その1 僕と彼女の定義
「愛の定義って一体何かしら。」
二人きりの図書館で、ノートに英数字を並べながら向かい合わせの彼女は口を開いた。僕たちは確か今は数学の勉強をしているはずだ。先月の模試の結果、特にお互い苦手な数学が悲惨な点数を叩きだしてしまった。『来月の模試こそは。』と切磋琢磨してここにいるはずなのだ。しかし、教科書を開いてから約1時間後の彼女の最初の質問は掲げた目標に似つかわしくないものだった。
思いもよらない質問に驚愕して黙っていたら、聞こえなかったのだろうかというような顔をした。そして眼鏡越しに目を合わせて再び口を開いた。
「愛の定義って一体何かしら。」
どうやら彼女の質問に僕は聞き間違えたようではない。それでも彼女らしくない台詞に動揺したのか、消しゴムがコロンと彼女の足元に転がる。彼女は少し腰を曲げて、黒く薄汚れたそれを手に取る。
「はい。」
「…ありがとう。」
「で、愛の定義って何だと思う?」
淡々と喋るのは彼女の癖だ。上手く言えば『クール』、悪く言えば『不愛想』。綺麗な顔立ちなのにもう少し柔らかい感じに話せないものか、と偶に思う。それでも彼女に惚れたのは、きっと僕にないものがあるからなんだと思っている。
「…聞いてる?」
何も答えない僕に白を切らしたのか、少し眉間に皺を寄せた。その皺に少し恐ろしさを感じ取り、答えなければならないという使命感に似たものが僕を襲った。
「どうしたの、いきなり。」
彼女の質問に答えるには理由を聞かないと答えられない。答えられないというより、気になるだけなんだが。すると彼女は『質問に辿りつくまでの経緯を教えてなかった』の意を込めて小さく「あぁ…」と呟き、開いてた教科書に目を落とし意味もなくページを捲る。
「ここ何日間、恋愛小説ばかり読んでたのよ。」
「君が恋愛小説なんて珍しいね。」
「少し気が向いたのよ。」
捲り続けてた教科書を閉じた。一番重要なのは私の質問なのよ、と訴えるように僕の目をじっと見つめる。
彼女から見つめられることに慣れてない僕としては、嬉しい罰ゲームにしか思えない。心臓が鳴りっ放しだ。そんな事も知らずに『それでね、』と彼女は続ける。
「愛にも色々あるじゃない。恋愛、友愛、自己愛、家族愛。その愛の境界線が実際に見えるものでもないし、分かる訳もないのよ。」
「人の感覚で決まるものだからね。」
「それよ。」
彼女は僕に指摘し、見つめたまま勉強道具の上に腕を組んだ。何を考えているのか掴めない。だから彼女の会話の先なんて読めるはずもない。これは最後まで彼女の話を聞いてみる他ない。彼女は淡々と、淡々と語りかける。
「全てのもの、全ての言葉に定義というものは存在するはずなの。数学にだって定義がある。しかし、愛は実際曖昧なものなのよ。貴方が答えたように、それは人の感覚で決まってしまう。だけど私は思うの。『愛』という言葉があるのだから必ず定義があるはずなのよ。」
少し威圧気味の台詞は僕の思考を遮断させるのに十分だった。それでも彼女は再び僕に問いかける。
「ねぇ。愛の定義って、何?」
「そ、そんな…」
「それが、」
『そんな事言われても。』と言葉を紡ごうとしたら、彼女は僕の言葉を妨げ、少し悲しげに俯く。思考が遮断されているにも関わらず彼女のその姿が美しいと思ってしまうのは、まだ僕の髄脳は考えることを諦めていないのだろう。
何かを言おうとした彼女が黙り込んでしまった。だから僕は彼女の名前を呼んだ。『大丈夫、ちゃんと聞いているから。』と彼女の名に込めて。彼女は恐る恐る、しかし淡々と言葉にする。
「それが分からないと、貴方と私の関係も疑ってしまうわ。」
あぁ、なるほど。思考回路が滞りなく体中を巡り回った。彼女は言いたいことを遠まわしにするのが得意らしい。元々彼女は自分の意見を伝えるほうだが、自分の感情についてはあまり耳にした事がない。僕も気持ちを伝える方ではないから、きっと不安になったんだろう。自意識過剰と言われそうだが、彼女は相当僕のことを気にしているようだ。
何とか言ってよと訴えてくる目は、彼女には似つかわしくなかった。僕が知っている彼女は凄く凛としている。寄りにも寄って、こんなに可愛らしい人だとは誰も思わないだろう。僕はただただ呆れた。だから、机越しの彼女に届くように少しだけ立ち上がり、前のりになった彼女にキスをした。
「僕が君を好き、君が僕を好き。それだけで愛の定義は成り立ちませんか?」
目を丸くした彼女がみるみる赤くなる。
口をパクパクさせて、まるで愛という餌を欲しがる金魚のようだった。
愛の定義なんて、それだけで十分だろう。
【僕と彼女の定義 終】