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夏休み期間中は、ESS部の活動は休止のため、必然的に一日の大半を家で過ごすようになった。名沙は一日中家で勉強したり本を読んでいた。一方、あたしは家にいると静香さんがうるさいので、勉強道具を持って外出することが増えた。
その日の夕方、あたしが帰ってくると、リビングにお父さんと静香さんがいた。お父さんはパソコンで作業をしている。以前は都内の証券会社で働いていたけれど、こちらに越してからはフリーのエンジニアとして働いているらしい。具体的に何をしているのかは知らないが、再婚して以来、父親は家で仕事をするようになった。
「おおっ、お帰り」
「ただいま、仕事?」
あたしが訊ねると、お父さんは腕を組んで、にやりと笑った。その勿体ぶった沈黙が、あたしに興味を持たせようとする意図に感じられて、イラッとする。
静香さんはキッチンで包丁を握り、また板を叩いていた。
「何よ、気持ち悪い」
「……いや、せっかくの夏休みだし、みんなでキャンプに行こうと思ってな」
「キャンプ? 春に箱根行ったのに?」
「いいじゃないか、楽しいぞ」
キャンプ旅行はあまり気が進まなかった。膨大な時間をぜいたくに使っている毎日をそれなりに楽しんでいたし、その時間が削られる方がいやだと思った。
冷蔵庫から取り出した牛乳をコップに注ぐ。
「いつ行くの?」
「今週末の日曜日から三泊四日」
「……いいけどさ、でも勉強計画が崩れけど、いいの? あたしキャンプ中にまで勉強したくないよ」
あたしは暗に静香さんに伝えようとしてそう言った。
お父さんもそれを察したように静香さんに笑いかける。
「キャンプ中ぐらいはなあ、母さん」
さりげなくあたしの味方になってくれたようだ。
「もちろん」
静香さんはまな板の野菜を鍋に落とした。
「せっかくのレジャーなんだから、リフレッシュしないと」
「本当にキャンプ場では勉強しなくていいの?」
あたしは念を押した。静香さんは以前、あたしとの約束を反故にしたことがあり、そのせいであたしは映画の約束を断って家で勉強する羽目になったのだ。だから今回も、静香さんが当日に心変わりする可能性があった。それを防ぐためには、お父さんという第三者のいる場できちんと約束を交わす必要があった。
「勉強道具、持っていかないよ?」
あたしがそう言うと、静香さんは鍋を掻き回していた手を止め、強く頷いてみせた。
「もちろん、だって家族旅行ですもの。めいっぱい遊びなさい」
「……そっか。なら行ってもいいよ」
夕食後、あたしは週末のキャンプの話を名砂の部屋でした。名沙はドライな性格なので、ああ、そうと最初は薄い反応だったが、その割には意外と嬉しいのか、キャンプについてあれこれとあたしに質問してきた。
「どれぐらい行くの?」
「三泊四日だってさ。行先は秘密だって言ってたけれど、どこに行くんだろうね」
「どこかの山の中でしょ。虫が多い所、嫌いなんだけど」
「まあまあいいじゃん。勉強しなくていいって言ってるんだし」
名沙は会話の相手をしながら、大学入試の過去問題を解いていた。感情や気分に流されない名沙の意志の強さはすごい。
「キャンプって何をするの」
「そう言われると返答に困るけれど。テントで寝泊まりしたり、外でバーベキューしたり……とかじゃない?」
「旅行って何をすればいいか分からないの。お母さんと二人の頃は旅行なんて行かなかったから」
「そうだね……あたしの家も同じ」
「大人って勝手よね。自分たちの都合で子どもを引っ張り回して……」
「でも行ったら行ったで、なんだかんだ楽しめると思うよ」
「そうかしら……」
名沙が英語の長文読解に入った。さすがに英文を読みながら日本語で会話をするのは彼女にも無理なようだった。会話の相手を失ったあたしはベッドにばたりと倒れた。寝返りを打つと、視線の先に本棚がある。その中に洋書が一冊あった。
「……洋書も読んでるんだ」
英語はあたしの得意科目で、名砂と成績を争える唯一の科目だった。
「全部読んだ?」
邪魔しては悪いと思いながら、ライバル心から質問をしてしまう。すると名沙は座席を回転させて、あたしに身体を向けた。
「あっ、ごめんね……邪魔して」
「それ、難しくてなかなか読み進められてないの」
「そうなんだ」
名沙の視線を感じながら、最初のページをめくった。これを読解できれば、名沙に勝てるかもしれない。
あたしが冒頭を訳している間、名沙の視線がずっとこちらに向けられているのを感じた。彼女も彼女で競争心が強いから、あたしの実力を知りたいのかもしれない。
