10 afterhearingtheresult
「……で、それから一言も会話はなし、かぁ」
ミタカはそう言って自販機で買ったジュースの底を持ち上げた。鏡越しに彼女の細く白い首がジュースを呑み込んでいく動きが見て取れる。
「うん……どうしたっちゃんだろ、シナギ」
「あのテストの日からねえ……他に気になった所はある?」
ジュースを置き、ハサミに持ち替える。彼女の手の動きは無駄がない。その繊細な手さばきは、きっと“外の世界”でも通用するに違いない。
削ぐように切り落とされていく、あたしの髪。
「えっ、何だっけ?」
「例えば本当のシナギは違う場所にいて、今ここにいるのは精巧なロボットとか」
「……うーん、でもシャワーも浴びているし、ご飯も食べてるけど」
「そんなこといったらこのハサミも洗浄するよ。まあご飯は食べないけれど……消化せずにお腹の中にストックするぐらいはできるんじゃない?」
「……確かに」
「まあ、あくまでも可能性の話、だけどね。でも現実的じゃないのは確か。オワリはどう思ってるの?」
「……記憶喪失、とか?」
「記憶喪失、ね」
ミタカが正面に回ったので、あたしは目を閉じた。横向きの刃が前髪を切り揃えている。お任せで、と言わずに少し注文を付けていればよかったかな。あたしは映像授業で見た日本人形を想像した。
「ほら、あれは? 実はこの世界自体が誰かの見る夢の中だってパターン」
「夢オチかよ……だったら早く目覚めて欲しいわ」
「本当にね」
からからと笑う彼女。すぐに真剣な表情になった。
「記憶喪失……というより記憶消去か。少なくとも私たちは一度経験しているわけだ。この施設に来る前の記憶……その意味では、記憶を再び消去されたって考えるのが一番妥当な線だね」
「っていうか、もう絶対そうじゃないですか」
「奪われた記憶……まあ連行されて一日程度で帰ってきてるし、脳神経を焼き切ったりなんて荒っぽいことはしていないと思うけれど」
「髪の毛って一度切ってしまえば、もう二度と元には戻らないですよね。記憶もそうなのかな」
「その発言、もしかしてこの髪形に対するクレームも含まれてる?」
「違いますよ。クレームを言ってやり直せるなら言いますけれど」
こいつ、と頭を小突かれた。
「あたしたちの両親って、知ってるんですかね。自分の子どもがこんな知らない密室に閉じ込められて勉強させられてるって」
「……知っているかもね」
ミタカのその発言は意外だった。
「えっ、どうしてそう思うんですか?」
「私も以前考えてみたことがあるんだ。ここって環境はクレイジーだけど、やってることは勉強でしょ。で、あたしはこんな性格だから、外にいた時もきっと勉強してなかった。そしたら親とはきっと喧嘩してただろうし、親は親で何とか勉強させようってあの手この手を考える……そんな時、家に知らないリムジンがやってきて、そこからスーツを着た男が一人現れるの」
「なんだ、妄想話ですか」
そう思ったあたしは、途中まで真剣に聞くのをやめ、音楽でも聞くような気分に切り替えた。
「その老紳士が言うの。『お宅のお嬢さんをうちの学校で立派なレディーにしてみせますよ』ってね。その後は、親が喜ぶような話をたくさんして、それでは契約書にサインを、てな感じよ。きっと」
「げー、それ最悪だわぁ」
「最悪よ……本当に」
二人が鏡越しに苦い顔を見せあっていたその時、部屋の扉が開いた。ルームメイトのチャイコだった。あたしを見るなり、まるで敬礼でもするかのように手をおでこにあてた。
「おっすオワリ。うわぁ、可愛いっすねえ!」
「でしょでしょ。こりゃロリ好きの男子だったらたまんないわよね」
「ふざけんな。チェンジチェンジ。チェンジマイヘアースタイル」
「それは不可能。《時は過ぎ去る(タイムゴーズバイ)》からね」
「ひと月もすればまた伸びるっすよ。というか、オワリがここにいるのは、ちょうどよかったっす」
「えっ、何か用?」
ミタカはお姉さんという感じだけれど、チャイコは年上を思わせないフランクさで、友達っぽい。
「そうっす。まあここで話をするのも何なんで、三階に行きましょう」
「三階って、あの《ゾラ》の階で話をする場所なんてあったっけ」
