第13話 王族来訪前夜
日が落ちるにつれて、温泉湖の色は変わっていった。
昼の光をそのまま溶かしたような透き通る青は、夕刻になると淡い橙を含み、やがて夜の訪れとともに、深い紺へと沈んでいく。
湖畔には灯りが入っていた。
炎ではない。
柔らかく、揺らがない光。
揺れないのは、風が止んでいるからじゃない。揺れないように整えられているからだ。
湯の膜に反射し、足元を照らすそれは、どこか落ち着かないほど静かだった。
明日。
王族が来る。
その事実が、村全体に見えない重しを落としている。
――
「……本当に来るんだな」
ガルドが、木製の柵に肘をつきながら呟いた。
「来るよ」
ゼノは短く答える。
湖の中央――半円形の舞台。
昼間よりも存在感は薄く、夜の湖と溶け合っている。
「王族だぞ?
視察って言っても、客じゃない」
「だから“招待”にしたんです」
ゼノは湖面から目を離さない。
「向こうは立場を使ってきます。
こっちは、場を使う」
ガルドが眉を上げる。
「場、ねぇ……」
「王族だろうと、楽しませられたら勝ちです。
みんななら大丈夫」
言い切ったのに、声は大きくない。
むしろ静かで、だからこそ重い。
ガルドは一瞬黙り込み、やがて苦笑した。
「……度胸座ってんな。心強いぜ」
ゼノは笑うでもなく、湖を見たまま答える。
「度胸じゃないです。設計です」
「……は?」
「焦らすんですよ」
「王族が“来てやった”と思っているうちは、対等になれない。
だから“来たい側”に変える」
歓迎される側でいる限り、相手は強い。待たされる側に回った瞬間、熱はこっちに移る。
ガルドは絶句する。
《神コメント:上下逆転》
《神コメント:王都より一段上に立った》
言葉の意味を飲み込めないガルドを置き去りに、ゼノは淡々と続ける。
「人は“自分から欲しくなった瞬間”に動く」
「王族でも、神でも」
その瞬間――視界の端が光った。
《視聴者数:220,479》
〈コメント:来た“太客扱い”〉
〈コメント:設計で焦らす煽り屋w〉
〈コメント:王族を客にする気満々〉
《神コメント:良い……》
《神コメント:太客を焦らすのは基本》
《神コメント:だがやりすぎると拗ねるぞ》
《神コメント:拗ねても投げるけどな》
『最後のやつ、誰だよ。厄介すぎる』
ゼノは内心でため息をつき、言葉だけは柔らかく戻した。
「大丈夫です。ここは“癒し”の場所ですから。
相手が誰でも、まず緩める」
ガルドは肩をすくめた。
「……お前、たまに怖いな」
――
湖畔の一角では、女たちが最後の確認をしていた。
湯札の数。
果実水の仕込み。
夜用の羽織。
ミレイが、帳面を閉じる。
「料理長の方も、問題なし。
王族向けだからって、変に飾らないって言ってたよ」
こんな時、女性の方が肝がすわっているな。
「それでいい」
ゼノは頷く。
「背伸びすると、場が歪む。
ここは“心地よさ”だけで勝つ場所です」
村の女たちが、互いに視線を交わして小さく笑った。
「……その心地よさ、作ってるのは私らだもんね」
「明日、見せてやろう」
この村は、強くなった。
武器じゃない。気持ちで。
⸻
少し離れた石段に、三つの影。
ミュラが足を揺らしていた。
耳がぴくりと動き、尻尾が落ち着きなく揺れている。
「……眠れない?」
リィナが声をかける。
「うん」
ミュラは素直に頷いた。
「明日、すごい人たち来るんでしょ?」
「そうね」
エレナも隣に座る。
湯気の向こうの灯りを見つめながら、ゆっくり言った。
「でも、私たちは歌うだけ」
ミュラは少し考えてから、ぽつりと言った。