「……ふぅ、結構、重そうな内容だね」
そう言いつつも、実際はほとんど理解できていなかった。あたしが読み取れたのは、砂漠に倒れる無数の死体と、そこに通りかかる銃を持った大男。
「国語の先生に勧められた本なの。私のこと買い被りすぎよね。こんな難しい本」
「そりゃ学年トップなんだから、買い被りもするでしょう」
「……そういえば」
名砂の声のトーンが変わった。
「……志望校調査用紙は書いた?」
「志望校……ああ」
あたしは思い出した。夏休みに入る前に配布されたA4サイズの紙のことだ。終業式の日に受け取って、今も鞄の中に入れたままのはずだ。
「まだ書いていないけれど、名砂はもう決めた?」
「もちろん、決まってるわよ」
「やっぱりA校か」
「あなたは違うの?」
「うーん……私に入れるかなあ」
「こないだの模試でC判定だったんでしょ。充分可能性はあるじゃない」
「そうだけど」
「それとも他に行きたいところがあるの?」
「ううん、逆に行きたいところがないから迷ってる」
「私だって別にA校に行きたいわけじゃないわ。でも勉強しか取り柄がないから。得意なことで、より上を目指す以外にないでしょ」
「勉強しかって……名沙、美人だし、運動もできるじゃん。持ってないもの探す方が難しいぐらいだよ」
「……皮肉ね。あなただって成績上位だし、何より運動は私より得意でしょ」
「いやいや運動って言ったって球技だけだよ。勉強だって名沙に教わってなかったらって思うと」
「ねえ、秋葉――」
名沙があたしの名前を呼んだ。
彼女は自然に口にしたような雰囲気だったが、実はこれが初めてだった。
「秋葉は私にないものをたくさん持っているわ。だってあなたは誰に対しても自分を着飾ったり、偽りの自分を装ったりしないもの」
「名沙……きゅ、急にどうしたの」
予想外の名沙の発言に、顔が熱くなってきた。誰かに褒められるなんて勉強以外では、ほとんど経験なかった。嬉しい反面、どう反応していいのか戸惑ってしまう。
「名沙、あなたは気付いていないのよ」
「き、気付いていないって何が?」
「あなた自身の魅力によ……クラスの中には、秋葉に興味を持っている男の子が何人もいるわ」
「いやいや、それはないって」
「本当よ……私聞いたもの。男の子だけじゃない。女の子だって、あなたともっと親しくなりたいって思っている。他の子には渡したくない。そう、秋葉が他の子と話すと嫉妬して……」
「あの、名沙」
「……秋葉、だから」
学校では私たちは双子の姉妹ということになっている。誕生日で言えばあたしがお姉さんで彼女が妹になる。
その妹が突然、私に覆いかぶさってきた。
「ちょっと……どうしたの」
「しっ、黙って」
名沙の手があたしの頬に沿えられる。名沙の背後から照らすスタンドライトの光の効果で、一瞬、あたしの上に乗っているのは名沙ではない、まったく別の黒い影のように思えた。そのシルエットの中で、眼鏡のフレームだけが光を反射している。その奥にある瞳にあたしは呑み込まれそうだった。
「……秋葉」
二本の脚があたしを捕獲するように背中に絡んでくる。八本の指が頬のラインを辿るように動いた。
吐息が頬にかかる。
名沙にキスをされると思い、とっさにあたしは彼女の肩をつかんだ。
「……ダメだよ、名砂」
あたしは俯いて、そう言った。
彼女はしばらく動かなかったが、その間、名沙が何を考えていたのかは分からない。やがてゆっくりと身体を持ち上げ、あたしから離れると、再び椅子に座った。
あたしはこの時、名沙に多少の恐怖を感じていた。目の前にいる彼女は本当に名沙なのだろうかと疑問に思うほどだった。
「……名砂?」
あたしが声をかける。
しかし、再び顔を上げた彼女はやはり名沙だった。
「馬鹿ね……冗談よ」
名砂は悪戯をした少女のように唇を傾けて言った。
よかった。いつもの名砂だ。
「ちょっ、びっくりさせないでよ……マジびびったー」
「秋葉のそんな顔が見たかったの」
あたしは苦笑いを浮かべながら、まだドキドキしていた。頭の中に一つのイメージが浮かんでいた。それは怪獣の卵だ。緑色で、赤い斑点に覆われていて、あたしの背よりも高い、ニワトリの卵の形をした球体。
名沙は知性的で、凛としていて、マンガで見るお嬢様キャラを具現化させたような子だけれど、でもそれは卵の表面の柄のようなもので、一度、その殻にひびが入り、破れてしまったら、全く別の人格へと変貌する。
もちろん、それはただの妄想だ。彼女の一瞬の表情から想像しただけ。だけれど、あたしは確信していた。おそらく今後も時々、この怪獣の卵のことを思い出してしまうだろう。