その階は二つの部屋がある。一つは展示室で、過去の生徒たちが描いた絵や彫刻などを展示している。そしてもう一つの部屋が《ゾラ》の間。教室の映像に現れるニワトリのホログラフィ版と会話できる。FSというこの施設での生活について、色々質問に答えてくれるのだけれど、同じ質問をすると同じ答えが返ってくるのと、彼女の前で「禁句」を言うとテストの点数をマイナスされる(という噂の)ため、月初の新入学生以外は誰も使っていない。
「まあそれは来てのお楽しみということで、ふふふー」
「三階って……えっ、まさかこの子を?」
「そのまさかっす」
ミタカは事情を知ってるふうだった。でも、あたしが聞いてもその場では答えてはくれなかった。まあそれももっともだ。プライベートルームでは複数のカメラがあたしたちを常時監視しているし、あたしは確認したことがないけれど盗聴器もあるらしい。
ということで、あたしは二人と三階の、後に集合場所の一つとなる給湯室へ赴き、そこで初めて“生徒会ゾンビ”の存在を知った。
「私たちの目的はシンプルっす。一つはこの施設、FSからの脱走。その方法を探ることっす」
「……だ、脱走する気なの?」
「そうっす」
内容の重大さにそぐわない軽い口調。それがまた彼女の魅力の一つなのだけれど、まだ関係も薄い当時のあたしには、現実の話だと認識するのに多少の時間が必要だった。
「待って……ちょっと待って。ウェイトプリーズ」
「待つって、こんなに単純な話はないと思うっすけど」
「だって……本気なの?」
「もちろんっすよ。ねえミタカ」
「……ええ。ごめんね、急にこんな話、驚いたよね」
ミタカはあたしの戸惑いを察しているようだった。毎日のように髪を切られにくる生徒と会話をしているからなのかもしれない。
「うん、めっちゃ驚いた」
「おかしいと思わないっすか。記憶を失った八〇名の子ども。存在理由不明の施設。そしてやらされるものと言えば、勉強、勉強、勉強」
「そう、まるで実験施設みたいな」
「……それは」
「もちろん、月末テストで一位になれれば、この施設から《卒業》できる。でもその行先は? 《ゾラ》は《上》に行けるって曖昧な表現に終始して、それ以上の説明はない」
「もう一つ、気になるのは最下位の人間の行く《下》がどこかですよね。はっきりいって望んでいきたくなる場所じゃないと思うっす」
「実際、こんな理不尽な環境でも、みんなそれなりにルールに従ってるのは、最下位になりたくないからだしね」
「ペナルティもマイナスされるから、みんな表面上では真面目な生徒を演じているわけだし……あれ」
そこで更に二人の男子が加わった。シェルマーとそしてチセ。
「やあオワリ」
「なんだ、二人、知り合いだったの?」
「違うよ、知らないし、こんなやつ……」
「相変わらずな言いぐさだね……でも、メンバーに加わってくれてうれしいよ」
「じゃあ自己紹介は簡単に、こいつはチセ。この《生徒会ゾンビ》のリーダーで、うちのブレイン」
「そんでミタカのカレシ」
「……え、そうなの?」
あたしが訊ねると、ミタカは少し顔を赤らめて顔を背けた。
「ま、まあ一応」
「へー、そうなんだ。あんた、ミタカのことが好きなんだ」
チセを困らせるネタを得て、あたしは心の中でガッツポーズをした。
しかし、チセはあたしの言葉をスルーして、チャイコを見て「そんなことより、彼女から事情は聞いた?」
「まだ《ゾンビ》の活動目的を話しただけっす」
「事情って何?」
「それはっすね……」
あたしが聞くと、チャイコが気まずそうに視線を反らす。聞きづらいことなのだろうか。
「僕たちの存在を知った今となっては、回りくどい話はやめにしよう」
「な、なんだよ……」
「先月末のテストの前日、僕が言ったことを覚えてる?」
「覚えてるよ。あんたがキモいストーカー……」
とまで言って、あたしは隣のミタカがいることを思い出した。
「じゃなくて、あんたがあたしの行動パターンをいちいち報告してきた話でしょ」
「知りたかったんだ。君がなぜこうも正確に監視カメラのエリア外に赴くのかを」
「監視カメラ? どういう意味?」
「そのままの意味だよ。君はいつも監視カメラを避けて、いや、そういう場所をかぎ分けて行動している。自覚してたんだろ」
「……自覚して、た」
あたしを見たチャイコの目が丸くなる。
「え、どうやって分かるんすか」
「……なんか感じるんだよね」
「何となくっすか。監視カメラの位置の把握は、これから私達もやるとこっすけど。もしチセの言葉が事実だとしたら確かに彼女の《鼻》は役に立つっす」
「犬扱いするな」
「だよね。まあ、僕たちのことを知られた時点で、断る権利はないのだけれど」
