光秀と天海とかごめ歌
光秀と天海とかごめ歌
玉蟲絵師
「桔梗」皆さんは、この花を知っているだろうか。日本に8世紀前には存在したとされる。山野に存在し、山上憶良も「秋の七草」として歌も残っています。均整のとれた五弁の花で、この花を家紋にしている一族は、古くは土岐一族とされ、その支流をたどれば、明智一族にたどり着きます。
私、平野稔は20代にして、株取引でFIREした青年でございます。人生舐めちゃってます。20億を稼いで、神頼みなどになんの効果があるのかわからない、信じるのは自分のみ、歴史の偉人などただの失敗談しかないのではないか、「ハッ、俺より優秀な奴はおらんやろ」強気で何事も押せば成功すると思っている。
第1話「桔梗」 本能寺の変編
血なんて関係ないだろ、今の時代、どう生きようが自由だ。いつの間にか寝てしまったのか、ここはどこだ。周りの声で武者行列という事がわかる。後の世に明智峠と呼ばれる道をあるいていた。「今から、こんな時に毛利か、だいぶ遠いぞ」「平佐、平佐は、おるかー」「あなた様、お呼びでございますよ」はっ、どうやら夢かうつつか、今俺は、平野平佐衛門尉とよばれる。破天荒な、いったんこうと決めると義理に生きる男。冷徹な隻眼者と呼ばれる。歴史などには興味がない、ましてや名など残そうなどと微塵も思ってない。周りはそんな私を揶揄して、「ひらひら」などと呼んでいることも知っている。
明智光秀「火がつけば、われらの勝ち、つかなければわれらの負けじゃ。その時は潔く、次の計の準備を進めるだけじゃ」都を見渡す丘の上に本陣を敷き、戦の行方を見つめている。平佐には、先遣隊として本能寺に行かせている。
信長「帝を滅せよ」この一言を聞き、身が震えるというのは、こういう事なのかと心底感じた。「お前に、毛利を預ける」「神殺しは、猿にこそふさわしい」光秀「そう、家康様も、御身を案じ策を先に練っていたが、このお方のお考えは、人より一歩いや数歩も早かった」日の本がなくなるという強烈な感情が湧いた。「安土に迎えようとするところで、一族を根絶やしにする」この男の恐ろしさは、私が一番よくわかっている。そして、自らを、「皇王」と名を冠し、天皇よりも上の存在とするのであった。平野「なぜ俺はこの時代に呼ばれたのだ」光秀は思いを巡らす、戦といえば誤算がつきものだが、こうもうまくいかないと、まるで天が私を見定めているようだ。しかし、時を見誤れば日の本において、もう取返しのつかないことになる。「帝を滅す」この事実を知る、腹心として歴史の陰に隠れてもらう人物が一人必要だ。その男こそ、平野平佐衛門尉だ。彼には酷かもしれないが、その役目を担ってもらう。この事実は誰も知ってはいけない。時が済めばすべてを灰にしてしまおう。安土も灰になる必要があるだろう。この考え自体が最も危険なのだ。後は、人の記憶など、歴史の時間に埋もれて解決してくれるだろう。事実や真の理を知らぬものが、この私の謀などそっぽ向くのも仕方のない事かもしれん。ただの主殺しなのだと思っているのだから、家康殿もご自身の身が信長殿によって危ないのも気づいておられていただろう。全く、家康殿も役者よ、秀吉殿だけの手柄に世界に知らしめたのだから。家康殿が語っておられたのは、秀吉殿を張り子の虎にするつもりで完全に裏を取られたからだ。本当に知恵者だよ秀吉殿は。私の運命の歯車がかみ合ったのは、山崎の戦いのあと、秀吉殿に完全にあざむいて、家康殿が手を回してくれた事だろう、第一にあの男をこの世から葬りされたことが第一じゃったな。秀吉殿も私の謀の一端を担っていたことは、後の世で完全に闇に葬り去られることになったのだが、それもよしじゃ。
第2話 「鳴いた」 熊野編
私は、家康殿との密約により、熊野にて平佐とともに熊野にてもう一度人生を生きることを決意していた。「どうか、どうか、お玉のお命をお許しください」「たえるんじゃ、明智殿、今を耐え、未来を創るんじゃ」わが一族は滅びた。まるで初めからなかったように感じる。お玉「お父上様、あの子は桔梗の花が好きでよく積んでくれた」ありがとうというと「お父上様が、好きな花でございます」とあの子の顔が忘れるはずがない。覚悟はしていた、覚悟の上じゃ、しかし、私だけが別の人生を歩んでいいのだろうか。平佐は光秀殿が、お堂に入ってからというもの、毎日、誰かと書状を交わしているようだった。たまにふうっと息を吐き、平佐はどう思うと聞いてこられるが、直接的な事は何一つ聞いてこず、時期や、一般論を聞いては、悩み、また聞いてを繰り返していた。光秀は思う。あの魔王と会った時から、覚悟は決めていたハズだ。ここは、私にうってつけの場所だった。人の出入りが極端に限られており、外界との係わりも少ない。私は、ここで生まれ変わらなければならない。あの天魔がこの世を去ったからには、二度と同じことを起こしてはならぬ。私は、人よりも何倍も生きなければならぬ、これは私の運命だ。何も知らぬはずの蛙がまるですべてを知ってるかのように悲しく泣いていた。
