第七章 倫理委員会
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第七章 倫理委員会
米倉孔明は、
倫理委員会の会議室の前で立ち尽くしていた。
手には、
佐々木教授の“治療記録”のコピーが握られている。
(……これを出せば、教授は終わる。
だが……本当に、それでいいのか……?)
胸の奥で、
二つの声がせめぎ合っていた。
──親友を救いたい。
──医学の未来を壊してしまうかもしれない。
その葛藤は、
米倉の心を静かに締めつけていた。
会議室の扉が開くと、
白衣を着た委員たちが静かに座っていた。
「米倉助教授。
今日は、何か重大な報告があると伺いました」
委員長の落ち着いた声が響く。
米倉は深く息を吸い、
資料を机の上に置いた。
「……佐々木教授の“治療”について、
重大な疑念があります」
委員たちの表情がわずかに動く。
「治療……?
賢者の石のことかね?」
「はい。
教授は末期患者に対し、
賢者の石を用いた治療を行っています。
しかし……その後の扱いに、
重大な倫理的問題があります」
委員の一人が眉をひそめた。
「扱い……とは?」
米倉は、
喉が乾くのを感じながら言った。
「治癒後の患者を……
解剖実習に使用しています」
会議室の空気が、一瞬で凍りついた。
「……それは本当かね?」
委員長が静かに尋ねる。
「はい。
私は実際に、治癒後の患者を確認しました。
その患者は……意識がある可能性があります」
委員たちがざわめいた。
「植物状態ではないのか?」
「教授はそう説明しています。
しかし……私は、患者が涙を流すのを見ました。
指先が動くのも……」
委員の一人が言った。
「反射では?」
「……そうかもしれません。
ですが……私は、
あれが“反射”だとは思えませんでした」
米倉の声は震えていた。
その時、
会議室の扉が静かに開いた。
「失礼します」
佐々木功教授が入ってきた。
穏やかな笑みを浮かべ、
まるで散歩の途中で立ち寄ったかのような落ち着き。
「米倉君。
君がここにいるとは思わなかったよ」
米倉は、
教授の視線を正面から受け止めた。
「……教授。
あなたの行為は、
医学倫理に反しています」
佐々木は、
少しだけ目を細めた。
「倫理……か。
では、委員の皆さんに説明しよう」
教授は、
まるで講義を始めるように語り出した。
「私は、患者を“殺して”いない。
治療している。
肉体は完全に治癒している。
意識が戻らないのは、脳の損傷が大きかったからだ」
委員の一人が言う。
「しかし、治癒後に解剖実習に使用するのは……」
佐々木は、
用意していた書類を机に置いた。
「これを見ていただきたい」
それは──
患者本人の署名が入った承諾書だった。
「私は、治療前に必ず説明している。
“治癒後のケアとして、医学教育に協力していただく”とね。
患者は全員、理解した上でサインしている」
委員たちが書類を手に取り、
ざっと目を通す。
「……確かに、署名がある……」
「本人の意思だ。
私は、患者の希望を叶えているだけだよ」
米倉は、
胸の奥が冷たくなるのを感じた。
(……教授は……
“形式上の倫理”を完璧に整えている……)
佐々木は続けた。
「手術でも、心臓を止めることはある。
臓器を取り出すこともある。
だが、患者は生きている。
それと同じだ」
「植物状態の患者は苦痛を感じない。
反応もない。
倫理的な問題はない」
その声は、
驚くほど冷静だった。
委員長が口を開いた。
「……本件については、
慎重に調査する必要がある。
佐々木教授、しばらくの間、
治療の実施を停止していただきたい」
会議室の空気が張りつめる。
佐々木は、
一瞬だけ驚いたように眉を上げた。
だが、すぐに穏やかな笑みを浮かべた。
「もちろんです。
私は何も隠していませんから」
そう言った後、
教授はふと表情を和らげ、
まるで“念のため”というような口調で続けた。
「ただし──
ひとつだけ、ご認識いただきたい点があります」
委員たちが視線を向ける。
佐々木は、
机の上に置かれた承諾書を指先で軽く叩いた。
「治療行為はすなわち、延命行為です。
患者さんとの合意として、
“治療”と“医学教育への貢献”はセットになっています」
米倉の胸がざわつく。
教授は、さらに静かに言葉を重ねた。
「もし治療を停止すれば──
患者さんは、元の病状に戻ります。
つまり……余命は、治療前の状態に逆戻りする」
委員たちの表情が固まった。
「私は、患者さんの命をつないでいるだけです。
その対価として、教育に協力していただいている。
これは、双方が納得した“契約”なのです」
その声は、
優しさにも聞こえたし、
冷酷な宣告にも聞こえた。
米倉は、
背筋に冷たいものが走るのを感じた。
(……教授は……
治療を止めれば健司が死ぬことを……
分かった上で……)
佐々木は、
委員たちに向けて穏やかに微笑んだ。
「治療を止めるという判断は、
患者さんの“延命”を断つという意味になります。
その点だけは、どうかお忘れなく」
会議室の空気が、
さらに重く沈んだ。
会議室を出た後、
米倉は壁にもたれかかった。
(……これで……
健司は助かる……?)
だが、
胸の奥に広がる不安は消えなかった。
教授は、
簡単に止まるような人物ではない。
そして──
病院という組織もまた、
真実を受け止める準備ができていない。
(……どうすれば……
健司を……救える……?)
その問いだけが、
米倉の胸に重く残った。
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