15 takearisk
通気口、とは言えない。
それは断定できる。それぐらい、ハッチの先の空間は広く、立ち上がっても差し支えない広さだった。
ただ灯りがないので周囲の様子は見えない。
「何か見えるか?」
「何にも。全部が真っ暗」
「そうか……くそっ、バカだったな。懐中電灯ぐらい用意しておくんだった」
「ありますよ」
下を覗き込むと、クラソが私に懐中電灯を差し出した。
「用意周到過ぎておそろしいわ、あんた」
「お褒めのお言葉、痛み入ります」
「いや褒めてないって」
部屋に備え付けの懐中電灯。確かうちの部屋にもあったな。自分の部屋の棚を思い出しながらスイッチを入れる。
FSの施設はどこもかしこも真っ白だけれど、そこは無機質な灰色の空間だった。コンクリがむき出しで、太い支柱が等距離に並列している。
何より、広い。
「よいしょっと」
クラソが上ってきた。しばらく無言で周囲を見渡したのち、まるで絶景でも見たかのように息を漏らした。
「……ほう」
「ほう、じゃないぞ。どうすんの、これから」
「そうですねえ……ひとまず北に向かって歩きますか」
「北って……方角分かんの?」
「方向音痴の逆の意味の言葉があるのか知りませんが、もし存在するとしたら、その振り仮名には『クラソ』と振るべきでしょう。フッフッ」
棒読みの笑いを周囲に散らしながら、懐中電灯もなしに暗闇の中を歩きはじめるクラソ。
「ちょっ、あんた、見えんの?」
「僕、視力いいんですよ」
「嘘付け、眼鏡してるじゃん」
「ああ、訂正します。僕、暗闇に強いんです」
目が赤外線スコープにでもなっているんじゃないだろうか。増々、クラソが人間に見えなくなってきた。
「じゃ待っててよ。絶対待っててよ」
「オーケー、任せてくれ。今、猛烈に尿意が襲って来ていて、お前らが帰ってくる頃には漏らしていること間違いなしだろうが、まあ気にするな」
「……いや、それは行ってくれ。すぐには戻らないだろうから」
緊張感のない男子たちとは反対で、あたしの心臓は鳴りっぱなしだった。
当然だ。だって現在、あたしは絶賛違反行為中。バレれば即地獄行き間違いなし。これで恐怖を感じないなんて、あたしには考えられない。
「勉強できるやつって、やっぱり少し頭いっちゃってるよね」
「ん? それって僕やシェルマーのことを言ってます?」
「いや、うーん、いい意味でね。いい意味で、いい意味でだよ?」
「オワリさん。連呼すると説得力減るんですよ、知ってます?」
「そ、そうだよね……ははは」
闇の中、懐中電灯の灯りだけを頼りにまっすぐ進んでいく。
「あっ」
何かを思い出したように、クラソが立ち止まる。
「えっ、何? 何?」
「忘れてました。僕、油性マーカーをポケットに入れてたんです」
「それがどうしたの?」
「いや支柱があるから、それに目印を付けながら歩けば、帰り道に迷わないなあと思いまして」
ヘンゼルとグレーテルだったか図書館の本で読んだ物語でそういうシーンがあったのを思い出す。パンのかけらを落としながら森の中を歩いて、でも小鳥がパンを食べてしまう、というやつ。
でもマーカーを食べる生物はこの世に存在しない。
「そ、それグッドアイデア。どうする、一度最初の地点まで戻る?」
「うーん……まあいいか。とりあえずここから目印を付けていきましょう。幸い、まっすぐ歩いてきましたし、まだ十七本目なので」
「あっ、数えてたんだね。あたしも数えてた」
「おっ、気が合いますね。結婚します?」
「いいから早く目印を書け」
振られました、と残念でもなさそうにつぶやいて支柱のすみに、小さな字で目印を残す。懐中電灯を当てると、一センチにも満たない大きさで〈四二〉と書かれてあった。
「小さすぎない? っていうか、四2ってどういうこと?」
「……うまく説明できませんが、可能性を試している、です」
「何の可能性よ」
「まあまあ、どんな数字でも目印になればいいじゃないですか」
「……まあ、いいけど」
《四二》の意味はすぐに分かった。次の支柱に《四一》と書いたためだ。続いて《四〇》、《三九》と記入していく。数字を逆にたどっているだけだ。でもなぜ《四二》からはじめたのだろう。
「少し肌寒いね、ここ」
「女子の私服って基本的に寒そうですよね。大丈夫ですか」
「うん。年中同じ室温の中にいるから、たまにはこういうのもいいかも……」
ふっと頭に浮かんでくるイメージ。それは壁がぼろぼろの廃墟。左手に階段、右手に通路が伸びていて……曇りなのだろうか。視界が全体的に青暗い。そして……誰かと一緒にいる。
これは消された記憶の断片なのだろうか。それとも初めて訪れる場所にイメージが膨らんだだけ?
