ー Who am I ? ー
台風が到来し、ザーザーと大雨の降りしきるロンドンの、殆ど真っ暗な路地。
ウェストミンスター宮殿のエリザベス塔、通称≪ビッグ・ベン≫が22時を知らせる鐘を鳴らしている。
人も通らず、街のあちこちに立っている街灯だけが寂しげに薄暗く辺りを照らしている。
ここ最近ロンドンは、女性ばかりを狙う≪連続通り魔事件≫の話題で持ちきりだ。かつて実在した、多くの女性を狙った連続殺人鬼≪切り裂きジャック≫の再来だと、巷でそう騒がれている。
故に、倫敦警察以外でこんな時間に外を出歩く人間は、余程度胸のある大馬鹿者か、怖いもの知らずの物好きな変人しかいない。
だが、そんな事とは関係なしに、≪おれ≫はこの真っ暗な路地を歩いていた。薄汚れた麻の外套を頭から纏い、冷たいコンクリートの地面を傷がついて擦り剥けた素足で歩いていた。
何故こんな時間に、こんな路地を歩いているのか。何故こんな格好をして歩いているのか―――何もわからない。おれはただ、目の前の景色を映しているはずなのに、何も映っていないような虚ろな目をして、肩で息をするかのようにしながら、ゆっくりと前に、前にと足を踏み出していた。
おれは、ずっと歩いたんだ。歩いて、歩いて、あるいて、あるいて―――アルキツヅケタンダ。
何故歩き続けているのか、おれにも分からない。ただ、どこか行く当てを探しているだけだ。まるで迷子になった子供のように、必死になって拠り所を探しているだけなんだ―――。
殆ど真っ暗だった路地を抜けて、ようやく商店街がある大通りに出た。街灯はあっても辺りは薄暗い事には変わらなかったが、何故か少し安心した。
歩き続けて棒のようになった足を休めるために、街灯の下にぼんやりと照らされたベンチに腰かけた。大雨でベンチは濡れていたが、おれはとっくのとうにずぶ濡れだったので、腰かける事になにも躊躇しなかった。
ベンチに座って落ち着いていると、ようやく辺りの風景が目に映るようになってきた。どうやらこの大通り沿いの商店街は、洋服屋、帽子屋、宝石屋、パン屋、菓子屋、おもちゃ屋、新鮮な無農薬野菜を売るマーケットなどが並んでいるようだ。
結構店の雰囲気や種類がバラバラで入り乱れているように見えるが、服屋で買い物をする若い女性客、新作の帽子を選ぶ紳士、おもちゃや美味しそうな菓子やパンにはしゃぐ子供たち、井戸端会議をする主婦たちの楽し気な光景が何故か不思議と目に浮かんだ。
そして、大通りを挟んだおれの目の前に映る店は、5階建てのアパートメントを改築したカフェだった。店の横には可愛らしい看板が掲げられていて、三日月がモチーフとなっていた。三日月の空いた穴の部分には本が模られていて、本の表紙には笑顔のマグカップが描かれた。
店の中から光が漏れているので試しに入ろうかと思ったが、扉には≪CLOSE≫の札が下げられていた。
少しだけ窓から中を覗き込んだが、店内には店員と思わしき人がいなかった。店内は木製家具が並んでいて、なんとも居心地の良さそうなカフェだった。そして店内の上の方を見上げたら、図書館のようにずらっと驚くぐらいの量の本が並べられていた。
店が開いていたのなら入ってみたいものだったが、そもそも所持金もないので入ることが出来ないかと悟った。
店の中を少し覗き込んだ後、諦めて先程座っていたベンチにまた座りなおした。
大きめのため息をついた後、天を仰ぐように上を見上げた。見上げたと同時に被っていた外套のフードが取れ、短めのダークブルーの髪が露わになった。ずぶ濡れになったフードで湿っていた髪が大雨に打たれて余計に濡れた。
だが、おれはそんなことを気にせず、降り注ぐ雨をずっと眺めた。上を見上げると大雨が顔に降り注ぎ、まるで涙が出ているかのように顔から零れ落ちていく。
いや、実際おれは泣いていたのかもしれない。もはや自分が泣いているのかいないのか、それすらも分からなくなってきた。
何もわからず心がもやもやとし続けたおれは、天に向かって問いかけた。
「おれは、≪誰≫なんだろう―――」
歩き続けた意味、この格好、大雨にも拘らず何故外にいるのか。そして、自分が≪どこの誰≫なのか、それらすべて分からなかった。精々分かることと言えば、自分の性別と一人称が≪おれ≫であることくらいだ。
もう何も分からない。分からなさ過ぎて辛くて―――とても寂しい。もう一層の事、噂の通り魔にでも刺されてこの世から逃げたいくらいだ。
おれはそんなやけくそな気分になり、立ち上がって天に向かってどうしようもない叫び声をあげた後、まるで糸が切れたかのように前のめりに倒れた。
おれの記憶は、ここで途絶えた―――。