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TWOPLACE  作者: 心野想
17/30

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『他人の顔』という小説がある。昭和の作家の阿部公房の代表作の一つだ。夫は精巧なマスクで他人に成り代わり、自分の妻を誘惑する。最後は夫が自分の正体を晒すが、実は妻は最初からそのことを知っていた、という結末で話は終わる。


「……起きてたの?」

「よく寝ていたわね、秋葉」


私は文庫本を閉じ、彼女の乱れた髪をそっとなでた。艶やかな黒い髪。子どもらしい丸い瞳はまだ眠たそうな深い二重。腕を伸ばした時に漏れる声のかわいらしさ。


「本を読んでたの?」

「ええ、早く目が覚めてしまったから」


 本当は、彼女の寝顔を見るために早起きをしたのだ。もちろん、彼女にそんなことは言えない。言えるはずがない。


「あれ、父たちは?」


 隣の空いたベッドを見て秋葉が訊ねた。起き上がった時に、私の手が彼女頭から離れてしまう。

 私は布団から出た。


「朝風呂に浸かるために二人で出かけて行ったわ」

「おー、大人なのに元気だなあ」

「私達も行く?」

「名沙は行きたいの?」


 訊ね返されて言葉に詰まった。こんな時に、迷わず自分の感情を伝えられるなら、どれだけいいだろう。でもそれは私はじゃない。


「……別にどちらでも」

「じゃあ行かなーい」

「そう」


 私は先に部屋を出て、後ろ手でドアを閉めた。階段を降り、キッチンで二人分のお湯を沸かす。

 自然とため息が出た。


「ダメだ、私……」


 自分を制する魔法をかける。理性的に生きていきたい。そう思っているのに、なぜだろう。秋葉のことになると、私は感情を抑えきれなくなる。

 特にここに来て、気持ちが肥大化しはじめている気がする。

 引き出しからTパックを手に取り、コーヒーカップのふちに持ち手の紐を引っかける。今日一日をどうして過ごそう。気分的には鬱展開のミステリーに浸りたい。持ってきた短編集の中に、そんな話があるだろうか。

 しかし、そんな思いも秋葉の一言で簡単に崩れ去る。


「ねえ今のうちに、ちょっと探検しない?」

「どこに?」

「看板に載ってた閉鎖したドーム」

「どうして?」

「あたし実はさ、廃墟とか工場萌えなんだよね」


 その発言が本音かどうか、私は少し疑った。彼女の趣味は六人組の男性アイドルグループとアニメで、彼女の部屋にはそれ専用の棚がある。マスコット系はスヌーピー派だし、廃墟好きな性質は見当たらなかった。


「そんな風には見えないけれど」

「最近だからね。この前見たアニメがすごく絵がきれいで、ラスボスとのバトルが壊滅した都市だったんだけれど、それがすごくかっこよくてさー」


 結局、アニメ関連だったわけだ。喉に引っかかったものが取れた気分。


「ねえ、いいでしょ。ちょっと見て帰るだけだからさー」

「……そうね」


 断る理由はない。親には一言書き置きをしておけば大丈夫だろう。ただ心配して後から邪魔されたくないから、行く場所は曖昧にしておこう。


「いいわよ。行きましょう。傘持ってきてる?」

「傘? 雨は降ってないよ?」

「念のため、よ。天気は変わりやすいから」

「分かった。じゃあ折り畳み傘をカバンにインしていく! よっしゃ、じゃあ着替えるぜ!」


 二人でそそくさと着替えを済ませ、コテージを出る。大きく息を吸い込むと、朝の冷えた空気が体内から指先まで広がっていく感覚がした。彼女は夏らしいTシャツとスカートで家を出たが、すぐに持っていた上着に袖を通した。

 コテージの裏側へ回り、周囲に草の生い茂る道を進む。道は少し上り坂で、その勾配が急な部分には、丸太でできた段差が設けられている。


「なんだか登山するみたいだね」

「鳥の声が聞こえたわ」

「えー、何の鳥だろう」


 歩いて十分ほどで森の入り口が見えてきた。人が立ち入らないように、二つの杭に結び付けたロープで道を塞いだ形跡がある。今では雨風を受けた影響で、杭は傾き、ロープもだらんと地面に落ちてしまっているため、そこを跨いで越える必要すらなかった。


「立ち入り禁止って、なんだか悪いことをしているみたいでドキドキするね」

「何を言っているの。悪いことをしているのよ」

「……やっぱりやめとく?」


 秋葉は申し訳なさそうにそう言った。根が真面目な性格だから、ふと我に還って、自分の行いに罪悪感を抱いたのかもしれない。

もしくは、無人の森に足を踏み入れるのが怖くなったのか。


「やめない」


 私はきっぱりとそう言った。誰にも邪魔されない二人だけの時間なのだ。こんな機会はそうそう得られるものじゃない。


「もしかして怖いの?」

「こ、怖いっていうか。お父さんたちが心配するかなーって」

「大丈夫よ。私がついてるんだから」

「名沙は怖くないの?」

「それ、自分が怖いって白状しているようなものだけど?」

「あっ……確かに」

「……怖くないわよ。それどころか私はこういう場所嫌いじゃない。視界に誰も人がいなくて、なんだか普段の世界とは別次元の場所にいるみたいでしょ」

「なんだ。付き合ってもらってると思ったら、名沙も好きなんだ。廃墟」

「……好きよ」


 告白のように私はそう告げた。もちろん。彼女はそうは受け取らず、同じ廃墟好きだと知ってうれしそうにするだけだった。でも私にはその笑顔を見れたことで充分だった。

 そう。充分。

 あの日の夜。私の部屋で、つい感情が高ぶって、秋葉にキスしそうになったあの日の夜で私は理解したのだ。今以上、距離を縮めれば彼女はきっと遠ざかる。きっと私が近づいた距離の何倍も。


