35.逮捕
「…ルーカス、行っちゃったわね」
「そうだな。アイツ作業服恐ろしく似合ってなかったな」
「そこはどうでもいいわよ。大丈夫かしら…。だって、彼女…10日間も他の男の所に……」
「…ま、大丈夫じゃねーの?」
「…何でよ」
「アイツ言ってただろ?〝変わらない〟って。どんな姿でも、クレアちゃんが無事ならそれでいいんだろうよ」
「……………。」
間違いない。彼女がここにいる。
最上階スイートルームの風呂場で工作班とともに作業を行いながら、それでも私の背中は彼女の視線を捉えていた。
美しく装い、見事に化粧を施されてはいるが、間違いない。……クレア嬢だ。
元気そうでよかった。…本当に、よかった。
ヤツを捕らえるための絶対条件は、〝彼女がここにいる事実〟だ。偽証も証拠隠滅も、彼女の存在が許さない。
「…やはり間違いないですね」
工作班の一人がボソリと小さな声で呟く。
「…おそらく何かを故意に流してます。粘性の何かを」
「…!」
ああ…そうか。君が頑張ってくれたのか……。
確証は無いが、恐らくそうなんだろう。きっと、塩水とゆで卵のような何かを、君が成し遂げたんだ。
「…引き上げましょう」
工作班の掛け声で風呂場を出る。
そして部屋の扉の前で頭を下げる。
出口の方を振り向くその一瞬、もう一度彼女を見る。
いつもと変わらない穏やかな微笑み…だがどこか寂しそうな彼女の姿を目に焼き付ける。
必ず…必ず迎えに来る。
だから、もう少しだけ…待っていてくれ。
彼…また痩せたみたい。
眠れていないのかしら。
検査のため部屋にやって来た配管工事の男性達の中に、作業服が似合わない彼がいた。
ずっと背を向けていたけれど、帽子から覗く黒髪も、眼鏡越しに見えた灰色の瞳も、間違いなく彼だった。
追い縋りたかった。彼の背に追い縋って、今すぐここから連れ出して欲しかった。
また少し痩せた彼に、心配かけてごめんなさいと謝りたかった。
けれど彼の背が、今じゃないと語っているようで、ただただ見つめる事しかできなかった。
きっと今日は、わざわざ会いに来てくれた。そんな気がした。
彼が追いかけているのがヴィンセント・アンダーソンならば、きっと本番は…明日。
そう、だから何も感じなかった。
目の前で、黒服が、カールが、ヴィンセント・アンダーソンが、大勢の人間に銃を向けられて、後ろ手に手錠をかけられる姿を見ても。
最後にアンダーソンが、黒い瞳で私を見つめた時も。
いつものように少し微笑んで、彼を見送っただけ。
だから彼も薄く笑って、静かに私に背を向けた。
今日は朝からどんよりとした曇り空で、なんてこの日に相応しい天気なのかしらと思ったわ。
雨が降っても走れるように、ドレスではなくて掃除婦の格好を選んだのもこの空のため。
あなたは今日どんな姿で来るかしら。それしか頭になかったの。おかしいわよね。
現れたあなたは、いつものあなただった。
きっちりと整えられた黒髪に、獲物を射抜くような鋭い灰色の瞳。体の線に合ったシャツを着て、細身のスラックスに革靴。きっとその服は、色別にきっちり並べられたあの不思議なクローゼットから選んだのね。
ただ一つ違ったのは、体から腰にかけて巻かれたホルスター。似合って無いとは言わないわ。あまり見たいものでも無いけれど。
朝10時になる前に、1022号室の扉から沢山の人が入って来た。
皆両手で銃を持ち、大声で何かを叫んでた。
人波をかき分けて、一際体の大きな男性がゆっくりゆっくりと前に進み出る。
アンダーソンはその様子をとても優雅に眺めていた。ゆったりとソファに腰をかけ、やはり琥珀色の液体を揺らしながら口端を上げて、まるで客人を迎えるかのようだった。
壁際に佇み、黙ってその様子を見守った。
体の大きな男性が、何か紙を読み上げた。と同時に再び動く人の波。
だけど黒い髪のあなただけ、人の波に逆らって、私の方へ駆けてきた。
伸ばされた手を握り返すより早く、私はあなたに吸い込まれた。
彼の肩ごしに黒い瞳を見送って、ようやく私は瞳を閉じる。
そんな…曇り空の今日だった。




