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63.上司

「…罠、だな」

「罠……ですか」


 高く昇っていた太陽はいつの間にか橙色へと姿を変え、エドワーズ邸別棟の応接間には西日が差していた。


 あれから私たちが本の背表紙と中身の題名を辿りながら探し出したのは、『陽気な船旅』『世界の名酒』『夜会のマナーの変遷』、そして最後に『毒にも薬にもならない小咄』……。

 最後に見つけた一冊は、下らない話を集めたジョーク集で、読んでもニコリとも笑わないエドワーズ様の沈黙をもって、私たちの背表紙の旅は暗礁に乗り上げた。



「私……父の前ではけっこういい子にしておりましたけれど、とりあえず今は彼の頭を引っ叩きたい気分ですわ」

 床に座り込み口を尖らせて文句を言う私の姿を見て、エドワーズ様が目を見開く。

 そして…

「ははは!頭を引っ叩かれるハワード殿か!」

 …笑った。

 あのルーカス・エドワーズが笑った。

 ジョーク集ですら冷たい視線で凍らせていた、あの……


「…もう、今さら……だな」

 エドワーズ様が私の隣に座り、静かに言葉を紡ぐ。

「君の父上……ハワード・ベゼルは私の上司だった」

 私はただ一度だけ頷いた。

「申し訳ない話だが、おそらく君よりも私の方が彼と過ごした時間は多いのだろう。上司というよりも、人生の師のような人だった」

 人生の師……

「父は…仕事中はどのような人間だったのですか?」

 エドワーズ様がチラッと私の方を見る。

「鬼のような人だった」

「鬼…?」

「ああ。ニコリとする事もなく、ただ淡々と…いや、少しのミスでもしようものなら理路整然とひたすらその箇所を指摘するような…胃に悪い……人だった」

「まあ…!いえ、何となくわかりますわ」

「…そうか」


 ふと蘇る父の記憶。

 優しかったか…と言われれば、優しく振る舞うように努力しようとしてくれた、という人だった。

 とにかく、わかりにくい人だった。

 彼に、愛されているのかも。


「私、今はこんな風ですけれど、女学生時代はそれはもう絵に描いたような優等生だったのです」

「…だろうな。マーリン大に飛び級で入るなんて普通じゃない」

「父のせいですわ」

「…お父上の」

「ええ。ある日私の成績表がなぜか父の元に送られたのです。最優秀学生で表彰された時のものですわ」

「へえ。……今の姿は擬態かなんかか?」

 エドワーズ様が堂々と失礼な事を言う。

「……こちらが真の姿で申し訳ない事です。ええと、そうそう、私、褒めてもらえるものだとばかり思って父の帰りを心待ちにしておりましたの」

「だが……」

「その通りです。8教科800満点中799点のたった1点、たった1点について、減点箇所の考察と次回へ向けての改善レポートを提出させられましたの」

「…鬼、だな」


 あの日初めて父の前で泣いてしまったのよね。

 あの時の父の狼狽ったら……


「…それ以外でも気難しくて、食べ物の好き嫌いも多くて、人の好き嫌いも激しくて……。そんな父でも……帰って来て欲しかった。大学での恥ずかしい成績を怒られてもいい。屋敷の中を走る姿に小言を言われてもいい。たまにでいいから……また帰って来て…欲しかった」

 エドワーズ様が、そっと私の肩を抱く。

「もし父が何かを残したのなら、私は諦めたくありません。きっと、私が喜ぶようなものは出てこないでしょう。それでも……あの屋敷に、私に、託された。……そう思うから」

 そうでしょう…?お父さま。

「もちろんだ。私も諦めるつもりは毛頭無い。…私だって、ハワード殿の死は……心にしこりのように残っている」

「…そうなのですか?」

「ああ……」

 それ以上は話せない事…なのでしょうね。

 けれど、彼と父の話ができてすごく嬉しかった。

 きっとギリギリの線上の話をしてくれたのだと思う。


「何にせよ、振り出しに戻る……だな。もう少し本に詳しい人間の知恵が欲しいところだが……」

「…なぜでしょうね。お向かいにいる商会の息子さんの顔が浮かびましたわ……」

「奇遇だな。会えば文句の一つも言ってしまいそうだが、私も癖毛の彼の顔が浮かんだ」

 二人で目を見合わせて、歩き出す。


「夕食にでも誘うか……」

「エドワーズ様からの誘いならきっと断りませんわ」

「…なぜ」

「オリバーは、私よりあなたが好きなのですわ」

「はっ!?」

「可愛がってやって下さいまし」

 オリバーが聞いたら激怒しそうな会話を交わしながら、私たちはゆっくりと歩く。

 時々上がる彼の口角と、時々尖る私の唇とともに。

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