8.想定外
「気持ちわる」
「…黙れ」
「何なんだ、その手紙。お前がうっすら微笑むとか雪でも降るんじゃねーの?頼むからやめてくれよ、俺今日当直なのに」
「……………。」
雑音を撒き散らす同期を無視し、今日届いたばかりの手紙を開く。
あの日、覚書に署名をもらうために彼女の屋敷を訪ねた日、私は思いがけず彼女の聡明さを知ることとなった。
おそらく彼女は気づいているのだろう。
私が身分を隠している事に。
話の途中で雲行きが怪しくなり始めた時は、正直言って婚約の継続は難しくなったのだと思った。
…そして、内心それに激しく動揺する自分がいた。
『 親愛なるルーカス・エドワーズ様
お変わりないですか?
こちらはもうすぐ期末試験を迎えます。
おおよその想像はつくと思いますが、私の成績は留年すれすれの低空飛行です。
低空でもいいので、不時着せずに卒業出来るように努力します。それではまた。 クレア・ベゼル
追伸 もし今回全ての単位が取れたら、ご褒美にまたあの髪型で会いに来て下さい。 』
「…まずい」
思わず口に出る。
「何が」
「…想定と違う」
「修正しろ。出来ないなら撤退がセオリーだろ?」
ザックの言う事は最もだ。…これが仕事であれば。
自分でも自分がおかしな事には気づいている。
覚書に署名を受けたあと、ふと、次に彼女に会うのはひと月後だなと頭をよぎった。
そして気づけば、自覚がないまま口から言葉が出ていた。
『手紙を書く』と。
彼女の顔に困惑が浮かんだのは明らかだったが、こうして何だかんだ3週間、短いながらも手紙のやり取りが続いている。
問題は、自分がなぜその様な事を口走ったのか。
彼女と話してみたかった。
それは間違いない。
ハワード殿亡き後の彼女の生き様を知りたかった。
調査資料だけではわからない、彼女の思考や感情を。
なぜそう思うのか。
…答えはわかっている。
あの瞳だ。
まるでガラス玉のような瞳。
常に微笑みをたたえた人形のような瞳。
彼女の瞳には…何も映っていない。
ただこの世界を映像として捉えているだけ。
そう、私の事も。
だから、次また会う時には、きっと初めて会うかのような顔をする。
それでもいいと思っていたはずだ。
あの瞳の持ち主こそ自分に相応しいと…。
だから婚約を申し出た。
再び彼女からの手紙に目を落とす。
最初は業務連絡のようだった手紙も、最近は冗談が混じるような文面に変わり、そして、手紙の内容が気安くなっていくほどにわかった事がある。
…恐らく彼女は、当初の想定よりも可愛いらしい人なのだろうと。
「ルーカス、長考中に悪いけど今夜の合同捜査の件だ。よく読んどけよ」
同期の声で現実に返る。
そして目の前に突き出された資料を読む。
「…ああ」
「そんな嫌そうな顔するな。女一人落とすぐらい朝飯前だろ?」
「…簡単に言ってくれるな」
私の身分が知られようと、そんなことはどうでもいい。…いずれは彼女の知るところになる。
だが、仕事だけは、今は絶対に知られてはならない。
それ以上に…例えただの映像だとしても、彼女の瞳に映りたくない。
そう…思っていたのに。
「ルーカス様、どうなさったの?あちらに気になるものでもありまして?」
「い、いえ、スカーレット嬢。さすがモリソン男爵の夜会だと感心していたのです。会場の装飾も素晴らしいですが…令嬢はそれより遥かにお美しい。さすがモリソン男爵の秘蔵の宝だ」
「まぁ!ルーカス様ったら……」
なぜ…なぜ彼女がここにいる…!?
なぜここで給仕係を……はっ!
「スカーレット嬢、もしや今夜の料理は……」
「まぁ!さすがルーカス様ですわ。そうなのです。都で今一番人気のレストランごと出張させたのですわ。お父さまったらやることが派手で……お恥ずかしいですわ」
「ははは。さすがモリソン男爵だ」
天を仰ぐとは、まさにこの状況にこそ相応しい。
…きっともう、色々とどうにもならない。
それだけは、はっきりと理解した。