海の魔法使い
幾重にも重なった海藻の森を抜けた先にあったのは、居心地のよさそうな空間だった。
ぐるりと壁が棚になっていて、そのほとんどが地上の書物でいっぱいになっている。ところどころに灯り代わりになっているらしい光る貝が置かれていて、先程までとは比べ物にならないほど明るい。
その真ん中、巨大なシャコガイで作られたソファに、魔法使いが腰を下ろしてのんびりと読書を楽しんでいた。
「ああ、来たね」
ルルに気付いた魔法使いが顔を上げる。だがそれに答える余裕は今のルルにはない。
なにしろ、魔法使いが自分の予想外の人物だったので。
「……どうかしたの?」
「い、いえ、あの、魔法使いが男性とは、思ってもみなくて……」
そう、魔法使いは話で聞いていた老婆ではなく、ルルと同じくらいの年齢の青年だった。
黒い長いローブで体のほとんどが隠れているが、深い藍色の髪で細身のれっきとした男性だ。
ルルの困惑に気付いたのか、ああ、と魔法使いは頷く。
「先日大叔母が亡くなってね、一族で一番力がある僕が魔法使いを継いだのさ。魔法使いが女性でなければならない訳じゃないから」
「……そう言えば、魔女じゃなくて魔法使いだものね」
考えてみれば、最初に聞こえてきた声が低かったのだから男性だと気付いてもよさそうなものだった。なるほどと納得したルルに苦笑して、魔法使いは立ち上がる。
「それで? 可愛い人魚のお嬢さん、魔法使いの元に来たって事は、なにか用事があるんだろう?」
「あ、そうでした」
ポンと手を合わせたルルは、にっこりと微笑みを浮かべる。
「私に、人間になる薬を下さい」
「……は?」
それまでどこか物憂げだった魔法使いの雰囲気が剣呑なものに変わる。
それでもどうしても譲れないから、ルルは微笑んだまま魔法使いを見つめた。
「わかってるの? かつて大叔母がその薬をあげた為に一人の人魚が死んだんだ」
「知ってます。その人は私の祖母の妹ですから」
「じゃあ知ってるよね、薬を飲んだ人魚がどうなるのか」
「足を得る代わりに声を失う、という事でしたら、もちろん」
何度も繰り返し聞かされた話だ、全部覚えている。
だからルルも悩んで、考えて、そうしてすべてを覚悟してここに来た。
「私は知りたい。彼女が幸福だったのか、どんな思いだったのか。だから人間になって、彼女の真珠を取り戻したい。そして彼女の真珠この海に還してあげたい」
「まさか、その為だけに人になろうと?」
「おかしいですか? 彼女の真珠があると祖母は言っていました。私には感じられるのだと」
それに、とルルは笑って見せる。
「夢を見るんです」
「夢?」
「繰り返し呼ばれる夢です。私を呼んでるのかはわからないけれど、私は彼女に一番似ているそうですから、もしかしたら」
「……そんな曖昧なものの為に?」
「曖昧でもなんでもかまわない。ただ、祖母の願いを叶える為に、夢から解放される為に、私は真珠を取り戻したい。だから、薬を下さい」
魔法使いが戸惑うように瞳を揺らし、そして小さく息を吐く。
「彼女の事は、大叔母にとっての心残りだった。自分が薬をあげなければ、彼女は死なずに済んだのにと。でも、君は恋の為に地上に行く訳ではないんだね?」
「ええ、目的ははっきりしているでしょう? それ以外は別に……」
「そう」
何かを諦めたような顔で、それでも魔法使いは笑う。
「だったら、君は必ず戻ってこなきゃならない。わかる?」
「だから、最初からそのつもりで」
「うん、なら、いくつか契約を交わしてからでも構わないかな?」
「契約?」
「そう、必ず帰って来る為に」
いったい何を言いたいのかわからない。小首を傾げたルルに、魔法使いは魔法で一枚の紙を差し出す。
そこにはいくつかの箇条書きが書かれていて、下の部分にサインをする欄があった。
「声と足を引き換えにするのは変わらない。ただ、彼女とは違って地上にいる間は何年でも人のままだ。海や水に浸かっても人魚に戻る事はない。ただし、その代わりにこの腕輪をいつも身に着けておかなければならない。着替える時も寝る時も必ずだ」
「この腕輪は?」
「これに触れば僕と対話が出来るようになってるんだよ。いつでも僕と連絡が取れ、見失わないようにね」
「どうして、ここまで」
「言っただろう? 彼女の事は大叔母の最大の心残りだった。僕は魔法使いとして、同じ轍を踏むわけにはいかないんだよ」
どうすると聞かれ、目の前の契約書を確認する。
ルルの答えは、とっくに決まっていた。
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