「ねえ……逃げなくて、よかったのかな」
一瞬、空気が止まる。
リィナは笑わなかった。
その代わり、ゆっくり首を振る。
「後悔してる?」
「……してない」
即答だった。
「怖いけど、楽しいにゃ!」
怖いのに逃げたくない。そんな夜があることを、ミュラは初めて知った。
その言葉に、エレナが小さく笑う。
「それなら、大丈夫」
歌姫団としての形はまだ曖昧だ。
技術も経験も足りない。けれど――
この三人には、同じ熱がある。
“ここに立ちたい”という熱。
視界の端で数字が揺れる。
《視聴者数: 222,174》
〈コメント:歌姫団、ちゃんと始まってる〉
〈コメント:明日、王族の前で歌うのか〉
〈コメント:胃が痛い(好き)〉
《神コメント:胃が痛い(好き)》
《神コメント:推しの本番前夜、これが効く》
(神まで胃を痛めてるの、終わってる)
――
夜が深まる。
ミュラは、布団の中で目を開けていた。
眠れなかった。
耳はわずかな音にも反応し、尻尾は落ち着かず揺れている。
胸の奥が、ざわざわと騒いでいた。
「……外、変な匂いがするにゃ」
夜風に混じる、焦げたような、湿った木の匂い。
ミュラはそっと起き上がり、しばらく迷ったあと、外套を羽織った。
――ゼノのところに行こう。
理由はうまく説明できない。
けれど、ここに一人でいる方が、ずっと怖かった。
――
ゼノは、浅い眠りの中にいた。
意識の底で、湖の気配が揺れている。
静かだが、どこか張り詰めている。
祝いの前夜は、熱と妬みが一緒に集まる。
――その時。
「……ゼノ……」
控えめな声と、戸を叩く小さな音。
ゼノはすぐに目を覚ました。
「ミュラ?」
戸を開けると、ミュラが耳を伏せ、不安そうな顔で立っていた。
「ごめんにゃ……温泉湖の方から、変な臭いがしたにゃ……」
その瞬間、ゼノの眉がわずかに動く。
外から、鈍い音がした。
木が軋む音。
何かを引き倒す気配。
「にゃ……」
「大丈夫。怖くない。中にいろ」
その声だけが、やけに落ち着いていた。
ゼノは外へ出る。
――
屋台通りの奥。
暗がりの中で、人影が動いていた。
男。
顔を隠し、手には短い斧。
すでに一つ、屋台の柱がへし折られている。
「……こんな辺鄙な村が、王族だと?」
吐き捨てるような声。
妬みと苛立ちが夜気に滲む。
次の瞬間。
「――そこまでだ」
低く、よく通る声。
男が振り向くより早く、足元の地面が淡く光った。
ゼノは一歩も動かない。
《生活魔法:構造認識》
《生活導線:裏動線形成》
《空間優先権:保持》
この場では、先に場所を握った方が勝つ。
男の逃げ道は、すでに無い。
拘束の魔術。
湯気のような光が絡みつき、男の動きを止める。
「なっ……!」
〈コメント:来た妨害イベント〉
〈コメント:前夜にやることが陰湿w〉
〈コメント:王族来る=嫉妬も来る〉
《神コメント:人間らしい》
《神コメント:だが壊す奴は嫌いだ》
《神コメント:ゼノ、場を守れ》
ゼノは淡々と言った。
「壊すなら、覚悟して来い」
怒気はない。
だが、逃げ道もない。
――
音を聞きつけ、ガルド、ロイド、村人たちが次々と集まってくる。
倒された屋台、折れた柱。
それを見た瞬間、誰もが言葉を失った。
「……明日のために、整えたばかりなのに」
誰かの声が、震える。
不安が、怒りが胸に広がりかけた、その時。
「下がって」
ゼノが一歩前に出た。
両手をかざし、静かに息を整える。
魔力が湖から引き寄せられる。
荒々しさはなく、丁寧に。
折れた木が軋みながら元の位置へ戻っていく。
