7.署名
今日は土曜日。
そう、彼との約束の日。
緊張して臨んだはずだった。
彼を玄関で出迎えるまでは。
「ええと…エドワーズさ…ま…?」
「ああ、おはよう…には少し遅いな。ご機嫌ようクレア嬢。…なんだ、そのおかしな顔は」
「エドワーズ様なのですか?……か、か、」
「…か?」
「…かっ、かわいいですわ!何ですの!?その少年がちょっとだけ背伸びしたような……かわいいですわ!」
「はぁっ!?頭でも打ったのか!?」
「かわいいですわ!」
11時少し前に屋敷へやって来たエドワーズ氏は、破壊力がすごかった。
休日らしくラフな白シャツに黒いパンツスタイル。それだけでも普段の怖さ半減だったのに、特筆すべきはその髪型!
だって、だって、いつもはこれでもか!っていうほどキッチリかき上げられた前髪が、今日はフワッと下りていて、髪の毛全体がちょっとだけ毛先がクルって巻いていて…!
「どうしていつもその可愛い髪型にしないのですか?」
「…もうやめろ。次言ったらその口を縫う」
「ええ?褒めてますのに?」
「可愛いと言われて喜ぶ男はいない」
そんなものかしら?
それにしてもびっくりだわ。
彼って眉毛が少し隠れるだけで、途端に童顔になるのねぇ。
とりあえず応接に案内して、お茶を出す。
「…見るな」
「えっ私見てました?ごめんなさい!私…クルっとした毛先が好きなんですの。…かわい、いえ、何でもありませんわ!」
いけないいけない。すっかり趣味に走ってしまったわ。
今日はこんな風に始める予定ではなかったのに…!
「はぁ〜……。どうにも君と話すと調子が狂うな」
「…そうですか?口調はいつも通りですわよ?もう少しかわいく…」
「針と糸は」
「もう言いません」
…そうよね、外見が違っても、中身はルーカス・エドワーズその人だものね。
…気を張り直さなきゃ。
「先日の覚書の件だが、今日は署名をするという事でいいな」
「あ……」
「……この期に及んでまだ何か?」
「え、ええ。やはり婚約が解消になる時の事も決めておきませんか?」
エドワーズ氏がわかりやすく声を低くする。
「…なぜ」
「…お互いを、よく知らないからですわ」
「何の不都合が?世の中には結婚式当日まで互いの顔も知らなかった夫婦がごまんといる」
「それは……そうですわね。では、正直に申し上げます。私が、あなたに、相応しく無いと思うからです」
「…理由は?」
……それは貴方が一番ご存知のはずなのに。
「あなたは…ただの公務員ではないでしょう?」
エドワーズ氏がハッと顔を上げる。
「そして…商売をされている方でもない」
「…それは…」
「何かご事情がおありなのでしょう?」
エドワーズ氏の瞳が少し揺れる。
「いや…それは、そうなのだが……」
「ですから、とりあえず謹んで婚約をお受けいたしますわ」
「…え?」
「見ての通り、私にあるのは事情だらけですわ。お互いにあまり人には言いたくない事情を抱えたもの同士、利用し合うというのはいかがでしょう?」
「利用し合う……」
「ええ。でも、その事情が運良く消え去るかも知れないでしょう?…その時には、円満に婚約を解消しませんこと?」
どこか一点を見つめて、何かを深く考え込むエドワーズ氏。
「…なるほど。君は存外頭が良かったのだな」
「…はい?」
「私の後輩というのもあながち嘘では無いらしい」
「はい?」
「だが…まだまだ甘いな」
「だから…何ですの?」
さっきから彼は何を言ってるの?
「考えた結果、やはり婚約の解消はあり得ない。という訳で、このまま謹んで受けて頂こう。ほら、ペンだ」
「え、ちょ、ちょっと待ってください!私の話聞いてらっしゃいました?」
「ああ、しっかりと。ほら、早く署名を」
「なぜです!?なぜその結論に…!」
「私の事情は解決しない。…永遠に」
「え…?」
「そして、君は十分私に相応しい」
その日私は名前を書いたのかしら。
もうそれすらも…記憶にないほど衝撃だった。
ルーカス・エドワーズ氏が…少し、ほんとに見逃すほど少しだけ、微笑んだから。