4.覚書
「ふわぁ〜……」
「ベゼル…淑女としてどうなの、そのあくび」
「ん…あ、オリバー…おはよう」
「また徹夜?締切前のレポートなんかあったっけ?」
「…違うのよ。ちょっと覚書の作成に手間取って……」
「覚書?」
「そう。…婚約の」
3日前の夜にエドワーズ氏が怖い顔で置いていった書類。
さすがにこれ以上待たせて彼の眉間の皺を深くしてはたまらないと、2日かけてせっせと中身を確認した。
「要はね、婚約期間中の諸々に関する取り決めだったのよ。どう過ごすべきか、とか、月に何度会うか、とか……」
「…え、それって……」
「だから足りないところを加筆して、清書して…」
「ちょっと待って、君…何したの?まさか覚書って…」
「…え?婚約の解消事由まできちんと加えて書面にしたのだけど…」
「……まさかそれ、本人に渡してないよね?」
「えっ?ええ、本人には…。ただ……」
『クレア・ベゼル様ですね?お仕事お疲れ様でございます。今日から送迎をさせていただきますのでよろしくお願いします』
『…送迎、ですか?』
『はい。ご自宅と職場の間を責任を持ってお送りするようにと…エドワーズ様からの依頼でございます』
「というわけで、毎日朝と夜に黒塗りの車がやって来て…。何度も何度も断ったのよ?ボロボロの私が乗ったら車の価値が落ちるって……」
「……………。」
「それでようやく今朝書面が整ったから、運転手の方に預けちゃったの」
「……………。」
「オリバー?どうして白目になってるの?」
「ルーカス・エドワーズ(以下「甲」という)と、クレア・ベゼル(以外「乙」という)は、双方の合意の元、以下、婚約に関する覚書を交わす。第一条、目的………何だこれは」
昼夜なく光が灯る不夜城。
もはや何時かもわからない時刻、執務室の私の元へ同期の男がある書類を持って来た。
「何だこれは、じゃないだろ。お前の愛しのクレアちゃんからの待ちに待った返事だろうが」
「…誰が愛しの、だ。彼女がそういうものじゃない事はお前だって……返事?」
「そうだよ。お前なぁ、何を勝手に運転手雇ってんだよ。個人的にでも何でも上に報告しとけ。ベゼル邸の見張りが職質かけたって言ってたぞ。それ所持品検査で…あー…聞いちゃいねーな」
「……………。」
これが返事だと…?
この…どう見ても覚書にしか見えないこの書類が?
「…第6条面会…甲及び乙は互いに面会の義務を負わないこととする。面会が必要な特段の事由が発生した場合は……都度書面にてその旨を申し出……なんだこれは!」
「ぶははは!お前…全然相手にされてないじゃないか!あの、完全無欠で血も涙もない鬼捜査官のお前が!」
「……黙れザック…」
「あーあ。せっかく護衛対象に手ぇ出して婚約者の椅子まで手に入れたのになぁ!ぶくくく……!」
「…黙れ」
「素直にデートに誘えばよかったじゃないか。い と し の…悪い悪い、ほんと冗談だって。ね、銃…下ろそうね、ルーカスくん」
「…次口を開いたら骨まで消す」
冗談じゃない。誰が愛しの…だ。
彼女はそういうものじゃない。
…守らねばならない相手、ただそれだけだ。
クレア・ベゼル。
動く本物の彼女を初めて見たのは、上司の葬儀の時だ。そう、彼女の父上、ハワード・ベゼルとその奥方の。
ハワード殿が目に入れても痛くないほどに娘を溺愛していたのは有名だった。
いつもは鬼のように厳しい上司が唯一目尻を落とすのは、〝クレア〟の名前が出る時だけ。
そのクレア嬢は、突然の両親の死を目の前に、普通の令嬢であれば取り乱し、泣き喚いても仕方ないような場において、ただ淡々と弔問客に頭を下げていた。
ハワード殿の…決して多くは無い遺品を手渡した時、その一つ一つに目を通し、一粒だけ涙をこぼして微笑んだ姿が今も頭に焼き付いている。
事故として処理されたハワード殿の死。
この仕事をしていれば、そうなるのは仕方がない。いずれ自分もそうして人知れず消えていく。
例えそれが家族だろうが、真実を伝える事は許されない。
それが……秘密警察の定めだ。
本気で見合いをしたわけじゃない。
…ただ一度、彼女と言葉を交わしてみたかった。
自分の師そっくりな榛色の髪と瞳を持つ彼女と話してみたかった。
それだけで、終わるはずだった。
想定外だったのだ。
…彼女が切り出した結婚の条件が、思いがけず自分にとって都合の良いものだったから。
この仕事をしていれば、家に帰れないことなどザラにあるし、何よりも…諜報活動の相手は、女である事も多い。
そう、条件が…良すぎたのだ。
…それだけだ。