第3話 「双六」 全国行脚編
太閤殿が全国を平定してくれたお陰で、こうして全国津々浦々見られるのはありがたい。家康殿の力添えもあり、熊野本山の後押しもあり、割と自由に国々を巡ることが許された。こんな所に、こんなものをつくりおったのかと、感心させられ、世界は常に新鮮に見え、この国のあり方や、歴史、城主の意向なども見えてくる。「見えぬ所が見えてくるようじゃの。平佐」「はい」「秀吉殿が優れた点は、物量戦と情報力と人脈形成と創造力だよ。猿だ猿だといわれ、気の毒じゃよ」各国を行脚していると、その町、その国の長所や弱点、弱みが見えてくる。特産を活かすにはどうするか。治水、道、区画の整理、神社仏閣、街づくり、戦においての長所やいままで見られなかった視点で見えてくる。どんなに資金が潤っていても、それを采配する人物が、優れていなければ意味をなさない例は嫌というほど見てきた。自身の長所や短所、至らなかった部分が見えてきて恥ずかしくなってくる。
日の本を回るのは、もう一つ意味がある。信長殿はアークを探していたのだろう。もう、アークは日の本より持ち出されたのではないだろうか。一番、届きそうにない場所に置かれているは昔話の話だろう。日の本において、一番安住の場所にあるのではないのか。日の本において、権力すらも通じない場所、伊勢だろう。一度、山奥に安置され、日の本を離れ、再び日の本の最重要禁域に置いたのだろう。人の人生というのは、双六にたとえられるが、双六のように升目を進めば上がりになり、升目の出来事というのはそう人生において起こるものではないことを痛切に感じる。ただ進まない人には、何も起こりはせず、あがりは死を意味する。人生を俯瞰で見るようにこの頃なってきたところである。双六様様である。
第4話 「計略の妙」 天海編
「そなたの名前を、「天」と「海」をつなげる人となり、天海と名乗ってはどうじゃろうか。明智殿」「拙僧には勿体ない名ですの」もう前を見るしか道は残されていない。拙僧の素性を知るものもわずかしかおらん。この日の本においてまだなすべきことが残っておるのじゃ、何も見返りは求めぬ。拙者がやるべきこと「天」が示しておる、そして広大で豊かな「海」としよう。そこへ、家康がやってくる。「そなたを、ここで失うわけにはいかぬのじゃ」平佐「徳川様、なぜ」「ああ、影武者じゃよ、そなたもこの世におるなら常道じゃろう」場所は駿府城に移る。家康「あらゆる、学問、宗教、歴史、陰陽道、風水を使って、江戸をそなたに築いてもらいたいんじゃ」天海「お望みとあればいかようにも」「めざすは千年王都じゃ」「もちろん、そのつもりでございます。江戸と他国との力加減が重要でございまする。ここで権勢を振るおうと思うと、普通は邪魔な存在を排除することを考えるじゃろうが、人というのはそう簡単な生き物でございません。すべてを内包しつつも、すべての考えの上をいき、克つ、全体を思うままに操るものが家康殿にとっては必要なのじゃ。周りは武功や報酬を欲しがるが、そうではない、いつしか自分自身、いまを生きておることの意味は、国、日の本に見かえりを求めず、つくすことのできる人物が必要なのじゃ。街道の整備、陰陽道の街づくり、各大名の力関係、すべての均衡が大切なんじゃ。平佐には人の何十、何百倍も働かせておる。知れば知るほど、この国の成り立ちにおいて、疑問ばかりがでてくるのじゃ、なぜ、国を治めるものの、成り立ちが明かされておらぬのじゃ、不思議な国じゃ、この国は。日本書紀や古事記はなぜ遺跡が残っておらぬのじゃ、なぜ隠すのじゃ、なにを恐れておるのじゃ。すべてを覆い隠すほどの真実が隠されておるのじゃ。答えは、移民なのじゃ。
第5話 「永い一日」 かごめ歌編
街中を歩いていると聴こえてくる。天海「この唄はなんじゃ」平佐「昨今の流行歌にございます」「かごめ歌とな」「はい、かごめ歌でございます」唄が聞こえてくる。
