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均等に飛び去っていく壁の境目を追いかけていた。夏一さんはスピード狂で、車に乗るたび、違反で停められないのが不思議だった。
お母さんがいつものように助手席に座り、私と秋葉が後部座席に座る。助手席に乗ろうとして、思い出したように後部座席のドアを開ける秋葉の顔を見ると、私の部屋にある小説のように、世界の理を突き破って時間を巻き戻してあげたいと思う。
そんなバカげた空想を考えるのは、悪い癖だ。
「名沙、それ」
隣にいる秋葉が私の手を指して言った。前の席に届かないぐらいの声で。
「ああ、癖なのよ。小学生の時に、友達が教えてくれて」
両手のペアの指の先端同士を重ね合わせて、薬指だけを離し、自転車のペダルのように回転させる。
「薬指が他の部分に触れないように回転させるの。こうすると脳の空間認識力が上がって頭が良くなるって」
「ほ、本当?」
「まさか。科学的根拠はないわ」
私は手を止め、両ひざの上に乗せた。そして再び、窓の外を眺める。猛スピードの車の中にいると、同じ速度の他の物体が停止して見える。
静止した世界というのは原理的に不可能だ。静止しているように見えても、地球の回転する力が加わっている。私達はいくら立ち止まっていても、世界はおそろしい速度で進んでいるんだ。瞬き一つすれば父は目の前から姿を消し、次の瞬きで新しい父が現れ、そしてお母さんのお腹が大きくなる。
世界は進んでいる、恐ろしい速度で。
「名沙、難しいね、これ」
声がしたので振り向くと、秋葉はさっき教えた指遊びをやっていた。はじめたばかりのあたしのように、回転する薬指があっちこっちにぶつかっている。
「最初はそんなものよ。毎日やってるうちに少しずつ上達していく」
私はそう言って手本を見せた。薬指を逆回転させたり、違う指で試したり、同時に複数の指を回転させたり。
「おおっ、名沙すごいっ」
秋葉の優れた性質は、他人が自分より優れている点に対して素直に驚けるところだ。それは私に欠けているものでもある。特に勉強、才能、知性とかそういった類の言葉で表す能力に関しては、誰にも負けたくない。
今、こうやって秋葉に手遊びを見せているのも、自分の優れている点を披露して、自己優越性を満足させたいという気持ちがあった。
高速を降り、しばらく進むと車は山の中に入った。途中、開けた道路にキャンプ場の大きな看板があった。
駐車場は湖に面した砂利のスペースで、決まった停車位置はないようだった。湖の前に横づけるように車が停まる。
「うん、晴れてよかった」
確かに…期は良かったけれど、それよりも他に車がないのに驚いた。ネットに載っていない穴場のキャンプ場だと夏一さんは言っていたけれど、かといって土日に全く客がいないなんて、どうやって経営できているのだろうか。
「車、他にないんですね」
「ん、そういえば確かに」
「ってことは、もしかしてあたしたちの貸し切り?」
「うん、そういうことになるね」
「おーっ、なんかめっちゃリッチじゃない?」
秋葉が無邪気に飛び跳ねる。彼女の笑顔が私は好きだ。このキャンプ場のことは気になるけれど、それも彼女のその姿を見ていると、どうでもよいことに思えてしまう。
これが人を好きになるという気持ちなのだろう。
これまで恋愛話にわーきゃー叫ぶ同級生たちを冷ややかな目で見て来たけれど、なぜ彼女たちがあれだけ騒ぐのか、今なら少し分かる気がする。
「行くわよ。秋葉、ほら自分の荷物を持って」
「イエスイエス。オフコース」
昨晩、信じられない量の荷物を詰め込んだリュックを秋葉は勢いよく背負う。私の荷物は着替えと本だけので、背後から彼女のリュックを持ち上げながら歩いた。
お母さんは夏一さんに身体を支えられながら先を歩いている。
そして、砂利の登坂を登ったところに、Tシャツにハーフパンツ姿の男性がいた。こちらに向かって手を振っている。
「久しぶりだな、夏一。静香さんも」
「いつの同窓会ぶりだよ」
「お世話になっております」
夏一さんとその人は握手を交わした。その人が母を知っているのは意外だった。
「娘二人だ。ほら、あいさつしろ」
「こんにちは」
「……こんにちは」
「可愛いお嬢さん方だ。明日まで島田家の貸し切りだから、ゆっくり羽を伸ばして下さい」
「貸し切りって、わざわざ俺達のためにしてくれたのか?」
「気にするな。元々、予約客も二組しかいなかったし、その客も毎年の常連だからな。オプション分をサービスしますのでって話して、日付をずらしてもらっただけさ」
「さすが《オウジ》。民のために尽力していただき、感謝の言葉もありません」
「馬鹿、身内ネタを使うな。お子さんたちもぽかんとしているだろうが」
後で聞いた話では、キャンプ場のオーナーは夏一さんと高校の同級生で、名前は柴田央二というらしい。当時の柴田さんは今より痩せていたため、《オウジ》と呼ばれていたらしいけれど、今では見る影もない。誰とでも気軽に話しかけられる、元気な田舎のおじさんという印象だった。
「宿泊場所に案内しよう。こっちだ」
すぐ先に手書きで描かれた全体図の看板があった。そのマップで見ると現在地は南東。中央にコテージがある。その東側は森を切り開いた広場で、バーベキューの絵が描かれているので、今晩はここで食事をするのだろう。