「……考えても仕方ないか、ってあれ?」
「どうしました?」
「あそこの床、何かあるよ」
その方向に懐中電灯を向ける。そこはあたしたちがまっすぐ進んだ通路から一つ右側にずれた位置にあった。
直前の支柱に《二六》と記入してから、クラソはしゃがみこみ、確認する。あたしも近付いてみると、そこにはさっきと同形状のハッチがあった。
「……ナイスです。オワリさん」
クラソは再びしゃがみ込み、ハッチに耳を当てた。
「……何か、音が聞こえます」
「ど、どんな音?」
「カサカサって音です。風の音、でしょうか」
「風ってことは……もしかして外に出られるとか?」
「うーん、さすがにそれはないんじゃないですか」
「どちらにしても開けてみるしかないでしょ。すでにリスク背負っているんだし」
「……そうですね。でも中に人がいるかもしれないですし、もう二、三分待ってみましょう」
「分かった」
あたしもクラソと同じように床に耳を当てた。言われた通り、木々が風に揺れるような音が断続的に聞こえている。なだらかな丘に点在する高木たち。そんな光景を彷彿とさせるけれど、でもあたしのイメージだと、そこに天井は存在しない。
イメージを変えてみる。次に浮かんだのは壊れかけの換気扇だった。ボロボロすぎて途中で止まってしまうけれど、死に抗うように再び動き出す。いや、あまりにもこれは突拍子もないか。
「……これは機械の動作音です」
独り言のようにクラソがつぶやいた。
「どうして?」
「音が鳴るタイミングが一定です。ファンかモーターの回転音だと思います」
「……なるほど」
「今のところ、それ以外の物音はないようですね」
「……じゃあ」
「はい、ハッチを開けてみましょう」
ハッチはこちら側からでも開けられるように取っ手が付いていた。二人で持つだけの大きさはないので開ける役をクラソに頼み、あたしは隙間から中の様子を覗くことにした。
「心の準備はいいですか?」
冷たい空気を吸い込み、ゆっくりと吐く。視点を手の平の一点に集中させ、落ち着くのを待った。
「……ゆっくりだよ。ゆっくり開けて」
「分かりました。それじゃあ行きますよ」
クラソの腕に力が込められるのが空気で伝わってきた。閉じた口から小さな声が漏れている。かなり重いようだ。そのことから、この天井裏が普段使われていないことが分かる。
あたしは瞬きを忘れ、目の前の境目を穴が空くほど見つめる。やがて蓋が持ち上がり、境目から青い光が差し込んできた。
「ど、どうですか?」
かすれた囁き声でクラソが訊ねた。あたしは一度、床から顔を離した。
「大丈夫。暗いから、多分中に人がいても気付かれない」
「……なら、このまま開けますよ」
「うん。開けて」
あたしの言葉で、クラソは一気にフタを持ち上げた。そのまま、音を出さないように浮かせたまま、五十センチほどの隙間を開けて、フタをゆっくりと床に置いたかと思うと、急いでその場から離れていった。
「えっ、どこに行くの?」
懐中電灯はすでに消してある。クラソが視界から消えるのを恐れ、あたしは追いかけた。やがてクラソは立ち止まった。
「ハァー、しんどかった」
通路に響きそうな、そこそこ大きめの声量でクラソが叫ぶ。
「バカッ、聞こえるって」
「はぁはぁ……すみません。どうしても声を出したくて」
「こんな時ぐらい我慢しろよ。危険すぎるわ」
「こんな時だからですよ……よし、もう大丈夫です」
二人で同じ方向に目を向ける。暗闇の向こう側に、床から差し込んでいる青い光。
「中の様子は見えました?」
「暗くてあまり見えなかった。でもクラソの言う通り、大きな装置っぽいものが見えたよ」
「そうですか。僕も確認してきますので、ひとまずここから動かないでください」
あたしは頷いた。
クラソが光の元にしゃがみ覗き込む。体感時間で二、三分間は眺めていた気がする。その後、再び立ち上がって帰って来るなり、クラソは間髪入れずにこう言った。