か~ごめ♪ か~ごめ♪ か~ごのなかのと~りは♪ いついつでやる♪ よあけのばんに♪ つるとかめががすべった♪ うしろのしょうめん♪ だあれ♪
子供たちが楽しそうに踊っている。
この唄を聞いた天海は何かを思い悩んだように沈黙してしまった。天海様から寺に戻ると神妙な面持ちで口を開かれる。「かごめ歌には隠された意味がある」「あの歌にですか」「ああ、そうじゃ、それも重大な秘密が隠されておる。まず最初のかごめじゃが、かごめは籠目と約すことができる、籠目とは籠の網目の六芒星は、ユダヤを現わしおる。いかに重要かは二回繰り返すことで強調しておる。か~こめ、か~こめ、二重の意味として、「囲め。囲め」と示唆しておる。次に、「かごの」とは、加護ととることができる。何を加護のとしているかは、二重意味の籠のを意味している。ユダヤの加護のと訳すことができる。かごのなかのとりはは、「籠の中の鳥は」ととることができる。また籠の中の鳥と、鳥とは神の使いを示唆しておる。本来の隠された意味は、 加護の中のとりは「とりは」「鳥居は」と訳すことができる。加護の中の鳥居はとは、庇護された神社は、かごめは、加護女、加護女と訳すこともできる。加護された女。籠の加護された女とは、伊勢神宮を現わすことができる。伊勢神宮と六芒星は深い縁がある。いついつでやるとは、いついつ出やると訳すことができる。これは胎児の誕生を意味することができる。いついつ出やるとは、二回繰り返すことで、時の重要性を意味することができる。いついつとくり化すことで、気づいてと周りに伝えておる。次に、「よあけのばんに」とは、夜明けの晩にと訳すことができる。まったく逆のことを書いているのは、夜明けとは、日の本の夜明けを意味しておる。晩とは、終焉も意味している。新しい時代の始まりを意味している。また全くの反対語の夜明けと晩を現わすことにより、強調の意味合いもある。また、夜明けの番人ともとることができる。なにかを裁くことも意図しておる。次に「つるとかめがすべった」とは、鶴と亀とは、鳥居を意味するところの、鶴とは、神紋の鶴と亀甲紋を現わしておる。鶴丸と亀甲紋の神紋は、鶴岡八幡宮と出雲大社を意味しておる。鶴岡八幡宮は、豊臣秀吉、出雲大社は源氏の棟梁や徳川家を意味しておる。つまり、「すべった」とは統べったと意味することにより、豊臣秀吉と徳川家康が統べったと日の本ととることができる。また、鶴と亀が滑ったとも、とることができ、夜明けの晩にとは、豊臣秀吉と徳川家康が滑ったとは、新しい時代の夜明けの番人、見守りびととは、庶民や、六芒星の番人を意味している。豊臣秀吉と徳川家康の国家の転覆を予期しておる。次に、うしろのしょうめんだあれとは、後ろとは、番人、後見人を意味している。うしろとは、背後に控えるものを指しておる。後ろの正面とは、また反対語、対義語を使うことで強調しておる意味を。意味をあやふやにすることも兼ねておる。またしょうめんとは地方により、少年ともとることができ、後ろの少年とは、胎児の誕生を意味するところである。少年は誰でしょうと胎児の誕生の喜びを表すことになる。誰でしょうと庶民に、いや家康殿に問いかけている挑戦的な言葉だろう。全部を訳すと、「籠目、籠目、加護の中の鳥居は、何時、何時、出やる、夜明けの晩に、鶴と亀が統べった、後ろの少年誰と、詳しく言うと、ユダヤに守られた女は、加護された鳥居で、何時、何時、出産する、新しい時代の始まりの晩に、豊臣秀吉と徳川家康が統べった世の中で、背後の少年は誰ということができる。またこの唄は、胎児の誕生を現わす、この遊びをするときは円を描いてぐるぐるまわって背後の少年を言い当てることをする。一人の周りにぐるぐる回るのは、胎児をあらわしておる。この唄の真の意図は、ユダヤの失われた12部族の一人と、帝の血が合わさることを祝福された歌を現わしておる。まさにもう、庶民にも知れた、新たな胎児の誕生の喜びの歌を現わし、新しい時代の夜明けを意味しておるのだろう。「そんな隠された意味が」また、失わたアークとともに少年もいることを意味しておるのだろう。
天海として生きるにはもうちっと時間が必要じゃの、「平左、これからは、そなたが天海と名のり、家康殿、徳川家を支えてくれ。この先、どうなろうと今を精いっぱい生きることが肝要じゃ、頼んだぞ。皆の政がひいては、一人の為の政になれば幸いと心得よ」「承知いたしました」
(完)




