第12話 王都の視察と、逃げる猫
朝の温泉湖は、まだ眠っているように静かだった。
湯気は薄く、湖面は鏡のように空を映している。
鳥の声だけが、控えめに響いていた。
――その静けさを、馬蹄の音が破る。
村の入口に現れたのは、整った装束の男。
年の頃は三十前後。背筋は真っ直ぐで、言葉の端に癖のない威圧が滲む。
「王都よりの使者である!」
村人たちが、息を止めた。
王都。
その二文字は、この辺境にとって“天気”みたいなものだ。
良くても悪くても、逆らえない。
ゼノはゆっくり歩み寄る。
「何のご用でしょう」
「王都より伝達だ。湯楽郷の開業、すでに噂は届いている。
王族方が興味を示されている」
男の視線が、湖へと向いた。
半透明の膜に包まれた湖。
湯気の向こうで揺れる光。
人工とも自然ともつかぬ、不思議な空間。
(……噂以上、か)
王都には浴場がいくらでもある。
だが、これは“浴びる”ではなく“魅せる”を理解している造りだった。
地方の小村が、なぜ。
使者は目の前の青年へ視線を戻す。
値踏みする視線。
成り上がりか。運の男か。
――どちらにせよ。
軽んじるのは危険だと直感していた。
「ついては――正式開業前に、王族方の先行視察を許可せよ」
空気が一瞬、重くなる。
王族。
断れば、面倒な未来しか見えない。
だが、ゼノは即答しなかった。
その“間”に、神の窓が開く。
《視聴者:128,430》
〈コメント:王族イベントきた〉
〈コメント:政治ルート解放〉
〈コメント:丁寧に握れ〉
〈コメント:いや煽れ〉
《神コメント:太客が来たぞ》
《神コメント:これが“公式案件”か》
《神コメント:逃げるな、だが頭は下げるな》
『うるさい。助言の顔した野次が混ざってるぞ』
ゼノは軽く息を吐き、使者を見る。
「分かりました」
穏やかに答える。
「正式開業前日。
“招待”という形でお迎えします」
使者の眉がわずかに動く。
「招待、だと?」
「はい。王族方をお客としてお迎えします」
ほんの僅かな緊張が走る。
王族を客扱い。
それは礼ではなく、立場の宣言だ。
使者は一瞬だけ黙り――やがて頷いた。
「……よかろう。伝えておく」
馬が翻り、去っていく。
残ったのは静寂と、遅れて戻ってきた呼吸。
そして。
一斉に、コメントが弾けた。
〈コメント:主導権握った〉
〈コメント:格が出た〉
〈コメント:ゼノ、煽り屋成分増えてきたな〉
《神コメント:客として迎える、だと?》
《神コメント:上下が反転した》
《神コメント:今、王都より上に立ったぞ》
金色の光が降る。
《投げ加護:3,200》
ゼノは目を細める。
(王都を味方につければ、この村は守れる)
だが同時に、
“利用される側”にはならない。
その覚悟だけは、決めていた。
――その数刻後。
「待てーっ!」
湖の方から、村人の叫び声。
ゼノは振り向く。
走る影。
小柄な少女が、温泉エリアを駆け抜けていた。
少女は、湯気の立つ石畳を駆ける。
濡れた地面。
本来なら滑ってもおかしくない。
だが、彼女は違った。
足先が感覚を読むように着地し、身体の軸がぶれない。
尻尾がふわりと揺れ、バランスを取る。
(尻尾……?)
「こっちだ!」
村人が声を上げる。
少女は一瞬だけ振り返り、にっと笑った。
その隙に、低い柵を軽々と跳ぶ。
猫のような動き。
だが、逃げ場は限られていた。
湖の縁。
湯気の向こうは、水。
行き止まりに気づいた瞬間――背中がきゅっと縮こまる。
「……あ」
そして叫んだ。
「違うの! もう開いてると思っただけニャ!」
……ニャ?
