えていた。
「十一時からカヌーで川下りの予約をしているよ」
「そう……じゃあ、まだ時間があるね」
「ただ少し歩くから、遊びたいならコテージの近くか家の中にしなさい。時間内にいなかったら柴田さんに迷惑をかけるからな」
「大丈夫……遠くにはいかないようにする。じゃあ名沙、さっき言ってた通り、外でお喋りしようよ」
「……え?」
そんな話、していない。けれど秋葉が私に話があるのだろうということはすぐに分かった。
「あ、ああ。そうだったわね。いいわよ」
「オッケー、じゃあ行こ。行ってくるね、お母さん」
「えっ、ええ……行ってらっしゃい」
「目の離れた所には行くんじゃないぞ」
「分かってるって……」
私は秋葉の強い力に引かれ、逃げ出すようにコテージを出た。靴に踵を入れる暇もなく、よろけながらも、秋葉はお構いなしに私をぐいぐい引っ張っていく。
「秋葉……ちょっとどうしたの、そんなに急いで」
「時間がない……急いで」
「時間って……ちょっとどういうこと」
秋葉はコテージから少し離れた、ドラム缶やキャンプ機材などが置かれた所で足を止めると、その場にしゃがむように言った。戸惑いながらも、その緊迫した表情を見ると、黙って言う通りにするしかなかった。
「ごめんさい……私、もしかして秋葉に何か」
「ねえ名沙……答えて」秋葉は私の肩を強く握り、顔を近づけて言った。「あなたのお母さんって何者なの?」
「お母さん?」
「さっき、静香さんが淹れた紅茶……あれ、睡眠薬が入ってる」
「えっ……?」
言葉の意味を理解するのに時間がかかる。お母さんが睡眠薬? いったいどういう意味?
「あなたの紅茶にも入ってたんじゃない?」
「そんな……そんなわけないじゃない。秋葉、急にどうしたの?」
「睡眠薬の味がした。私、あの味知ってるもの。ねえ、あなたも以前に飲まされたことなかった?」
「あるわけないでしょ。どうしてお母さんが……」
とは言いながら、心の中で一つの記憶が頭に浮かんでいた。確かにあの時も同じようにやけに濃い料理を食べて……その後、急に眠たくなって。
「……心当たり、あるのね」
「ない。ないわよ……そんなの」
「嘘、あるんでしょ。ねえ、本当のことを言ってよ」
「訳分かんないっ!」
気が付くと、私は秋葉の手を強引にはぎとり、その場から駆け出していた。
しかし、それはすぐに訪れた。
「……あれ」
突然。重力が何倍にもなったように身体が重くなる。足を前に出そうとしてもうまく行かない。やばい、意識が朦朧としてきた。
「名沙っ!」
あっ、と思ったら巨大な壁が私の行く先を遮った。私は壁に激突する。じゃりじゃりとした土の感触。あれ……これは地面? どうして地面が私の目の前に……
あれ、私……倒れて……