 歩いている内、不安な色をした雲の集団が遠ざかっていった。周囲の森が朝日を浴びて輝きはじめる。風はまだ冷たいが、震えるほどではなかった。


「あったかくなってきた。傘、いらなかったかもね」

「そうね……」


 子どものように足を引きずって砂の音を楽しむ秋葉。わずかに揺れる髪から見え隠れする少し尖った赤い耳。


「おっ、監視カメラがある」


 枝の茂みに隠れるように設置してあるそれを見つけた。


「よく分かったわね。全然気が付かなかった」

「えへへっ……特殊能力持ちだから、あたし」

「特殊能力ってアニメじゃないんだから」


 半ばあきれながらもそんな子どもらしさも彼女の魅力の一つだ。


「本当だよ。だってあたし、カメラの視線が分かるんだもん」

「……それは凄い能力ね」

「あ、信じてないな」

「人の視線だったら分かるわ。でもカメラの視線なんて。別にレンズが何かを放射しているわけでもないし」

「あたしさー、カメラ嫌いなんだよね。だからだと思う」


 彼女が携帯に付いているカメラレンズを私に向ける。私も写真は好きじゃないが、向けた相手が秋葉なら別に構わないと感じた。不思議な感覚だ。


「カメラってさ、スマホに付いてて、みんな持ってるけどさ。本当はそれってすごく怖いことなんじゃないかって思ってるんだよね」

「っていうと?」

「だって写真って撮られたら、残るでしょ? 撮られる人は映んないのに、映ったものはその人の所有物になって、自由に使えてしまう。しかも撮られた側は、それに全く気付けないんだよ。それって怖くない?」

「秋葉、盗撮された経験でもあるの?」

「そう言うんじゃなくてさ……うーん、何て言えば伝わるだろう」

「大丈夫、伝わってるわ」


 私がそう言うと、彼女は恨めしそうな目でこちらを見る。思ってもないことを無意識に口にしてしまう私の悪い癖を見抜いているのだろう。


「信じるわ。あなたの特殊能力。名前付けた?」

「げっ、なぜ気付いた」

「高校二年生の女の子が中二病らしいネーミングでも付けた?」

「う……な、内緒」


 風が強くなった。

 その時には、視界に目的地が入った。

 そして建物の前に辿り着いた時、私たちはその巨大さに思わず門の前に立ち止まり、しばらくその建物を見上げていた。

そして、おそらく私が今感じていることを、秋葉もまた感じているに違いない。


「今は使われていないって言ったけれど……」

「どう見ても、最近建てられたものよね」


 門にはデザインされた『S』のロゴが社名のように刻まれている。そして、その下に金色の文字で『関係者以外立入禁止』という文字が掘られており、英語と中国語でも書かれている。

 すぐに浮かんだのは、柴田さんはこの辺りの土地を売却したのでは、という疑問だった。別に敢えて言うこともないので黙っていたのかもしれない。

 それが正しいのだとしたら、私たちが見に来た建物はすでに取り壊され、そして新しく建てられたのが今、目の前にある巨大施設なのではないだろうか。

 しかし、こんな人里離れた森の中に、いったいどんな目的の施設なのだろう。


「さすがに中に入るのはまずいよね……雰囲気的に」


 門には扉があり、その扉は少しだけ口を開けていた。物理的に侵入することは可能だけれど、ここは私たちが想像していた廃墟ではない。

 しかし、そのことが逆に私の好奇心を刺激していた。


「秋葉はここで待ってて。私は入ってみる」

「……本当に?」

「今、監視カメラは?」

「あるよ……そこと向こうの柱の上にも一か所」

「どちらにしても見られているなら一緒よ」

「でも怒られるよ?」

「怒られるだけならいいじゃない。だったら私、ここがどんなところか見てみたい」


 ミステリー小説を探す必要はもうないわね。そんなことを思いながら、私は迷うことなく、扉の隙間に身体を滑り込ませた。

施設とは別に、少し向こうに小さな小屋のようなものが見えるが、辺りに人はいない。


「誰もいないわ」

「……本当?」


 秋葉は明らかに一人になるのを恐れているようだった。


「問題ないわよ。付いてくる? あれだったら先に戻っててもいいけど」

「そんなことできないよ……んー、じゃああたしも行く」

「そう。じゃあ行きましょう」

「ちょ、ちょっと見るだけだからね! すぐに戻るんだから」

「……ふふっ、分かってる」


 そうして私たちは二人で、施設の門をくぐった。



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