33.船の事故
「アンダーソン様、私、貧乏性ですの」
「おや、唐突に何だい?」
その日の明け方、スイートルームの主人は夜会服で帰って来た。
気づいていたけれどもちろん無視して、私は使用人用の続き間で狸寝入りを決め込んだ。
一度だけ部屋の扉が開いたが、私がいる事を確認すると彼はそのまま扉を閉めた。
…悪人が紳士っていうのも頭が混乱する原因なのよね。
それはそうとして、再び顔を合わせた彼に私は切り出した。
「私の事、お調べになったのでしょう?」
「…ああ、そうだね。調べさせてもらった」
彼の彫りの深い顔によく似合う黒い瞳が、悪びれる事なくそう口にする。
「…では、両親がいない事も」
「…船旅途中での難破事故だったと。気の毒な事だ」
事故…船旅…難破……
「私、親の死に顔も見ておりませんの。それはどうでもいいのです。つまり、それ以来ずっと大学に通う以外は働き詰めだったのですわ」
「…いたわしい事だ」
「いえ、ですので、働いていないと気持ちが悪いのです」
アンダーソンが怪訝な顔をする。
「私の元にいながら働く必要など無い」
「そうではありませんわ。私はここに掃除をしに来たのです。つまり、ここにいる間、時給分は働かせて頂きますわ」
彼の目が見開かれる。
「…時給分掃除を?」
「ええ。それが本分というもの。10時から3時までは掃除をします。それ以外は貴方の望む通り過ごしましょう」
彼の眉根が寄る。
「…お嫌なら、ここであの方たちを相手に数学の教師をしますわ。私、家庭教師もしておりますの」
そう言いながら扉前で立ち尽くす黒服二人を手で指し示す。
指された黒服は、思いっきり首を横に振っている。
「…はぁ…。好きにするといい。ただし、人は付けさせてもらう。…悪いが」
アンダーソンが溜息混じりに許可を出す。
「かまいませんわ。体を動かせればそれでいいのです」
そう、それでいいの。
掃除道具に触ることが肝心なのよ。
その日から私は最上階フロアの掃除に取り掛かった。もちろん教わった通り寝室などの生活空間は丁寧にやったが、ことさら力を入れたのは…風呂場だ。
「…この階の風呂場は、主人の部屋以外使われていないはずですが」
「あら、でしたらなおさらですわ。例の黒い生物は、使われて無い排水溝から……」
私の見張りにつけられたのは、例のカールだ。
彼は…切れ者だ。私の事を調べ上げたのも恐らく彼だし、私の振る舞いの一挙手一投足を見逃さずにアンダーソンに報告しているのも彼だ。
冷たそうな眼鏡がこれまた切れ者感を醸し出している。
だけど、上には上がいる。
彼が調べた私の経歴はほとんど嘘だ。
隠しようが無い事実はその通り。だけど…因果関係はほとんど偽物。
「それ以上は結構。…とにかく、おかしな動きはしないように。カーソン家に迷惑をかけたくはないでしょう?」
「…当然ですわ。ですからこうして使う道具の一つ一つをお見せしております。これは殺虫剤のホウ酸でしょ、これは水垢を取る重曹……」
彼らの中で、私の大切な人はオリバー・カーソンという事になっている。
あながち間違いではない。オリバーは私の唯一の友人で、最も関係性が深い人間だ。
ただ…こういう場合には絶対に出て来るはずの存在が出て来ない。そう、婚約者が。
私と彼は婚約して無かったのかもしれない。…口約束でも成り立つものだし。
だけど、向かいのコレット夫人に聞けば彼の存在なんてすぐに明らかになる。そうはならないなんて…もう考えられる事はただ一つ。やはり彼は、父と同じ種類の人間だという事。
両親が船旅での事故?あの人たちが溺死だったなんてあり得ない。…死に顔は、とても綺麗だったのよ。
「あ、カールさん、皆さんにシーツを出しておくようにお伝えくださいね。洗って糊付けしますので」
「…承知しました」
だけどそれは今考えてもしょうがないこと。彼に会えなければ真実なんて知りようが無い。
…違う、真実なんて今さら知らなくていい。ただ、会いたいだけ。
彼に…会うために、とにかくやるのよ。
お父さまが、なぜか私に仕込んだ知恵を使って。