割れた板が繋がり、崩れた屋台が、まるで最初から壊れていなかったかのように立ち直る。
誰も手伝っていないのに、“元に戻る”という意思だけが場に満ちていた。
……数十秒。
灯りの下に“何事もなかった”が、復元される。
「……すげえ」
誰かが、思わず漏らした。
《視聴者数: 235,238》
〈コメント:修復、静かにやるのが怖い〉
〈コメント:壊すのに対して“戻す”で勝つの強い〉
〈コメント:これが場支配〉
《神コメント:いい……》
《神コメント:力を見せるな。品を見せろ》
《神コメント:太客はこういうのに弱い》
『太客の弱点、共有するな』
ゼノは振り返る。
村人たちの顔を一人ずつ見た。
「大丈夫。何も失ってない」
その言葉だけで、村人たちの肩から力が抜けた。
怒りが収まり、呼吸が揃う。
“場”が戻った。
――
捕えられた男は、ガルドとロイドに引き渡された。
「妬みってのは、面倒なもんだな」
ガルドが吐き捨てる。
ゼノは湖の方を見る。
湯は、静かだった。
(……静かすぎるな)
この場所は優しい。
だから、狙われる。
――
ミュラは少し離れたところで、その様子を見ていた。
胸の奥が、すっと静まっていく。
(……守られてる)
そう感じた瞬間、自分でも驚くほど涙が出そうになった。
ミュラはそっと袖で目元を拭いて、耳を伏せた。
「……ありがと、にゃ」
小さな声。
誰にも届かないはずの声。
だが。
ゼノは振り返らずに答えた。
「眠れ。明日、忙しい」
その一言で、ミュラは心が安らいだ。
――
村人たちは集まり、簡単な確認を終えた。
「……明日は、思い切りやろう」
誰かが言った。
「王族だろうが、何だろうが」
「この場所の良さを、見せるだけだ」
声が重なり、うなずき合う。
不安は消えていない。
だが、それ以上に、覚悟が生まれていた。
ゼノは静かに頷いた。
「楽しませましょう」
奪われないために。
守るために。
湯楽郷は明日、試される。
だがもう、独りではない。
――
湖面に星が映り、上下の境界が溶けていく。
ゼノは一人で湖畔に立っていた。
静かだ。
だが、完全な静寂ではない。
――見られている。
その感覚。
《視聴者数: 241,200》
〈コメント:嵐の前夜だ〉
〈コメント:王族どう出る〉
〈コメント:神も緊張してるの草じゃない〉
〈コメント:ミュラ、守られた回〉
『……お前たちも分かってるか』
ゼノは心の中で呟く。
明日は分岐点だ。
王族に認められれば守りは強くなる。
だが、目をつけられれば――利用される。
どちらに転んでも、もう“何もない村”には戻れない。
――その時。
ひときわ重い文字が落ちた。
《神コメント:これは試練だ》
《神コメント:場を守れるか》
《神コメント:人を守れるか》
《神コメント:そして――王族を“客”にできるか》
ゼノは静かに息を吸う。
『……守るさ』
誰に聞かせるでもなく。
湯楽郷はもう自分一人のものではない。
歌う少女たちがいて、働く村人がいて、ここで癒やされる誰かがいる。
だから――
「奪わせない」
《神界:観測優先権 ゼノ保持》
湖面の膜が、僅かに光った。
――
夜明け前。
湯楽郷は眠らない。
湯気は絶えず、光は静かに灯り続ける。
王族来訪前夜。
嵐の前の静けさの中で、物語は次の扉の前に立っていた。
今日、試されるのは――
“力”ではなく、“在り方”。
そしてその先で、太客たちはこう囁く。
《神コメント:明日、祭りだ》
《神コメント:財布の紐はもう切った》
《神コメント:あとは心を奪われるだけ》
――――
次回
第14話 王族、温泉を前にして理性を失う