「断る権利って、あたしも脱走メンバーに加わるってこと?」
「実際に行動に移すかは未確定だよ。ただ、いざそうせざるを得ない事態になった際に、すみやかに行動に移れるようにはしておきたいね」
その話を聞いて、最初に思ったのはシナギのことだった。
「……あたしはシナギがいるから」
「じゃあ彼女もメンバーに加わってもらいますか?」
「それはできない」チセははっきりとした口調でそう断定したが、すぐにこう付け加えた。「少なくとも、今の彼女はまだ……言っている意味、分かるよね、オワリ」
悔しいけれど反論できなかった。
「問題を起こしたばかりで注目されているというのもあるし、何よりあの日をきっかけに彼女は人が変わったようになってしまった」
「チセ、あれってやっぱり記憶を消去されたのかな?」
「だとしても、それだけじゃないだろう。単純に記憶を失っているにしては、性格が変わり過ぎている。あればむしろ洗脳か、もしくは……」
「もしくは?」
あたしが訊ねたのがいけなかったのかもしれない。チセはあたしを見て、少し考えた後、嬉しそうに笑ってこう言った。
「……自分で考えてみなよ」
「おい、なんだよそれ」
「僕たちは全員、その気になればいつでも卒業できるよ。トップにならないように、意図的に点数を下げているだけでね」
「……えっ、マジ? それ」
「ごめんなさい……」
ミタカが頭を下げたということは、本当なのか。だとしたらあたしはこの中で一番バカってことだ。
でも……とあたしは同時に別の事を思った。
メンバー全員が天才集団なら、彼らに協力してもらえば、ひょっとするとシナギの記憶を元に戻す方法も……
「チセ、手伝ってもいいけれど、その代わり、一つだけお願い聞いてくれない?」
「……内容次第だけれど、何?」
あたしは全員に背を向け、目を閉じた。一瞬、ほんのわずかな時間だけ、周囲の世界を打ち消して、自分の世界に入る。
それは重要な決断をする時の、あたしだけの儀式のようなものだ。未来の自分が後悔しないための。個人的な言い方をすれば、あたしを形成する全細胞を同じ方向に向けるための。
「オワリ?」
声を掛けられたと気付いた時、あたしはもう目を開けていた。
「お願い」あたしはチセに戦いを挑むような気持ちで発言した。
「シナギを元のシナギに戻したい。協力して欲しいの」
「……なるほどね」
チセは呆れたようにつぶやいた。
すぐにイエスはもらえない。でもそれは予想していた。
問題はここからだ。
「それはここから逃げ出すよりももっと難しいね」
「じゃあ可能性はゼロ? これだけ頭のいい人たちが集まっていても?」
「……言うじゃん」
その時、忘れていたもう一人の男子がつぶやいた。
「……ええと、あなた誰だっけ?」
「いや、それ失礼でしょ。俺、結構人望あるし、生徒の中でも割と目立ってる方なんだけど」
「ふーん。それでできるの、できないの?」
再びチセを見た。チセもこちらを見る。望むところだ。今のあたしの瞳には『本気』の文字が刻まれているに違いない。
「少なくとも僕らの力では不可能じゃないかな」
組んでいた腕を解き、試すような視線でチセは言った。あたしは即座に続ける。
「そうね。でもこの施設を作った人たちならできるかもしれない」
「……それがどういう意味を指すのか、分かってるのかい?」
「もちろん」
そのためには施設に関わる人間、つまり、あのテストの時にあたしたちに指示を出した女性と接触しなければいけない。
でも、それはここいるメンバーが自らが不穏な動きをしていると自白するようなものだ。
「……いい方法を考えてよ。あんた、ブレーンなんでしょ」
「まったく……君って人間は……フフッ」
呆れ過ぎたのか、チセは笑いはじめた。
「いいよ。目的を一つ増やそう」
その言葉にはメンバーも驚いたようだった。中でもミタカはすぐに反発した。
「チセ、その変更はいくらなんでも軽率すぎるわ。だって、そんな危険な橋」
「あのさ、話が読めないんだけど、どういうことかな?」
「シェルマー、気にする必要はないっすよ。要はオワリが六人目のメンバーになったってことっす」
「そういうこと。よろしくね、みんな」
「……オワリ」
ミタカはあたしに何か言いたそうにしていた。だからといってここで譲るわけにはいかない。シナギはあたしにとって大切な存在だ。
こうして、あたしは生徒会ゾンビという奇妙な集団の仲間入りをした。