「名沙、ここにあるの何だろう?」
名沙が訊ねたのはマップの北西、森の中にあるドーム型の施設だった。建物の名称が書かれた形跡はあるけれど、ペンキで塗りつぶされて消えている。
「そこはかなり前に閉鎖したんだ」
背後にいた柴田さんがそう説明した。
「以前は、そこにサーカス団を呼んだり、カーニバル隊を雇ってショーの開催をしていたんだが、いまいち流行らなくてね」
「キャンプ場でサーカス……斬新ですね」
「だろう……俺はウケると思ったんだがなぁ」
「ほら、立ち止まってないで行くぞ、二人とも」
向こう側から夏一さんに呼ばれ、秋葉が手を振りながら駆けていく。私もその背中を
追った。
「おー、二人とも。元気なことだ」
コテージは思ったよりも豪華で大きかった。丸太づくりの二階建てで、二階の南向きがベランダになっている。
「家族だけでしんみりやりたいお客さんもいるから、二階でもバーベキューができるような作りにしているんだ」
「ほう、オウジのこだわりを感じるな。いいコテージだ」
「少し歩いたところに温泉もある。自慢じゃないが、一流旅館の設計士にデザインからやってもらったから、一度入れば病みつきになるぜ」
「それは楽しみですね。夕食の後、みんなで入りましょう。ね、名沙、秋葉」
「……うん、た、楽しみだなあ」
「私はコテージのお風呂でもいいけれど」
その後、柴田さんはキャンプ過ごし方について説明してから、すぐ近くのスタッフ用施設に戻っていった。
「まだ着いたばかりだから、ゆっくりしよう」
「そうですね。コーヒーでも淹れましょう」
「いいっていいって、静香は座って。もうお腹もかなり大きくなったし」
夏一さんがお母さんをソファに座らせ、テレビを付けた。
「お父さん、いいよ。あたしたちが淹れるから」
「おっ、気が利くな。じゃあコーヒーで」
キッチンの引き出しを開くと、スティック型のインスタントコーヒーの袋が入っていた。隣には紅茶のパック、その下の引き出しを開けると急須が入っていた。
「普通のお茶もあるけれど、お母さんどうする?」
「ありがとう。ならお茶がいいかな?」
「分かった」
といっても、やることは夜間に水を入れ、火にかけるだけだった。ソファに戻るのもなんとなくはばかれたので、コンロの前にただ意味もなく経っていた。
「おっ、これはなんだ」
秋葉は知らないキッチンの引き出しを一つ一つ開けて、その中身を確かめていた。今、彼女が開けた引き出しには、一冊の本が入っていた。
「名沙、これ。『初心者でも分かるバーベキューの心得1〇〇』だって」
「そういう類の本、実際に役に立つのはせいぜい一つか二つでしょ」
「さすが本の虫。書店員でバイトしたら即戦力として期待されそうだね」
「いやよ。書店員なんて」
私は売る方じゃなくて消費する方だ。私の勧める本だけを書店に並べたら、すぐに潰れてしまうに違いない。
「そもそもアルバイトなんて時間の浪費だわ」
「えっ、そうかな。あたしはやってみたいけれど」
「アルバイトは禁止。まだ中学生だし」
「経験としてやってみたいの」
「理不尽に命令されてこき使われる。それだけよ」
「どうしてそういう極論を言うかな。名沙は社会を斜めに見過ぎだと思うべ」
「じゃあ社会人の給与を時給計算したらいくらぐらいだと思う?」
「えっ……わかんないよ」
「アルバイトの倍以上よ。福利厚生なども含めたら、それぐらいの計算になる。だから学生のうちは働くよりも勉強すべきよ。いい大学に行けば、より待遇のいい職を選べるわけだし、生涯賃金を最大化させることを考えるのなら、その方がずっと賢いわ」
「考え方がすさまじすぎる……時々、名沙が同い年だとは思えないよ」
双頭の蛇。犬の目を持った少女。多数の動物を合成して生み出されたキメラ。
やかんを眺めながら、頭に浮かんだイメージをそこに反映する。それは指遊びと同様、暇つぶしの一つ。
私は人間として何かおかしいのだろうか。秋葉を見ていると、自分がちゃんと人間としての性質を備えているのか、不安になる。勉強ばかりしているからいけないのだろうか。
少なくとも私は彼女のように、他人に伝染するぐらいのまっすぐな笑顔を作れたことがない。これから先も作れる気がしない。
「人間をするって……面倒」
「えっ、何か言った?」
「ううん、何でも……」
「……あれ、これ何だろう?」
秋葉はそう言って、床に落ちていた一枚の付箋を拾った。差し出されたそれを見ると、『パスワード』と書かれてあり、その後に数字と英字を混ぜた記号が横書きで羅列されていた。
「桁、めっちゃ多くない? 何のパスワードだろう」
「……さあね。ただのゴミでしょ」
私はそう言って、なるべく自然な流れで彼女の手から付箋を取り、ポケットにしまった。後で一人になったら、考えてみようと思った。日常に時折現れる、こういう類の《謎》は、私にとっていい暇つぶしの材料になる。いや、これは単なる妄想か。
「お盆を出してくれない?」
「イエッサー」
悲鳴を上げたやかんから熱湯を注ぎ、飲み物をソファに運ぶ。お母さんは少し顔色が悪く、横になっていた。
「体調悪いの?」
「ううん……少し疲れただけ。ありがとう、いただくわ」
「つらかったら二階のベッドで休んでなさい。秋葉、父さんのコーヒーはまだかい?」
「ちょっと待って。コーヒー、いっぱい種類があって……どれにしようかな」