「人の気配はありません。降りてみたいと思います」
「えっ、でもどうやって降りるの? 結構な高さだったよ」
「趣味で柔道をやっているので受け身で」
「……じゃあどうやって戻ってくるの?」
「運よく近くに装置らしき物体があるので、そこから飛べばギリギリ届くと思います」
「思いますって……本当に大丈夫?」
「仮に僕が無理だとしたら、他のメンバーは絶対に無理です。なので、僕が試すのが一番確率高いです」
「でも戻って来れる保証はないんでしょ」
クラソはあたしに背を向けた。それは肯定の証だ。ならば、やはり行かせるわけにはいかない。もしこれでクラソが捕まり、《地獄行き》になれば、あたしは絶対に後悔する。
「ダメだよ、やっぱり一度戻って」
「僕は一度、この天井裏に来たことがあります」
あたしの言葉を遮ったその一言は、口調こそ穏やかだったが、不思議な力強さであたしの口を封じた。何よりもクラソの発言の内容だけであたしを黙らせるのには充分だった。
「ここに、来たことがある?」
「……気のせいの可能性もあります。デジャブのようなものかもしれません。でも、この天井裏に入った瞬間、ここに来たのは初めてじゃない、って思ったんです」
「もしかして過去の記憶があるの?」
「僕であって僕でない……これは記憶、なのでしょうか。表現が難しいですが、細胞がそう言っているといった感覚です」
受け取ったその言葉のニュアンスは、あたしが見る夢に対して抱くものに似ていた。ある夢から自分は片親だと信じている。その根拠はクラソが言うように、細胞がそう言っている気がする。
「あのハッチを見つけたのはオワリさんです。以前の僕はこのハッチに気付かず、他の出入り口を見つけたのだと思います。そしてそれはきっとここから支柱を二六本分進んだ先にあります」
「だからはじめに四三って数字を書いたの?」
「そうです」
「行って確かめてみる?」
あたしが聞くと、クラソは首を振った。
「嫌な予感がするんです。おそらくそっちから降りて失敗したんだと思います。だからこそ僕は今もこの施設に閉じ込められたままなのでしょうし」
「……ちょっと待って。仮にそれが本当だとしたら、クラソは以前もこの施設にいたってことになるよね。だったら古い先輩があんたのことを覚えてる可能性はあるんじゃない?」
「……一番古い先輩は先々月に卒業した方でしたが、覚えていないの一点張りで取り付くしまもありませんでした。次に一番長い先輩がチセさんだったのですが」
「チセも覚えていないって?」
「……どうなんでしょう。でも彼は何かを知っている気がします。それが何かまでは分かりませんが……」
「はぐらかされたわけだ」
その光景は容易に想像が付いた。考えてみたらあいつはいつもそうだ。いつもあたしたちより一歩先を知っているかのような態度を取って、それが何かをはっきりと教えてはくれない。
それであたしたちのリーダーを名乗っているって? 信じられない。
「……分かった。チセにはあたしが直接聞く」
「オワリさん、無理ですよ。彼は何も話さない。あるいは話せないと言った方がいいのかもしれません」
「そんなの聞いてみないと分からないでしょ。それにあたしはもう聞いてみないと気が済まないモードだからクラソが何を言ってもあたしの決意は変わらない」
「……まったくあなたって人は」
クラソが笑った。珍しい、というより初めて見たんじゃないだろうか。そう思うぐらい、人間らしい笑顔だった。
「ありがとうございます。オワリさん、あなたが仲間でとても嬉しかったです」
「そのセリフ、死亡フラグだよ。ほら戻るよ」
「……すみません」
その言葉は、振り返って戻ろうとするあたしの背中に向けられた。振り返った時には、すでに遅かった。彼はあたしとは逆方向に向かって駆け出し、ハッチの方へと一直線に向かっていった。
「バカッ! 何して……」
「あなたは先に戻っておいてください」