追いついたロイドが息を切らす。
「金も持たずに入ろうとしたんだ!」
湖の縁でとうとう捕まった。
「は、離してにゃ!」
連れて来られた少女は、ゼノの前に立たされた。
そこでようやく、全員が言葉を失う。
――可愛い。
白銀に近い淡い髪。
大きな琥珀色の瞳。
頭には小さな猫耳。
腰の後ろで、ふわりと揺れる尻尾。
獣人。
だがそれ以上に。
顔立ちが、整いすぎている。
計算されたような涙目。
「ご、ごめんなさい……。
温泉、見てみたくて……」
上目遣い。
村の男たちが一斉に沈黙した。
(……危険だな)
ゼノは直感した。
そして神界は、もっと早かった。
《視聴者:198,700》
〈コメント:猫!?〉
〈コメント:急に可愛いぶっこんでくるじゃん〉
〈コメント:推しが増えた〉
〈コメント:獣人アイドル枠きたああ〉
《神コメント:かわいい》
《神コメント:かわいい》
《神コメント:かわいい(大事なことなので三回)》
《神コメント:財布解放》
光が降り注ぐ。
《投げ加護:12,800》
《投げ加護:15,000》
《投げ加護:16,500》
《投げ加護:17,000》
《投げ加護:18,700》
ゼノは、ニヤリと笑う。
『課金バトル、いいねえ』
「名前は?」
「ミュラ、です……にゃ」
語尾が自然すぎる。
甘え方が、息を吸うみたいに身体に馴染んでいる。
「どうして金を持たずに?」
「もう空いてると思ったの。
人がいっぱいいれば、紛れられるかなって……
それに音楽があるって……」
「音楽?」
ミュラは一瞬、視線を落とした。
「王都で……
歌い手になりたかった。でも、獣人はダメだって」
空気が静まる。
「顔だけ可愛いって言われて……
芸はないって」
声は震えている。
だが――ゼノには見えた。
瞳の奥に宿る、燃えるような“野心”。
(この子、ただの迷子じゃない)
(勝ちに来てる)
神のコメントが、やけに真面目になる。
《神コメント:王都の“枠”の話か》
《神コメント:この世界、まだそこだな》
《神コメント:ゼノ、選択だ》
『わかってるよ』
そして。
《システム通知》
《加護発動可能:感情解放》
ゼノは、湖面に視線を落とす。
《生活魔法:環境調律 優先権保持》
神の加護は、直接は触れない。
必ず、ゼノを通る。
湯が一瞬だけ光り、
加護が“整形”される。
ゼノは息を吸う。
ここで裁くか。
ここで拾うか。
――俺は、嫌いなんだ。
「芸がない」と言い切って、可能性を潰す世界が。
「ミュラ」
優しく名を呼ぶ。
「……にゃ?」
「ここで歌ってみるか?」
ミュラの目が大きく見開かれる。
「え……?」
「芸がないと言われたなら、
今ここで証明すればいい」
〈コメント:やれ〉
〈コメント:即興イベント!?〉
〈コメント:ステージ空いてるぞ!〉
《神コメント:やれ》
《神コメント:今だ》
《神コメント:太客の前で“試供品”を出せ》
『言い方』
ゼノは湖中央のステージへ視線を向ける。
「……緊張していい」
静かに言う。
「怖いなら、怖いまま出ればいい。
歌は、上手い下手だけじゃない」
ゼノが指を鳴らす。
透明な足場が、湖面からせり上がる。
滑り止めの薄い膜が張られ、湯気の流れが舞台の周囲だけ整う。
村人が息を呑む。
「……今の、何だ」
「舞台が……空気を吸ってるみたいだ」
ミュラの尻尾が、小さく震えた。
「歌っても……いいの?」
「もちろんだ」
ミュラはステージに立つ。
小さな身体。
震える指先。
逃げない。
そして、歌い出した。
――未完成。
――不安定。
――上手いとは言えない。
だが、誤魔化しがない。
声は真っ直ぐで、野性味がある。
可愛いのに、噛みつくみたいな音が混じる。
湯気が揺れた。
湖が、応えた。
《加護発動:感情解放》
《感情共鳴率:上昇中》
頑張れ、という感情が共鳴して広がる。
《視聴者:217,118》
〈コメント:うわ、刺さる〉
〈コメント:下手じゃない、必死が聴こえる〉
〈コメント:推す〉
〈コメント:三人目確定〉
《神コメント:胸が熱い》
《神コメント:投げ加護止まらん》
光が降り続く。
《投げ加護:41,000》
《投げ加護:88,000》
《投げ加護:120,000》
『おい誰だよ、殴り合ってるの』
ミュラが歌い終える。
息を切らし、立ったまま俯く。
誰も、すぐには拍手をしなかった。
それほどまでに、胸の奥を掴まれていた。
言葉にする前に、感情だけが先に溢れた。
――ぽつり。
誰かが手を叩く。
それを合図に、村に音が戻った。
拍手。
湯が揺れて、光が跳ねる。
ミュラは涙目のまま、必死に顔を上げた。
「……どう、でしたか?」
ゼノは笑う。
「芸がない?」
一歩近づく。
「嘘だな」
ミュラの目に涙が溜まる。
「じゃ、じゃあ……わたし……」
ゼノは、わざと少し間を置く。
焦らす。
“客”に余韻を渡す。
そして言った。
「ここで、続けるか?」
「……え?」
「歌姫団として」
尻尾がぴんと立つ。
「ほんとに?」
「ただし、努力はすること」
ミュラは、泣き笑いで頷いた。
「やるにゃ!」
〈コメント:加入きたあああ〉
〈コメント:ユニット完成〉
〈コメント:王都アイドル戦争開幕〉
《神コメント:祭りだ》
《神コメント:視察前日に爆弾仕込んでて草》
《神コメント:王族が来る日に“猫”がいるの、強すぎる》
ゼノは空を見上げる。
『まだまだ楽しませるぜ』
(王都の視察)
(新メンバー加入)
(開業前日)
噛み合いすぎてる。
――つまり。
ここから、揉める。
だが、揉めるなら“こっちの土俵”でだ。
ゼノは小さく笑った。
「さて……面白くなってきたな」
湖面がきらりと光った。
その光は、湯気の向こうへ消え――
王都へ届く噂の形を、静かに変えていった。
《神界:観測強度段階上昇》
――――
次回
第12話 王都の視察と、逃げる猫




